ヤコブ

−神の御手に練られし者−




1.人物像



イサクとリベカの双子の兄弟のうちの弟。不妊の女リベカのために、イサクが祈り求めた結果、与えられた子。誕生の時(B.C.2006;異説B.C.1840)兄のエサウ(毛深いの意)のかかとをつかんでいたことから、かかと(アケブ)と同じ語根をもつヤコブと名づけられた。また騙す(アーカブ)という単語も同じ語根をもつ。このように誕生の時から兄を出し抜こうとするきわめて才知に長けた人物であり、ある意味で狡賢く、策略家でした。兄のエサウは猟を得意とする野人であったのに対し、ヤコブは穏やかで、あまり外での活動は得意ではありませんが、エサウが長子の権利などに無頓着であったのに対して、ヤコブはその権利をエサウを騙して奪い取るなど、霊的事柄に対する洞察力がありました。

しかし神は彼の生まれつきの要素を砕くために、彼よりもさらに狡猾なラバンという人物を用いて、ヤコブの魂をコツコツと砕きました。それでもヤコブはなおラバンを出し抜いて、富を作り、故郷のカナンに帰りますが、その途中、ヤボクの渡しで神と格闘し、神は彼の力の象徴であるもものつがいに触れ、彼をびっこにします。この彼の生まれつきの強さが神によって砕かれる経験の後、彼は神への信仰によって成長します。そして晩年、彼は12人の子供たちの運命についてきわめて正確な預言的祝福を与えます。いわゆるユダヤ人の12部族は彼の12人の子供から出るのです。この12部族の中のユダ族から、私たちの主イエス・キリストが生まれるのです。



2.主要なエピソードとその霊的意義




2.1.兄を出し抜く


物 語

リベカが妊娠した時、その腹の中ですでに2人は争っており、は彼女に「兄が弟に仕える」と預言されました。誕生の時にもヤコブは兄のかかとを掴むほどであったのです。イサクはエサウを、リベカはヤコブを愛しました。そして、ある日、エサウが狩に出て野から戻ってきた時、ヤコブは彼の空腹につけ込んで自分の煮ていたレンズ豆の煮物と引き換えに、エサウから長子の権利を取得しました。さらに経って、イサクが年老いて目が見えなくなった時、彼はエサウを祝福しようとしますが、そのことを知ったリベカはヤコブに子やぎの毛皮を着せて毛深いエサウのフリをさせ、ヤコブはエサウに成りすまして、イサクの祝福をまんまと盗み取ります。こうしてヤコブはエサウの怒りを買い、エサウはヤコブの殺害を謀ります。しかしそれに気がついたリベカのアドバイスで、ヤコブはリベカの兄ラバンのもとに逃げるのです。その際イサクは、彼に対してアブラハムに対する神の約束を継承させ、実際、ヤコブは旅の途中で天と地をつなぐはしごを天使が上り下りする幻を見、神から直接的にも自らの子孫が繁栄するという約束を受けます。


霊的意義

新約聖書には「私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える』と彼女に告げられたのです。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんで下さる方によるのです」とあります(ローマ書9:10-16)。

ヤコブは神から離れて自分自身の手練手管で、策略を弄しつつ、この世を生き抜かなくてはならなくなった私たちの姿を描くパーソナリティーです。私たちはまさにヤコブ、すなわち他人に出し抜かれないように他人のかかとを掴む者、また策を弄して他人を出し抜く(騙す)者であるのです。しかし不思議なことに神はそのヤコブを愛されたのです!ここに神の選びの不可知性があります。しかるに神には不正はないのです。ただ言えることは、ヤコブである私たちは神に選ばれて、現在神のあわれみといつくしみを得ているという事だけです(→「人の自由意志と神の予定について」)。これによって救いのイニシアティブは完全に神にあり、私たちの何かの要素によらないことが分かるのです。私たちには何らの誇りとする要素はないのです!また逆に長子の権利に無頓着であったエサウのようであってはならないのです。私たちは現在、長子であるキリストにあって得ている私たちの霊的嗣業を信仰によって大切にすべきです。

