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ニッポンキリスト教界の風の向き

クリスチャン・トゥデイ紙にはなぜかウイットネス・リーの著作と彼の『回復訳』の転載があったようですが、この会社、実に不思議です。まさか関係ないとは思いますが、私が同社に財務諸表の提出を求めると記したその後で、銀座の教文館ビルにあったはずの同社の住所が削除されました。会社案内にも住所がない!?普通では考えられませんね。この時期に銀座のビルに入るのですから、資金の流れを知りたくなるのは普通の感覚でしょう?私の友人で公認会計士もおりますので、同社から財務諸表が提出されたら監査を依頼してもよいのですね^^

で、その記事です。ニッポンキリスト教が弱体化し、教会の閉鎖も相次ぐ中、危機感を煽ってこう書いております:

こうした日本の教会の弱体化は、これまでも多くの集会で指摘されてきた。06年11月に大阪で開催された近畿宣教教会会議で同会議委員長の鈴木義明牧師は、「教会同士が対立している段階ではない。今は、一致のとき」であると、教団教派を越えた教会協力の早急な促進を指導者たちに強く訴えた。

大会期間中の決心者が2000人に上った06年11月の沖縄フランクリングラハム国際大会では、大会開催に向けて県内の約150の教会が協力した。教団教派を越えた教会の連帯が、確実な実りを結んでいる。

各地で集会を開きクリスチャン人口1%打破のための具体的宣教戦略を提唱している三谷康人師(日本伝道者協力会役員)は昨年6月に都内であったシンポジウムで、教団や教派の壁による日本のキリスト教界の分散弱体化を指摘した。聖書でも説かれ、ビジネスにおいてもごく基本的な戦略として知られる「弱ければ結集する」という基本方針を諸教会が明確に打ち立てることで宣教が活性化されると提言した。

「会議」だの、「議長」だの、「戦略」だの・・・。何だかかつての学生運動のノリですが、さあ、皆さん、このような論調をどうお感じになります?これは別にCTの責任ではないのですが、「弱ければ結集する」と言う発想。前に私は、今後キリスト教界は互いを叩き合ってうんざりし、逆に統一と合同への流れとなる。これはパワー志向でありメガチャーチへの動きである、とする趣旨の事を何度も指摘していますが、このような流れは果たして聖霊、すなわちイエスを証しする霊でしょうか?この「結集する」と言う発想はどのような霊によるのでしょうか。

私はあえて言いましょう。現在のニッポンキリスト教の惨めさは主の配剤であると。主は主権をもってその状態を許されているのです。それに対して超教派で結集して、1%の壁を打破すると言った発想は人間を主権者とすることでありましょう。前にリバイバル新聞にも日本民族総福音化云々と言った記事がありましたが、私はこういった論調に触れるとビビるのです。怯えを覚えるのです。怖いのです。

何度も言っていることを、またあえて言いましょう。一度この業界は死に体になる必要があるのです。惨めさの極みを通る必要があります。それは神のあわれみです。一切の希望と方法が絶たれる時、完全に自分に絶望する時、神はご自身の働きを開始されるでしょう。人が神を助ける必要も、神を煽る必要もありません。私たちはただ神の主権に服し、神を拝するのみです。

昨日のメッセージでも語りましたが、私たちは今年はますます「主にあって、だら〜」としたいと思っています。主にある安息日を楽しみたいのです。安息日の主をもっと知りたいのです。その時、何かが注ぎ出されるでしょう。ネジリ鉢巻や力のデモンストレーションなどとは無縁の世界にいたいのですね^^。次の願いをわが願いとしつつ:

主の家の大庭にいる一日は千日にまさる。私はただひとつのことを願った。生きる日の限り主の麗しさをたずね極めることを。

そして主からこう言っていただければ幸いです。

わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。

Crucial Question

ウイットネス・リーの教えとローカルチャーチに関する面白い議論がコチラで展開しています。

いわく

・人は神と混ざって神になるのか?
・人の体にはサタンが住むのか?
・ブレンドされた兄弟たちは秘密組織か?
・タイタス・チューはなぜ検疫されたか?

