ヨ ナ

−神の射程−




1.人物像



アッシリヤ帝国が世界を治めていた時代、北王国において活躍したと推測される預言者です。ヤロブアム2世の領土拡大を預言したヨナと同一人物と見られ(2列王記14:25)、ユダヤ人的選民意識と愛国心に満ちていた人物です。北の強国アッシリヤに対しては当然のごとく敵対意識を持っていたようであり、神がその首都ニネベにて宣教するように召しますが、当初それに逆らって、西のタルシシ行きの船で逃走します。ところが船長らによって海に投げ込まれ、3日3晩大きな魚の腹の中に捕らえられ、ついに神の命に従うのでした(BC785頃)。彼は敵国アッシリヤに対して宣教し、多くの改悛者を得ますが、彼の物語を通して、神の救いの射程はユダヤ人だけではなく、すべての国民であることを明らかにします。


2.主要なエピソードとその霊的意義



物 語

ヨナはから敵国アッシリヤにおいて神の言葉を宣べ伝える召しを受けますが、愛国心と選民意識のあった彼はそれを不服とし、逆の方角のタルシシ行きの船に乗って主のみ顔を避けようとします。しかしは嵐をおくり、恐れた船員たちは誰かが神の怒りを買っているとしてくじを引きますとヨナに当たります。ヨナは船底でぐっすり寝ていたのですが、自分がヘブル人であることと主の前から逃げていることを告白し、自分を海に投げ込めば嵐は収まると言うと、はたしてその通りに海に投げ込まれ、は大きな魚を送ってヨナを飲み込ませ、彼は3日3晩その闇の中に閉じ込められます。船員たちは嵐が収まるのを見ると主を恐れ、に祈り、請願を立てていけにえを捧げます。この闇の中でヨナが主に祈ると魚は彼を陸に吐き出し、ヨナは再度の召命を得て、アッシリヤのニネベに行って、神の言葉を告げます。すると王や大臣たちからして悔い改めに至り、神はアッシリヤに下そうとした災いを思い直されました。しかしヨナはこのことを不満に思いますが、は彼の仮いおにとうごまを生えさせ、また枯らせる徴を行い、ヨナがそのことを惜しむと、ご自分も同様に右も左も知らない12万人以上のニネベの人々を惜しないでおれようかというメッセージを告げました。


霊的意義

ヨナはアッシリヤの悪が神の前に届いたことを喜んだはずであり、その時には当然のことアッシリヤにの裁きが下ることを期待したはずです(ヨナ1:2)。と、同時にが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていた彼はアッシリヤで伝道することを拒みました。神がアッシリヤに寛大な措置を取るであろうことを思ったからです。こうして神の御前から逃げるのです。私たちも同様に自分の敵、あるいは裁きに値する行為に落ちている人々に対して福音を語ることに非常に抵抗を覚えるときがあります。また主の召しがあったとき、それから逃げたくなるときがあります。しかし神は私たちをご自分の召しに戻すための導きの手段をお持ちです。私たちの不従順はいずれ従順へと変えられます。この私たちの不従順においては周りの人々を巻き込むことがありますが、同時に神は彼らにもご自分が主であることを知らしめるのです。私たちも不従順に陥るとき、魚の腹の中の暗闇に閉じ込められます。しかしその闇の中で主に祈り求めるとき、再び光の下に戻ることができます。そして主に従うときに自分の思いをはるかに超えるわざがなされるのです。ヨナの物語を通して、神の御旨が全国民にあること、神は人々が滅ぶことを願っておられないこと、神の召しは私たちの不従順にも関わらず必ず成就されること、すなわち神の主権の卓越性を見ることができます。



3.神の全計画における意義



ヨナが3日3晩魚の腹の暗闇に囚われていたことは、後のイエス死と復活を意味し、イエスはこれを「ヨナのしるし」と呼び、ご自分はヨナよりも優れた者であると宣言しています(マタイ12:39−41)。すなわち自らの敵であるアッシリヤに神の言葉を宣べ伝えたヨナは、まさにご自分をなじり、あざ笑う人々のために十字架でとりなしをしたイエスの型(タイプ)です。ヨナと同様に死と復活を経てイエスは栄光化されました。完全な人間であったイエスですら、死を経られる必要があるわけですから、いわんや私たちをやです。私たちの人間的あるいは肉的な要素は必ず一旦は死を経る必要があります。死からよみがえったものこそ、まことに神にとって意義のある尊いものなのです。イエスが「悪い時代はしるしを求めるが、ヨナのしるし以外には与えられない」と言われたように、この死と復活こそが神の御霊によるもっとも卓越したしるしなのです。ヨナの物語を通して、神の御旨の射程の広さと深さを見、同時にヨナの経た経験は来るべきイエスの型であり、また私たちの個人的な歩みの型でもあるのです。


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