レーマの力について


かつてイギリスのコリン・アークハート(Colin Urquhart)のキングダム・フェイス・ミニストリーズ(Kingdom Faith Ministries)の夏のFaith Camp(注)に参加した時のことです。私の当時5歳の長男がイギリス人の子どもにからかわれて追い駆け回され、大声で日本語で抵抗しても相手は一向に構わず攻撃を仕掛けてきました。

辟易した彼はぼくに助けを求めて来ました。ぼくは「すとっぷ!」と大声で言ってごらんと言うと、彼は怪訝そうな顔をしつつも、相手に「すとっぷ!」と命じました。すると相手はピタッと動きを止めました。驚いたのはぼくの長男で、彼は「すとっぷ」の意味も分かりませんでしたが、とにかくあれほど日本語で抵抗しても無駄だったのに、この一言が一発で効いたことに目を白黒して驚いておりました。
(注)イギリスのほぼ中央東部のPeterboroughの平原で、約5,000人の人々と共にそれぞれにテントやキャンピングカーでキャンプを張りながら、1週間の賛美集会や各種セミナーなどを楽しむ企画。現在までKFMは日本ではあまり知られていないですが、ヨーロッパ、アフリカ、オーストラリア、カナダなどの旧英領では有名です。私の霊の母校であるBible Collegeもあり、現在ハーベストタイムの司会をしておられる元モデルのヨアンナさんや、「ドリカム」のバックバンドでトランペットを吹いているラウル・ド・オリベイラ(Raul D'Oliveira)もそこの出身です。

ここに私たちの口から語り出された言葉(レーマ)の効力の実例を見ることができます。ぼくの長男の語り出した日本語の言葉には彼の意志は反映されていたのですが、相手に対する効果を伴っていませんでした。しかし「すとっぷ」という語り出された言葉(レーマ)には、彼自身はその意味を知らなかったのに、彼の意志と相手に対する効力を伴っていたのです。

霊の世界における事情も同じです。私たちはきわめてリアルに霊の敵であるサタンとその手下の悪霊どもと日々対峙しております。その際、その相手に対して、私たちの語り出す言葉が何語であるのか、ここに有効な霊の戦いをする秘訣があります。すなわち、私たちの語り出すべき言葉は、私たちの意志を表現すると共に、彼らにとって効力をもたらす言葉である必要があるのです。イギリス人の子どもに日本語で命じても効果が無かったのに、意味が分からずに語り出した「すとっぷ」に絶大な力があることを見出したぼくの長男のように、私たちも霊の世界で通じる言葉を語り出す必要に気がつくべきです。

イエスはヨハネからバプテスマを受けて後、御霊に導かれて荒野において悪魔の誘惑を受けました。その際、その葛藤においてイエスは悪魔に対してどんな言葉を語り出したでしょうか。彼は「自分の思想」や「自分の感情」や「自分の聖書の解釈」を語り出したのではありませんでした。

彼の言葉はただ「聖書に・・・と書いてある」でした。彼の語り出した言葉(レーマ)は、聖書に書かれた言葉(ロゴス)自体でした。悪魔にとってこの聖書に書かれてある言葉自体が意味を持つのです。彼にとっては、人間の知性の生み出した思想とか、私たちの感情とか、私たちの強い意志とか、さらには私たちの「正確にして正統な聖書の解釈」さえも、何らの効果もありません。

彼が恐れるのは、私たちが聖書に書かれた神の言葉(ロゴス)を自らの口から意志と内実(信仰)をもって語り出し、それをレーマとすることなのです(注)例え、私たちにあまり聖書の「知識」が無かったとしても、悪魔は私たちよりも聖書に通じており、その絶大な価値と効果を知り抜いているのです。神の言葉(ロゴス)には神の意志とイエスの血で批准された契約の効力が付与されているのです。

だから悪魔は聖書の言葉の価値をあらゆる手段と欺瞞を用いて私たちから隠そうとするのです。それはちょうど英語を知らないでも「すとっぷ」と語り出すことにより、その効力を知った私の長男の場合と同様です。私はよく彼に命じます:「下がれサタン、お前はぼくよりもお前自身の運命について知っているはずだ。そして実際にお前の知っている通りである。お前の知っている通りになれ!」と。

サタンは自らの運命を私たちよりもよく知っているのです。それはすでにカルバリでイエスの十字架によって敗北していること。そしていずれ火の池に投げ込まれることです!そのことを彼に痛烈に指摘しましょう。彼は聖書の言葉を自分に向けられて語り出されることを最も恐れるのです。私たちは何をされてもただ黙々としている「いじめられっ子」であってはなりません。大胆に神の言葉をサタンと悪霊に向かって語り出すべきです(→「霊的戦いについて」参照)。