などなど、他では議論にすらならないような論点が目白押しです。

特にこのページにはドイツの指導者であったJohn Soやリーの片腕で「回復訳」を訳したJohn Ingallsらの証言がアップされています。さらに米国での訴訟の動向なども。ぜひこれらの英語のリソースから情報を得て下さい。彼らの発表にはしばしばウソがあります。私の元にも山ほどの資料があるのですが、翻訳しているものはごく一部です。できるだけ公開しますが、何分時間と体力が追いつきませんですので。

The Best of The Bereans

フラー神学校などが彼らにお墨付きを与えたとのとことですから(これには裏がありますが)、今後大手を振ってニッポンキリスト教界にも入り込んで来るでしょう。「あなたは神のVIP」と言ったご機嫌取りのメッセージしかできない商売牧師たちはおそらく太刀打ちできないでしょう。

でもね、ちょっと考えて下さい。あなたが東京で伝道し、集会を始めるとします。しかし聖書は「一行政区にひとつの教会」しか認めていないのです(彼らの主張)。するとあなたは自動的に「東京に在る教会」に出向き、彼らからのお墨付きを得てようやく正統な集会あるいは教会を開始できるのです。それは「東京に在る教会」の分家(彼らの言い方)として。しかし23区が独立したら、教会も23に分かれるのです。「渋谷に在る教会」、「目黒に在る教会」・・・と。

かくしてあなたはウイットネス・リーだけに神が与えた終わりの時代の"啓示"に従って、人の体にはサタンが住み、神と人が混ざって人は神になる〜、とリーの『ライフスタディ』や『聖書の結晶シリーズ』などをオウム返しのように祈り読みしつつ教会建造のために正常な教会生活、つまり神-人(God-man)の生活を送ることになるのです。ここでしか正常な霊的生活は成り立たないからです。かくしてカルバリーチャペルのワーシップは若者を堕落させるから回復の詩歌のみを歌い、自分の意見を持っても言ってもならず、ひたすらリーの教えに「アーメン」を唱えつつ、神の回復の御業の最前線を歩むわけですね。たとえ、リーの息子が姉妹たちを性的に陵辱していても、それを放置しつつ。

こうしてついには分裂したバビロンの娘だった諸教会(彼らの言い方)の統一が成就し、ひとりの使徒のカバリングの下、ひとつの教え、ひとつの心、ひとつの実行により、ひとつの教会を建造していくわけです。その"福音"は「あなたはイエス・キリストをあなたの救い主として受け入れますか?」、「はい」。で、次に出るのが「あなたはウイットネス・リーを現代の唯一の使徒・預言者として認め、彼の見たビジョンこそが神の御旨であることを認め、リーの見た啓示に服しますか?」。その裏には、「リーに逆らうことは神への反逆であり、呪われて裁きを受けますよ」と。

さて、あなたはどう答えますか?

Re:お知らせ

はじめまして。いつも啓発を受けています。
Luke師の論説は厳しいものがありますが、社会と教界についての診立てが正確なので参考になっています。
ブッシュも、安倍さんも、キリスト教界についても、おっしゃるとおりになってます。
どうして分かるのか不思議ですが、やめないでぜひ続けてください。
この世界の普通の牧師のメッセージは聞き飽きてますし、
今回の<愛に満ちた熱血不良牧師>の破廉恥な不祥事がすべてを証明してます。
私も彼らの胡散臭さは少々鼻についていました。
Luke師も前に書いてましたね、「鎖ジャラジャラといつまでやるのか」と。
はからずもそれも当たってしまったのでしょうか。
来年もよろしくお願いします。

それでは良いお年を・・・

本日は韓国の皆さんと交わり会でした。韓国の賛美をお聞きしましたが、前にいたホームレスのオッチャンたちの教会の頃を懐かしく思い出しました。やや演歌が入っていますが、何とも言えない味があるのです。私たちのワーシップはあか抜けていますので、ある意味で臭みがなく無機質な部分もありますからね。で、今週のBGMは賛美歌−"Guide Me, O Thou Great Jehovah"−です。

