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チャレンジ

今日のメッセージは英国のコリン・アーカートのメッセージの同時通訳でした。現在神の建てられる宮とはエルサレムにある石の神殿ではなく、使徒と預言者の土台の上に置かれた霊の神殿、つまり生ける石として神の住まいのために組み合わされた私たちであることを説いています。かくしていわゆる国家としてのイスラエルに入れ込む教えは誤りであることを指摘し、「イスラエルのために祈れ」とは、まさにそこに現れたキリストの体なる兄弟姉妹、つまり生ける神の神殿のために祈ることを語っています。

ですからDr.Lukeもついにイスラエル・フリークになったと誤解されないように、ここで予防注射を打っておきます。人は自分の心の歪みに従って、人の言葉を理解する傾向がありますから。地的イスラエル(経綸的選びの民)と天的イスラエル(エクレシア=教会:本質的選びの民)についてはこちらをご参照いただきたい。

このメッセージの最も本質的ポイントは、自分が神の家における祭司であることの自覚を得ること。単に自分の祝福や問題解決や励ましを求めて集会するのであれば、これは本末転倒。そこにある中心は自己。そういったメッセージをして下さる先生はこの業界にいくらでもいる。私たちは神に仕え、祭司として自分を裂いて犠牲の供え物を捧げているかどうか、まことの霊の奉仕に与っているどうかが問われるわけ。と言うわけで、また厳しいことを語り、チャレンジを置きましたから、出席者が減るかも知れません(笑)

私は真っ赤な偽牧師であり、キリスト教ビジネスに携わる者ではありません。来年はもしかするとKFCは店仕舞いということもあるわけで、それはひとえに私たちが自分を裂いて、神の召しに応じることができるかどうかにかかっているのです。そろそろ忠臣蔵の時期でありますが、昼行灯と揶揄された大石内蔵助も当初300人いた家臣たちを、志のない者はあえて去らせ、絞り込んでついに四十七士としたわけ。ギデオンの物語にも通じる逸話であり、烏合の衆では大事はならない。KFCではもしかすると一人もいなくなるかも知れませんが・・・汗。

かくして来年のスローガンは「自分を注ぎ出す」こと。どこまで主の召しに応えることができるでありましょうか?メッセージ冒頭でも触れたウォッチマン・ニーの黙想のための言葉を紹介しておきます。

 ガリラヤの少年が主の元にパンを持ってきたとき、イエスはそれをどうされたでしょうか?主はそれを裂かれたのです。神はご自身に捧げられるものをすべて裂かれるお方です。神は得られたものを裂かれ、それを祝福され、人々の必要を満たすためにそれを用いられるのです。あなたの経験や私の経験もそうではなかったでしょうか?あなたは自分を主に捧げます。するとすべての事柄が悪い方向へと向かい、あなたは主の方法に何か誤りがあると考える誘惑に駆られたことでしょう。そのような頑なな態度は砕かれる必要があるのです。
 そう、それは真理ですが、何のためでしょうか?それはあなたがこの世へとあまりにも向かい過ぎているので、主へと十分に向かっていないためなのです。これが多くのクリスチャンにとっての悲劇です。私たちは神に用いられることを願うことでしょう。であるならば、毎日毎日、自分自身を主にお捧げすることです。神の方法の粗探しをするのではなく、神の御手の下に賛美と期待をもって服するのです