(注)単純に言って、<レーマ=ロゴス+信仰=霊=いのち>という方程式が成り立ちます。ロゴス自体に力があるのですが、私たちに対する益という面から見ると、信仰のあるなしが多いに関係します。そして語り出された言葉(レーマ)が命を伝達します(→「言葉と命について」)。

私たちの語り出す言葉には、また積極的な面もあります。神に祈る時、あなたはどのような言葉を用いておられますか。私たちはしばしば自分の抱えている問題とか,自分の必要が切迫しているために、焦りをもって神の御前に息を切らして無遠慮に出て、不躾に神にそのことを訴えることがあります。そして自分の思いとか感情の赴くままに言葉を弄して神に訴えかけるのです。

もちろん神は私たちの天の父としてそのような私たちを愛をもって憐れんで下さいますが、しかし覚えなくてはならないのは、神はすでに私たちの状態や必要を私たちが自分で意識している以上にご存知なのです(マタイ6:32)。よってイエスは「くどくどと祈るな」と言われます(マタイ6:7)。

ですから私たちは神の御前でまず静まり、私たちのすべてをご存知でいて下さる神を礼拝し、つねに顧みてくださる神に感謝し、その後おもむろに一言、「神様、あなたが私の必要と状態をすべてご存知でいて下さり、顧みてくださることを感謝します。お父さん、私は今、イエス様が言われましたとおり、・・・を大胆に求めます。どうぞお言葉通りにこの身になりますように」と祈ってみましょう。

自分の問題とか必要を隠すことはありません。何でも率直に申し上げましょう。そして欲しいものを何でも大胆に求めて見ましょう。何故ならイエス様がそうせよとおっしゃって下さるのですから(ヨハネ15:7;→「効果的な祈りについて」)。私たちが神の言葉(ロゴス)を、信仰をもって神に向かって、レーマとして語り出すことを神は喜んで下さいます。神は私たちが神の言葉(ロゴス)を額面通りに受け取り、額面通りに信じ、それを用いて額面通りに求めることをこの上なく喜んで下さるのです。

この点、サタンに対して御言葉に絶大な効果があるのと同様に、神に対しても御言葉は絶大な効果があるのです。ただしサタンは私たちの語り出す御言葉を恐れますが、神は私たちの語り出す御言葉を愛されるのです。

人は心に信じたことを口が語るとイエスは言われます。そして私たちはいずれ、自分の語り出した言葉で義とされ、また罪ありとされます(マタイ12:37)。私たちは自分の語り出した言葉の実を自らの身の上に結ぶのです(箴言12:14)。私の知人で日々、時々刻々、自分の境遇と待遇の不平不満をぶつぶつ言っている方がおりますが、彼はいったい何を人生の楽しみとし、人生の目的としているのでしょうか。彼はその不遇を自らの口の実として刈り取っているのです。

この世の一つ一つを詮索するならば、悪と不正と不義と不潔で満ちております。私たちはその一つ一つを自分の力でどうにかしようとしても効がありません。私たちの責務は、このような暗いこの世で、神の言葉を語り出すことです。恐れるな、ただ語り続けよ、と主はパウロを励ましました。

時にサタンは私たちが何を語っても無意味であるかのような無力感をもって攻撃しますが、その魂の感覚に騙されてはなりません。私たちの思いや感情を攻められて、私たちの魂は騙されることがよくありますが、霊は真理を知っているのです(→「霊と魂の分離について」)。私たちはよく「自分は今とても神を賛美する心境にはなれない」と言いますが、神は私たちの境遇や感情と関わりなく、賛美と礼拝にふさわしいお方なのです。自分の何かに騙されてはなりません。そのような時にこそ自分の魂を否むのです。

大胆にあらゆる境遇と条件において、神の言葉を感謝と賛美をもって語り出すべきです。すると自分の何かはたちまち神の言葉どおりに変化されます。マリアは受胎告知を受けた時、どうして処女が身ごもることがあり得ましょう、と反論しましたが、ガブリエルの「神にとっては何もできないことはない」という言葉に応答して、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように」と言って祝福を得ました。

私たちの思いと感情はとても受け入れ難いことも、神の言葉をそのとおりに語り続ける時、神は信仰によって語り出されたその言葉(レーマ)に答えて下さるのです。いったん語り出された神の言葉は無効とされず、虚しく返ることがありません(イザヤ45:23;55:11)。主が私たちの口を御自身の御言葉で豊かに満たして下さいますように!


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