今週は明日最終講義の後、ずっと遊びに出かけていますので、このBlogの更新もあまりできないかと思います。来週はセレブレーションはお休みですので、メッセージの更新もありません。というわけで、何とも悲劇的な事件が心にひっかかってはおりますが、皆さんもよいお年をお迎えください。

"用いられる"クリスチャンたち

私はこれまで社会の病理がキリスト教界に凝縮し(食物連鎖と同じ)、ニッポンキリスト教はリバイバルどころではなく、サバイバルの時代に入ると指摘してきた。もっと言えば、社会からこぼれた精神疾患や人格障害を有する人々が、何でも愛して、受け入れて、赦してのキリスト教界に群がり、混乱と不満を撒き散らすであろうと予測している。彼らのすべての動機は他者に病んだ自己を受け入れさせ、自己のポジションを獲得することだから。彼らは自分の十字架を負うなどの真理はとても理解できないし、否、負うことを願う人は成長するのだが、負うことをたいていは避ける。ネットはその病んだ自己主張のための格好のツールとなり、倒錯現象が起き、それはいずれリアルの世界にも波及する。

しばしばクリスチャンは神の栄光を損なうために敵に用いられることが多いのだ。例えば、メッセージでも触れたが、日本での初めてのエイズ患者は何とクリスチャンだった。また今回も14億円の借金で自己破産した小杉元文部大臣の妻も立派なクリスチャンである。世が神の栄光を傷つけるのは当然であるが、むしろ今日、自称クリスチャンたちが神の栄光を損なうのに大いに用いられている。病識の欠如した病んだ人は特に言える。誤解がないように繰り返すが、精神疾患を持つことが問題なのではなく、本質的問題は本人にその自覚(病識)が欠如していることである。あるいは自分の病理性を認めないこと。これは自称正常な常識人についても同じ。否、むしろ病識を欠如した”正常者”はもっと性質が悪いかもしれない。ニンニクを食べた人は、自己臭には気がつかないが、確実にその食べた物の臭いを発散する。時にはニンニク臭を発散させていることを正当化する。自己の病理を人権問題に刷り替えたりなどして、ホモやレズビアンの牧師が出現する今日である。

聖霊派あたりの調子の良いリバイバルの預言だので踊らされるならば悲劇である。むしろ今後、心ある信仰者は冬の時代に備えるべきであろう。主が言われたとおりに・・・。

人の子が戻る時に、はたして地上に信仰が見られるであろうか。

神の栄光と霊的いのちのフロー

本日も英国Colin Urquhartのメッセージの同時通訳です。時期としてまさにフィットする内容です。テーマは神の栄光に与ること。地的イスラエルと天的イスラエル(=エクレシア)の関係を再確認しており、神のエコノミーの鍵はいのちにあることを確証しております。このいのちの次元の理解と経験がないと、あのややこしい不毛な神学論争に落ちるわけです。

私たちの召しは失っていた神の栄光に与ること。私たちの務めはこのいのちを流し出すこと。ガリラヤ湖のように水が流れ込み、それが流れ出ること。この霊的いのちのフローが滞ると死海と化します。かくしてクリスチャンが煮詰まってしまい、死海のように硫黄の悪臭を放ちます。腐ったクリスチャンは不信仰の者たちより扱い難くなります。塩気を失った者は人に踏みつけにされ、しかも自分がいかなる状態にあるかも分からなくなり、ただ悪臭を放ちます。かくして死海のように自分の中での堂々巡りで妄想と欲求不満だけを膨らませるわけです。

健全ないのちを保つ鍵は自分を脇へ置いて流し出すこと。受けるより、与える方が幸いだ、と主は言われます。そのためにはキリストと共なる死の適用が必要です。

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

   * * *  

ある方との会話:あたしはイエス様の声を聞いたからやっているんです!Lukeさんはなんでそれを止めるんですか!それに何で断食なんかするんですか!私は霊でLukeさんが何しているか分かるんですから!!!私:「はあ〜?」(ダイエットはしても断食はしてないのだが・・・汗)

