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本日のメッセージ

もPennyさんにお願いしました。御言葉を互いに、また自分自身に語ること。御言葉の力を知ることができれば幸いです。

夜は、Pennyさんと数名で中華料理を。あすから私はほぼ絶食になるので、やや多めに食べておく。

腰痛の治し方

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先週の金曜日の夜、腰をひねって、えらく痛みが出て、主日集会のときはメッセージをPeenyさんにお願いしていたので、座っておれて助かりましたが、実際歩くのもきつかったのですね。

ところが、福島ではS兄弟が、山歩きをしようと言うわけで、困ったと思いつつも、「腰が痛いから」と逃げるのはカッコ悪いと思って、道なき道を(彼はあえてヤブを好むのです)S兄弟の後をついて延々と歩いたわけです。腰の痛みに耐えながら・・・。昨日は2時間ほど。今日も2時間ほど。いや〜、実にシンドかった。・・・

ところが、ところがです、驚くことに、気がつくと腰痛が治っていました。家に帰って私がピンシャンしているので、カミさんが一番驚いておりました。

土曜日にかかった病院は「K大腸肛門科クリニック」という看板でして、待合室には若い女性などもいるわけです。私はそこで腰痛のために変な格好をして歩くわけですが、一見すると痔の痛みに堪えているようにも見えるわけです。で、私は心の中で「僕は痔じゃないんだよ。これは腰が痛いからだからね・・・」と自己弁護しつつ診察室に入ったわけです。このくらいに痛かったのですが、今は、さっぱりと痛みが消えました。

いやあ、人の体は不思議なものです。パウロは地上の幕屋の中でうめいていると言いつつ、福音のためには体を打ち叩いて従わせると言っていますが、この体はなまけさせるとキリがないのですね。「喝うっ!」を入れることも大切なんです。

今日のメッセージ

イギリスからのゲストPenny姉妹のメッセージです。英国のノーウィッチでは、私たちの最近の導きと同じ流れの実行に入っています。それはいわゆるキリスト教の伝統的実行や価値観を打破するものです。ひとりひとりが祭司として立ち、語ること。受身でありがたいメッセージを聞いて、自分の満足だけを求めるといったメンタリティから解かれる必要があります。

診察初日

午前9時に一番で診察を受けました。Dr.は年間1500例の内視鏡検査と750例の内視鏡手術例を持っている専門認定医です。が、今日は問診と採尿と採血だけ。内視鏡検査は4日となりました。ポリープなどが発見されたら、その場で切除(ポリペクトミー)するとのこと。統計的には、潜血反応陽性者の3%(データによっては10%)で大腸がんが発見されているようです。ポリープは2-30%、異常なしが7-80%というところ。ただしガンだった場合はかなりの高率で進行がんのようです。さてさてどのような結果になりますか。

 * * *

で、今週と来週のセレブレーションは英国からの姉妹にメッセージをお願いすることになりました。今イギリスでどのような主のわざがなされているか、シェアしてくださいます。ポイントは従来のように、礼拝にお客さんとして出席して、ただ座って、ありがたいメッセージを聞いて、気分よく帰っていくというあり方を打破しようとしているわけです。メッセージを受身的に聞くのではなく、自ら主から直接に聞くことを訓練しているとのことです。誰かメッセンジャーがいなくても、それぞれが主に聞くことができること。まさにニッポンに必要なことではないでしょうか?

そして来週は福島のS兄弟の山小屋に行ってきます。また共に交わり、祈りたいと思っています。というのは、これまでここでは伏せてきたのですが、昨年暮れにN兄弟に肺への遠隔転移が見つかり、再度オペすることになりました。が、とてもうれしいことは交わりがとても有意義になっていることです。彼の霊的状態がとても健やかにされているので、肉体の病のことを語っても、以前のように暗い雰囲気にならない、いやむしろ明るい雰囲気があるのですね。主の御手が明らかにあることを感じ、むしろ彼から流れる霊がとてもイイのです。すでに主は勝利されたと感じています。主の働きは、内から外へ向けての癒しであり、変革です。

主の導き

これは本当に分かりません。今自分が置かれている状況や事態はすべて主によって計り与えられていますが、その場面に遭遇したときには人の思いでは理解できないのです。そこには痛みもあるのですが、主の深い御旨がなされつつあることを信じるのみです。

というわけで、本日は韓国の兄弟姉妹との顔合わせ会になり、共に主を賛美する集会となりましたので、私のメッセージはありません。後ほど韓国語の賛美をアップします。

で、私はあすから2泊3日で温泉に行って参りますので、Blogの更新もないかと思います。では。

8年目!?

