パウロは言っております:「いつまでも残るのは信仰と希望と愛です」(1コリント13:13)。私たちはキリストの信者であって、内にいますキリストが私たちの希望であるともあります。では信仰とは一体何なのでしょう。また希望とはどのように異なるのでしょうか。例えば今、自分が病にかかっているとします。あるいは経済的な必要が切迫しているとします。その時私たちは祈ります:「天の父よ、私は今病気です、どうぞこの病をキリストの十字架のゆえに癒してください」、あるいは「天の父よ、現在の私の経済的必要をキリストにあって豊かに満たして下さい」。
ところがしばしばその求めのとおりにならないことがあり、私たちは落胆し、無力感に苛まれます。そして考えます:何か自分に罪や問題があるから天の父は聞き入れて下さらないのだろうか。それとも祈り方に熱心さが足らないのだろうか、あるいは献金が少なかったのだろうか・・・」。そしてときにその落胆が深い場合、かなり深刻な葛藤を覚えてしまうのです。何故神は私の祈りを無視されるのか、なぜ聞いてくださらないのか・・・。このような状態に陥っている人に向かって「あなたの信仰が足らないからだ」と言うことは事態を深刻にするだけです。
しかし私はあえてここで、信仰と希望の違いを指摘しなくてはなりません。つまり、「神様は私の祈りのとおりにして下さるであろう」とか「癒してくださるはずだ」とか「お金を下さるでしょう」と思ったり考えたりすることは、実は信仰ではありません。これは希望なのです!私たちは自分の求めを神様に祈りによって申し上げます、そしてその通りになることを願います。そして時を待ちます。しかしいつまで経ってもそうならないのです。
何故でしょう。神は祈りを聞いて下さっていないのでしょうか。違います、神はいつも私たちの祈りに耳を傾けてくださっています。実は問題は私たちの側にあるのです。私たちの信仰が熟していないのです。私たちのうちにあるのは、希望に過ぎないのです。聖書は言っております:「すべて信仰によらないものは罪である」(ローマ14:23)。その理由はすでに「誘惑の本質について」で述べております。
さて、ここでポイントとなるのは、「神様が何かをして下さるであろう」と言うとき、これはまだ希望であって、信仰ではありません。神は信仰のあるところにご自分の御業をなさいます。では信仰とは一体何なのでしょう。私たちがどのような条件を満たすときに、神の業に与ることができるのでしょう?実は希望が「何かをして下さるだろう」と言う未来形であるのに対して、信仰とは「何かをすでにして下さった」と言う完了形の言明なのです。これは小さなことではありません。希望と信仰は同じだとすることはできません。
例えば病の癒しを例にしますと、私たちが神に祈り求めるとき、当初は「癒して下さい、癒して下さい」の繰り返しであることでしょう。そして自分の症状を見て、まだ消失していないとか、痛みが消えないとか、自分の病状を測っております。この時私たちの意識の中心には自己がその座を占めております。そしてこのような状態の時には、まず癒しは起こりません。それは私たちが希望する状態にあるからです。私たちは「自分は得た(完了形)!」と分かるまで祈るべきです。これは実は霊の機能の一つである霊的な事実を知る機能である直覚によります。ですから魂のレベルの思い(知性)による理解とか理屈による理解ではありません。
この分かることについては、よく「どうしたら神様がかなえて下さった、と分かるのですか」と聞かれますが、これも回答が困難です。つまり分かるから分かるのです。英語で言えば"I know that I know."となります。ただ、自分は得た、と分かるのです。この時にはまず間違いなく自分の病状とか必要とかから目を離して、すばらしい平安と安息に包まれ、神がすでにかなえて下さったと言う確信で喜びがあふれて、神にただ感謝するだけの心境になります。自分の抱えている問題は終わった、自分の必要はもう満たされた、と分かるからです。事実としては依然自分の体には症状があり、自分には欠乏があります、が、もはや思い煩うことがありません。「もうすでにそれはなされた!」と明確に分かっているのです。後は神の時を待つのみです。すでにかなえられている事実を具体的に手にするまで、私たちは感謝と賛美をもってその事実に水注ぎを継続すれば良いのです。神の時に、神の方法で必ずその通りになります。
