No.975の記事

「宰相小泉が国民に与えた生贄」

と題する論文が『文藝春秋十月号』に載っていた。今回の選挙に対する政治学の京大教授中西輝政氏の論考である。これまで私がここで書いてきたことと本質的には同じであるが、啓発される部分が多かった。要点をまとめると−

1)今回の選挙は「劇場型政治」と言うにとどまらず、大衆が剣闘士の戦いを喜んでいる「コロセアム型政治」である。このような場合、内容の勝負ではなく、仕掛けた方が必ず勝つ。

2)かつて英国のロイド・ジョージが大衆の関心を自分に惹きつけるために、選挙を見世物とする同じ手法を取ったが、これを「クーポン選挙」と言う。彼は大衆に絶大な人気を持つポピュリズムの典型だ。

3)当時の世論は喜んだが、現在では彼については食わせ物、偽善者としての評価が確立している。

4)彼は後に自分が擁立した陣笠代議士の反乱によって政権から追い出され、彼のいた自由党はまさに"ぶっ壊れ"、分裂に継ぐ、分裂で消滅した。

5)彼のしたことは改革ではなく、「改革」は単なる看板であり、真の改革者はサッチャーであった。彼女はワンフレーズポリティクスではなく、民衆と百万の言葉を尽くして語り合い、民衆の心を開いていった。政治を見世物にすることなく、真の改革を民衆の心の変革によって行なった。

6)欧米先進国は二つの大戦の間にポピュリズムの大波を経験し、すでにポスト・ポピュリズムの段階にある。そのポイントは、@政党が官僚に拠らず政策策定能力を持つこと;A指導者が高い言語能力を持つこと;B官僚機構を完全に統制する力を持つこと。

7)自民党はすでに「ゾンビ党」であり、本質は死に体であって芝居で延命しているだけ。ニッポンはマドンナ候補が大量当選するような三文芝居の段階であり、このポピュリズムの酩酊状態から醒めるには時間がかかり、多くの犠牲者が出る。そのために国民が払うツケは大きいので、われわれの覚悟が必要だ。

ここで啓発されたのは、第一に、サッチャーの改革の質である。何のことはない、昨日書いた二宮金次郎の民の心を変えていった報徳政治そのものである。

第二は今後の自民党のあり方である。これだけ引っ掻き回して、後継者は森派の専権事項として容易になるか、残ったシコリによって困難になるか、と前に疑問符をつけたが、英国の先例で言えば、自ら建てた者たちに刺される可能性と、分裂に継ぐ分裂で最後は消滅するとのこと。確かに大衆の目が覚めれば、茶番劇で踊らされただけと分かるのだが、もしこのような事態を見据えて、自分のやりたいことだけをやって後は野となれ山となれで来年の引退を考えているのならば、小泉氏もかなりものである。

奢る平家も久しからず。
高ぶりは滅びに先立つ。


いずれにしろ、政治学の専門家の分析と、心の病理は分かっても政治はド素人の私の見方も、そう食い違っていないことを知って少々安堵した。ここ数日は少なからず葛藤を経験していたので、昨日の二宮談と合わせて、私の心も安息のうちにひとつに戻らされつつある。

なお、ついでに言えば、同誌に慶応の福田氏が「小泉氏は誰がために死ぬ」と題する論文で、小泉氏の本質を自己愛にある、と分析していたのもアーメンであった(ここでアーメンは使い場所が違うかな?)。自己愛者はしばしばコケティッシュな魅力を持ち(元ジャーナリストの鳥越氏が、小泉氏には色気があると言っていた)、常に事態の主人公として振舞うことを好み、ある種の幼稚さがかえって魅力となって、人々を惹き付けるもの。しかし最終的責任は取らないのだ。

ローマの末期は「パンとサーカス」で大衆の関心を買うことだけだった。まさに現在のニッポンに当てはまる。今後のニッポンは自己愛性社会となり、いよいよ危ういと言わざるを得ない。(ニッポンキリスト教界は、すでに相当に幼稚化し、自己愛病理的である。いわゆる人気のある牧師を見てみよ・・・。)