徒然に始めたこのサイトも8年目に突入です。セレブレーションも6年目に入ります。人は自分の道を思い図りますが、導くのは主であるとあるとおり、私の意図したことと完全に違う方向に来ているのですね。

私にとって日曜日ごとにメッセージするなんてことは、自分を否んでいないととてもではないができないことです。ただ主によって油が塗られ、いのちが躍動する間はできるでしょうが、これが干上がってしまったらただちにたたみます。私の人生の目的は別にニッポンキリスト教界で1000人教会を立てることでもありませんからね。そんな面倒で労力を要することなどはご遠慮です。

単純に集まって、単純に主を楽しみ、単純にいのちの道を歩みたいと。いつまでやるのかなと思いつつの1年1年です。

 * * *

真央ちゃんが不調。自分を見るようになってきています。つまり成長し始めた証拠。自分を見てもがくことは子供ではないことの証拠です。キリストにある成長も、一度は自分を見つめ、自分で苦労し、自分に疲れてしまうことが要るのですね。その時に本当に十字架の必要を覚えるのです。前の真央ちゃんのように何の苦労もなくやれている人は、実は幼児の証拠。葛藤を覚え、もがきを経て真の救いを知るのです。めげるな、真央ちゃん!

Dr.Lukeの一言映画評-ナルニア国物語-

ご存知C.S.ルイスのファンタジー。子供たち4人がナルニア国に入り込んでの冒険物語。でも、これが聖書の話の焼き直しであるわけ。その国は魔女によって支配されており、魔法がその国の住人を縛っている。そこにアスランというライオンが現れ、魔女の誘惑によって裏切り者となった少年の身代わりとして、自ら石の舞台に縛られて、悪の家来どもになじられ、いたぶられつつ魔女に殺される。

しかしその死を目撃して悲しむ二人の少女の前でアスランは復活する。すると石の舞台は砕け、魔女によって氷付けにされた者たちも、アスランの吹きかける息によって生き返る。アスランは言う、「善なる者が裏切り者のアダムの子に代わって死ねば魔法の力は失せ去る」と。かくして最後の戦いの場面でアスランは魔女を滅ぼし、赤い液体(アスランの血?)を飲ますと魔女に刺された少年も癒され、アスランと共に凱旋し、彼は4人の子供たちを東西南北の王・女王として立てて、自らは旅に出ると。最後に「目を覚ましていなさい」とのメッセージ。

お分かりになりますよね。

 アスラン=キリスト、
 子供たち=アダムの子孫、
 魔女=サタン、
 魔女の手下=諸霊たち、
 魔法=この世の霊力
 石の舞台=律法

映画としてはあまり大したこと無い。『ベン・ハー』の方がはるかに福音的で、深みがあります。終わりの場面は『スターウォーズ』(1作目)を思い出してしまった。『スターウォーズ』もオビワン・ケノービがダース・ベイダーによって打たれ、フォースの世界に生きる者となり、ルークに対して「自分の目に頼るな、フォースに頼れ」と言うわけで・・・。最後は凱旋場面で終わるのですが、ソックリでした。

ちなみに『週刊文春』の映画評でも「幼稚・ちゃち・つまらない。大人の鑑賞に堪えない」と酷評されていました。聖書を知らない人には、何でいきなり復活するのか、息で生き返るのか等など分からないことばかりでしょう。まあ、この手のファンタジー物は私的にも苦手かな。私の年齢になりますと、人間の「実存的生(生きること)」を深く鋭く暴き出す作品(ex.山崎豊子作品)に惹かれるのですね。