イエスは言われました、「何でも祈り求めたことはすでにかなえられたと信じなさい。そうすればその通りになります」(マルコ11:24)。また「神のなさることは時にかなって美しい」(伝道の書3:11)とあります。ポイントは、実際のものを得る以前に、すでにかなえれた、あるいはすでに得た、と信じることです。信仰はすべて完了形で言い表されます。私たちがある事柄について信仰をもつ時、私たちの語る言葉は「すでにそれを得た」となります。
その時、平安と安息、そして喜びと感謝が満ちることでしょう。自分の病気とか必要などから目を離し、ただ神を見上げるのみです。それらがあることがもはや気にならなくなるのです。確かに分かるのです。その瞬間を私は「信仰の瞬間」と呼んでいます。それまでは「・・・を癒して下さい」、「・・・を満たして下さい」であった祈りが、その後は「癒して下さってありがとうございます」、「満たして下さってありがとうございます」と変化します。ある瞬間に分かるのです:「すでに得た!」と。これが信仰です。
すなわち信仰とは事実の先取りあるいは確証です(ヘブル11:1)(注)。事実は追々私たちが信じた通りになります。そして私たちの信仰の根拠は十字架にあります。すなわち「私たちは彼の打たれた傷によって、罪を赦され、病を癒された」(イザヤ53章)とあり、また「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」(2コリント8:9)とある通りです。この霊的に成し遂げられた事実が、私の主観的な事実となるのです。その瞬間は明確に分かります。私の言う「信仰の瞬間」は、別の言い方で"Inner Witness of the Spirit(御霊による内的確証)"と言われています。御霊が聖書のある言葉を通して、あるいは直接に私たちにそのことを分からせてくださるのです。私はすでに得たことを知るのです。
(注)ここの訳についてはJ.N.Darby訳がもっとも適切であると思います。彼はここで"Now, faith is [the] substantiating of things hoped for, [the] conviction of things not seen"と訳しております。"substantiating"とは"実体化すること"と言えます。一応和訳しておきますと、「さて、信仰とは願うものを実体化すること、目に見えないことを確証すること」となるでしょうか。信仰はまだ得ていないものや目に見えないことを実体化するのです。すなわち「すでに得た」と告白することなのです。私はこれを「客観的事実+信仰=主観的経験」と定式化しています。
次に大切なことは、不信仰と疑いの違いです。私たちは祈り出して間もない時には、本当に神はしてくださるのだろうか、と確信を得ません。これが不信仰です。しかし一旦信仰の瞬間を経て、得たと分かった後、実際にそれを手にするまでは時間のラグがあります。この間が試みの時と呼ばれます。私はすでに知っているのです:すでに得た、と。しかし現実にはなかなかそうなりません。その待ちの時間はどの位の長さかは分かりません。神のみぞ知る、です。この期間が長くなればなるほど、私たちは疑いの念が浮かぶようになります。
しかし注意して下さい。それは不信仰ではないのです。不信仰は罪ですが、疑い(試み)は罪ではありません!イエスでさえ私たちとまったく同様に試みられたのですが、罪は犯されませでした(ヘブル4:15)。そのような疑いは私たちの肉から生じたり、あるいは敵が私たちの思いのうちに撒いたものです。直ちにイエスの御名によって、御言葉を宣言して、その疑いを拒絶すればよいのです。そしてイエスの血による覆いによって敵を遮断しましょう。信仰を得ていれば、必ずその通りになります。神は真実です。私たちの不誠実が神の真実を無にすることはできないのです(ローマ3:3)。
希望は将来の事柄です。例えば主は必ず戻って来られます。これは私たちの大いなる希望です。信仰は現在の事柄です。私たちは目の前には存在していなくてもすでに得たと知るのです。そしてそれは真理です。目の前の状況は事実です。事実はいずれ真理に服するようになります。忍耐して信仰によってそれを得ましょう。かつての偉人はみな信仰によって神から良き物を得たのです(ヘブル11章)。すでに私たちのために十字架で血が流され、私たちの罪は赦され、病は癒され、キリストの貧しさによって富む者とされているのです。真理と事実のギャップを埋めるのが私たちの信仰であり、神の恵みです。信仰によって待ち望めば、事実は必ず真理に服するのです!