逃亡の空の下、人間的には惨めな状況にあって、石の枕で眠るヤコブの見たはしごの夢は不思議なものでした。「はしごが地に向けて立てられている」(創世記28:12)という表現はまことに奇妙です。そこに天使が上り下りしており、天と地はつながれているのです。しばしば人はこのような自分の罪の結果としての人間的には惨めな孤独な状態にあって神と出会うのです。しかしこれはすばらしい啓示です。すなわち、私たちは神に近づくために天に上ることはできません、が、神ご自身がイエスにあって天から降りてきて下さったのです。この夢を見た場所をヤコブはベテル(神の家)と名づけ、天の門であると宣言します。神が天から降りて下さり、私たちを天へと招いて下さる場所、すなわち今日の教会を意味します。教会はまことのベテル(神の家)であるのです。



2.2.ラバンの下からペヌエルの経験へ


物 語

リベカの兄ラバンのもとに逃げたヤコブは、ラバンの二人の娘レアとラケルのうち、美しい妹ラケルに恋をします。そして7年間ラバンの下で働けばラケルを妻とするという約束をラバンと取り交わし、ヤコブは実際にラバンに7年間仕えます。ところがその婚礼の夜、ヤコブの入った相手は姉のレアでした。ヤコブはラバンに騙されたのです。そしてラケルを諦めきれないヤコブは、さらに7年間ラバンのために働けば、ラケルを妻とするという約束を再び取り交わし、ラケルを妻として得た後、さらに7年間ラバンに仕えます。このようにしてヤコブは自分より更に狡猾なラバンを通して神の取り扱いを受けたのです。

この間、レアとラケルの間にいわゆる女の確執が繰り広げられますが、彼女たちやその奴隷たちによって子どもたちを得ます。そしてラバンの家畜の群れのためにさらに6年間仕え、その間にもヤコブは奇策を弄してラバンの所有物や家畜を奪取し、富を蓄えます。こうして財産を築いた彼はある日、自分の故郷へとラバンのもとを脱出します。その途上、彼はヤボクの渡しにおいて、神と一晩中格闘します。ヤコブはこの時も十分に強く、神はついに彼のもものつがいを打ち、ヤコブはびっこにされますが、それでもなお「私を祝福して下さらなければあなたを離しません」と食い下がりますと、神はヤコブに「あなたはイスラエルである。神と戦って勝ったからだ」と宣言し、ヤコブを祝福します。そしてヤコブは「自分は神と顔を合わせたのに生きている」と言って、その地を「神の御顔」という意味の「ペヌエル」と名づけます。これ以降、ヤコブはずっとびっこを引き続けるのです。その後、ヨセフの物語などを経て、ヤコブはついに神の御手によって完成されて、自分の12人の子どもたちに対してきわめて適切な祝福を与え、眠りにつくのです。


霊的意義

ヤコブは生まれつきの策略家であり、かなり狡猾で、強い個性の持ち主でした。そのような生まれつきの性格を神はラバンという更に上手の人物を用いて、コツコツと砕かれたのです。私たちも、例えば自分の上司や、時に配偶者や家族によって、理不尽な扱いを受け、消耗させられる経験をします。なぜ神はこのような環境に私たちを置かれるのでしょうか。それは私たちの内なる「ヤコブ」を砕くためです(→「死と復活の原則について」と「自己における死について」参照)。

その期間とその方法とその程度は、それぞれ一人一人に神の摂理によって配剤されており、人によってまったく異なります。しかし神は最善の相手を用いて、最善の御業をなして下さるのです。それは自分のにとってはあまり好ましくない、いわゆるシンドイ期間かもしれません。神はその期間も正確に定めておられるのです。そしてそのような対処を受けざるを得ない理由には、ヤコブの場合、ラケルを欲するというヤコブの側の生まれつきの好みとか執着などがあるからです。そのような私たちの生まれつきの何か、すなわちの要素を取り扱うために、神は私とあなたに「ラバン」を備えるのです。経験則的には、自分の強さと「ラバン」の強さは正の相関があります!しかし、感謝なことに、ヤコブはこのような期間にあっても富を得るのです。そして神はそのことを認知して下さるのです(創世記31:24)。

