「死と復活の原則」について



    イエスは言われました、 「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。もし死ねば多くの実を結ぶことになる」 と。これは有名な言葉であって、しばしば「他人の犠牲になること」の例として理解され、よく文学作品などにも引用されております。もちろん現象論的には、イエス(一粒の麦)の死によって私たち(多くの実)が救われたのですが、第一義的には、 この言葉は神の定められた一つの法則を述べているのです。

    植物の種はまず地中にまかれます。そしてその種自体はその硬い殻が破壊され、その中から柔らかな芽が出てきます。その芽は時にアスファルトを破って地上に出て来ることすらあります。そして太陽の光を浴びて、すくすくと育って多くの実を結ぶに至るのです。これが神の定めた植物の実の結び方です。種がもし自分の命を惜しんで、そのままでいようとしたら、縄文時代の稲がそのまま保存されていたのと同様に、永遠にそのままであるだけなのです。その中にあるアスファルトさえ破る命の力はその現れを制限されてしまいます。すなわち、 種はまず種の形において死を経なければ、芽吹くという形での次の命は現れません。これが神の定めた命の法則です。

    私たちのうちには聖霊によって神の命が種の形で蒔かれています。 神の命の遺伝子が組み込まれているのです。これは自分が感じようと感じまいと事実です。なぜなら聖書が信じる者は永遠の命を持つと言っているからです。 問題はその命が私たちの自我という固い殻に覆われていて、その命の現れが見えて来ないことです。 私たちの生まれつきの魂は、自らの意志を通し、自らの思いを守り、自らの感情に傷を受けまいとします。すなわち、私たちは魂の本質的性向として「自己保存」という強い欲求を持っています。精神分析学的には「自己防衛機制」と呼ばれており、種々の精神病理が分類されておりますが、とにかく自我(魂)は自己の保存を意識的にせよ、無意識的にせよ、第一に求めるのです。

    一方、 神が求めておられるのは、私たちの内の神の命が、私たちを通して表現されることです (注) 。そのためにはどうしても私たちの自我(魂)という硬い殻が一旦破られる必要があるのです。 内に閉じ込められた命を解放するためにどうしても必要な過程です。これが私たちの「 自己における死 」です。

    (注)これは私たちが「神になる」ことではありません。「神の命を生かし出す」ことと、「神になる」ことはまったく異なることです。

    神はあらゆる状況や問題を通して、時には理不尽な苦難を通して、私たちを単にいじめておられるのでしょうか?時に私たちはそのように感じてしまうこともあります。例えばヨブの例を見てください。彼は何故あれほどの苦難を経なくてはならなかったのでしょうか?ヨブは当初、3人の友人の「助言」に対してあくまでも自分の正当性を主張し続け、自分は正しい、自分がこのような目に会うのは不当である、と自己弁護し続けました。彼は神に対してさえも、自己の正当性を訴えたのでした。神はその間ずっと沈黙を保たれていましたが、最後に怒涛のごとくにヨブに語りかけられました、「お前は創造の神秘を知っているか、お前は命を造れるか、お前は自然を支配できるか・・・」と。そしてついにヨブは告白しました:

    あなたにはすべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなくて、摂理を覆い隠した者は誰でしょう・・・まことに、私は、自分で知り得ないことを告げました。自分でも知り得ない不思議を・・・私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます (ヨブ記42:1-6)。

    するとこの後神はヨブの繁栄を以前の2倍にして祝福されたのです。以前のヨブは「自分は」、「自分は」、「自分は」・・・と果てしない自己弁護をし続けました。これが自我(魂)の自己保存欲求です。しかしついに彼は神の直接の語りかけによって、自我(魂)が砕かれたのです。ここにある「自分をさげすみ」とある訳は「 自分を否み 」の方が適切です。彼は自己の主張と神の言葉の相互矛盾にあって、自分を否んだのです。彼は様々な苦難を通して、ついにそのレベルにまで導かれたのでした。彼は自己から神へと転帰したのです(→「 悔い改めとは? 」参照)。

    神の御前で自己を否み、神に完全に征服されることは、何という甘美でしょうか!悔い改めの熱い涙が頬を伝う瞬間は何と言うエクスタシーをもたらすことでしょう!神の愛の重い御手に触れられ、自我 (注) が砕かれる瞬間はまさに天国に入る気分です!小さな自我を自分で保とうとすることのナンセンスを知るのです。神は手放しなさい、私に転帰しなさい、と語って下さっているのですが、小さな私が偏狭な私の自我を守るのです。そして内なる神の命を閉じ込めているのです。

      注:砕かれるべき自我という時、魂の機能そのものではありません。魂の機能そのものは必要なものであり、思い・感情・意志はますます豊かにされる必要があります。ここの砕かれるべき自我とは、神によらず、神以外のものにおいていた自分のあり方(⇒ マトリックス )です。特に自分の価値観、能力、達成、誇りなどです。そのような自分のあり方はキリストにある新しい創造としての真の自分(リアルセルフ)ではありません。このあり方が砕かれ、神をすべてとするあり方へと転帰することです。


    しかし誰でも必ず、この神の御手によって砕かれるという幸いな経験を経る瞬間が訪れます。すると後は自動的に内なる命が解放されるのです。 内なる命は殻が取り除かれれば、まったく自動的に芽を吹き出すのです。あのように柔らかな可憐な芽ですが、アスファルトさえ破って、太陽の光を求めて、成長し続けるのです。これこそ復活です。神の命は私たちの傷口から芽を吹くのです。 パウロは言いました:

    私たちはたえずイエスのために死に渡されていますが、それは、 イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示される ためなのです(2コリント4:11)。

    私たちの何かの要素がすべて無に帰する時、神の命が表現されるのです。私たちの「古い自己」はすでにイエスと共に十字架につけられています(→「 包括の原理 」)。しかし私たちの肉はその事実を認めたくないのです。私たちの大脳に刷り込まれた「古い自己」のイメージとその生き方を損ないたくないのです。すでにキリストにある「新しい自己」を得ているにも関わらず、「古い自己」のイメージを大切にして、「新しい自己」の命を出し惜しみするのです。この「古い自己」のイメージが砕かれることは、自分にとってはある種の痛みを覚える経験ですが、その死が訪れる時 (注) 、後に残るのは復活の命の現れなのです。何という栄光、何という希望でしょう! 私たちは自我(魂の命)の殻が砕かれることを恐れることはありません。それは復活への入り口だからです! クリスチャンの人生のすべてはこの「 死と復活の原則 」によって支配される必要があります。神に栄光がありますように!

    (注)よくクリスチャンは「自己にあって死のう」と努力しますが、その時にはむしろ「古い自己」がますます生きてしまうことを知るでしょう。というよりは大脳に刷り込まれた「古い自己のイメージ」がますます意識されてしまうのです。言い換えると、「肉」が刺激されて、ますます「肉」の反応が強くなるのです(この葛藤の精神病理については「 罪とは? 」参照)。 ポイントは私たちは「肉」と戦うのではなく、すでに「古い自己」は死んでいることを信仰によって認めることです。 それはすでに成し遂げられている事実ですから、あなたが自分で再度繰り返すことはできません。 ここでもポイントは信仰にあります。
     

    (C)唐沢治


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