あれ、ここ精神科の入院病棟だったけか・・・。しかし今日ニッポンキリスト教においてもこの手の「声」を聞く人が多いのです。これも自己の中で本人の肉的願望が堂々巡りして、「声」として反響するわけです。このような場合、周囲と必ず摩擦を引き起こします。しかも本人はその「声」を神の声であると信じ込む、というよりは思い込んでいるわけです。彼らの「確信」を覆すことはまず不可能です。かえって彼らから見るとその「声」を認めない私はキリストに対する反逆者となるわけですね。

実に病識を欠いている人は、お釈迦様ではないですが、度し難し(扱いに困る)。大体は分裂病まではいかなくても、分裂病型乃至分裂病質人格障害あるいは妄想性のそれでしょう。問題はこの手の人がかえって「霊的」に見えてしまうわけで、「主は・・・と言われます」式の自称預言者などが蔓延っているわけです。

あなたがたは聞く事柄によくよく注意しなさい。

実際、今日、キリスト教界の闇は深いのです。

チャレンジ

今日のメッセージは英国のコリン・アーカートのメッセージの同時通訳でした。現在神の建てられる宮とはエルサレムにある石の神殿ではなく、使徒と預言者の土台の上に置かれた霊の神殿、つまり生ける石として神の住まいのために組み合わされた私たちであることを説いています。かくしていわゆる国家としてのイスラエルに入れ込む教えは誤りであることを指摘し、「イスラエルのために祈れ」とは、まさにそこに現れたキリストの体なる兄弟姉妹、つまり生ける神の神殿のために祈ることを語っています。

ですからDr.Lukeもついにイスラエル・フリークになったと誤解されないように、ここで予防注射を打っておきます。人は自分の心の歪みに従って、人の言葉を理解する傾向がありますから。地的イスラエル(経綸的選びの民)と天的イスラエル(エクレシア=教会:本質的選びの民)についてはこちらをご参照いただきたい。

このメッセージの最も本質的ポイントは、自分が神の家における祭司であることの自覚を得ること。単に自分の祝福や問題解決や励ましを求めて集会するのであれば、これは本末転倒。そこにある中心は自己。そういったメッセージをして下さる先生はこの業界にいくらでもいる。私たちは神に仕え、祭司として自分を裂いて犠牲の供え物を捧げているかどうか、まことの霊の奉仕に与っているどうかが問われるわけ。と言うわけで、また厳しいことを語り、チャレンジを置きましたから、出席者が減るかも知れません(笑)

私は真っ赤な偽牧師であり、キリスト教ビジネスに携わる者ではありません。来年はもしかするとKFCは店仕舞いということもあるわけで、それはひとえに私たちが自分を裂いて、神の召しに応じることができるかどうかにかかっているのです。そろそろ忠臣蔵の時期でありますが、昼行灯と揶揄された大石内蔵助も当初300人いた家臣たちを、志のない者はあえて去らせ、絞り込んでついに四十七士としたわけ。ギデオンの物語にも通じる逸話であり、烏合の衆では大事はならない。KFCではもしかすると一人もいなくなるかも知れませんが・・・汗。

かくして来年のスローガンは「自分を注ぎ出す」こと。どこまで主の召しに応えることができるでありましょうか?メッセージ冒頭でも触れたウォッチマン・ニーの黙想のための言葉を紹介しておきます。

 ガリラヤの少年が主の元にパンを持ってきたとき、イエスはそれをどうされたでしょうか?主はそれを裂かれたのです。神はご自身に捧げられるものをすべて裂かれるお方です。神は得られたものを裂かれ、それを祝福され、人々の必要を満たすためにそれを用いられるのです。あなたの経験や私の経験もそうではなかったでしょうか?あなたは自分を主に捧げます。するとすべての事柄が悪い方向へと向かい、あなたは主の方法に何か誤りがあると考える誘惑に駆られたことでしょう。そのような頑なな態度は砕かれる必要があるのです。
 そう、それは真理ですが、何のためでしょうか?それはあなたがこの世へとあまりにも向かい過ぎているので、主へと十分に向かっていないためなのです。これが多くのクリスチャンにとっての悲劇です。私たちは神に用いられることを願うことでしょう。であるならば、毎日毎日、自分自身を主にお捧げすることです。神の方法の粗探しをするのではなく、神の御手の下に賛美と期待をもって服するのです