究極的にヤコブは、神御自身によって体の中で最も強いもものつがいを触れられ、ついにびっこにされます!彼は神から直接に最終的な打撃を受けたのです!この段階でヤコブは生まれつきの自分自身の強さを打ち砕かれたのです。この地にちなんで、この経験をペヌエルの経験」と言います。クリスチャンであれば必ずある時期において、この自我(魂)が打ち砕かれる経験をします。自分にとって打撃であるこの経験は、実は次の祝福へのステップなのです。ヤコブはこのような状況にあっても神からの祝福を、いわば「もぎ取る」のです!

その後ヨセフの物語において、当時の世界の支配者であるエジプトのパロを祝福します。彼は一人の老人に過ぎなかったのですが、大いなるものが小なるものを祝福するとあるとおり、神のお取り扱いを受ける中で、その身にある種の権威と威厳を帯びていたのです。そして、彼も最後の道に臨んで、「信仰によって、ヤコブは死ぬ時、ヨセフの子どもたちを一人一人祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました」(ヘブル書11:21)と賞されるに至るのです。彼はもはや自分自身では立っていません。杖に寄りかかっているのです。ここに神の御手に服し、神の御手によって彫刻された一人の老人の姿を見るのです。私たちのクリスチャン信仰の歩みはまさにヤコブの歩みと同一視されるのです。



3.神の全計画における意義



アブラハムに対する神の約束は、イサクにあって実現し、ヤコブへと継承されます。それは「あなたの子孫は空の星の数ほどになり、あなたによって祝福される」でした。アブラハムの子どもたちのうち、約束の子どもはイサクであり、その子どもたちのうち、神の選びがあったのはヤコブでした。そのヤコブの12人の子どもたち(注)の中のユダから後のユダ族がなり、そこからダビデが出て、その末裔にイエスが誕生するのです。

現在、霊的な長子であるイエスと同一視された私たちは、その約束と選びに与る者とされているのです。新約の私たちクリスチャンこそ、約束のアブラハムの子イサクから出た者であり、ヤコブにあって神に選ばれ、神のあわれみといつくしみに与る者なのです。そしてそれは私たちの行い、善とかによらず、ただ信仰によるのです。このような流れを受けて、神は御自身を「アブラハム・イサク・ヤコブの神」と呼ばれるのです。

すなわち、信仰の父アブラハムにおいて啓示された父なる神、死と復活を事実上経験したイサクに啓示された御子イエス、そして聖霊のお取り扱いを受けたヤコブにおける聖霊なる神です。ここに三位一体の神がそれぞれのパースンの働きを見せておられます。経験的には私たちは、アブラハムにおける神の約束イサクにおける約束の実現ヤコブにおける選びと救いの完成に与っており、ここに神の三位一体神の全ご計画のパノラマ絵図を見ることができます。
(注)正確にはヤコブの子どもたちのうちのレビは祭司職にあるため、カナンの土地の分配を受けず、したがって、ヨセフの2人の子どもエフライムとマナセを加えて、ルベン、シメオン、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ダン、ナフタリ、ガド、アセル、エフライム、マナセ、ベニヤミンで後の12部族となります。このうちのユダとベニヤミンが後の南王国(ユダ)を、残りの部族が後の北王国(イスラエル)を構成します。北王国はアッシリヤに補囚とされ連行された後、歴史から忽然と姿を消します。これを「失われた十部族」と言って、世界史の一つのミステリーです。失われた契約の箱(アーク)と失われた十部族、それらは一体いずこに・・・?古代史のロマンの種としては格好の材料です。

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