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在基督的見性発語

午前の講義を終え、昼食を取り、iTunesのジャズを聴きながら、6階の窓から外を眺めつつ、コーヒー片手にゆっくりしております。

救世軍の山谷氏が道元の正法眼蔵についてうれしいコメントを下さった。正法眼蔵を知るクリスチャンはこの業界になかなかおられない。うれしくなったついでに、また一言。

禅には大きく分けて臨済禅曹洞禅がある。方法論的にやや違うのだが、目指すところは同じ。「当たり前は当たり前」。「即心即仏」。「花紅柳緑眼横鼻直」。ちなみに鈴木大拙が鎌倉円覚寺釈宋演の元で得た見性の発語は「肘外に曲がらず」であった。

臨済禅では公案を用いるが、『碧巌録』第三十九則に「雲門花薬欄」という公案がある。

 挙す。僧、雲門に問う、「如何なるか是れ清浄法身」。門曰く、「花薬欄」。

 (注:花薬欄とははばかりの前の植え込みのこと。)

もっとすごい公案になると、

僧問う、「何是仏(仏とは何ぞや)」、曰く「カンシケツ・・・」。

 (注:「カンシケツ」とは「糞かきベラ」のこと。中国にはトレペなどはなかったのだ。)

パウロは言っている:貧に書する道、富に処する道を知り、すべてに満足することを知った―キリストにありて。

今の自分を自分勝手な幻想と比較考量することがすべての不満のルーツ。自分に絶望するならば、キリストにあって足るを知る。まさに「肘外に曲がらず」だ。

早寝早起きはイイ!

アップロードファイル 550KBダイエットと仕事の連続で体はけっこうキツイが、おかげでウェイトは確実に落ちており、適度な疲労感で早寝するために朝も快調。福島の山小屋のわが兄弟は夜7時には寝て、朝4時には起きる生活だとか。彼はラジオもテレビも新聞すらない生活。もちろんネットなどはまったく。この自然派は私も憧れている。早く引退の時を迎えたいもの。オプス・デイのように体を鞭で打ち叩かないまでも、早寝早起き小食はなかなかイイと実感。

私は禅が好きで、永平寺や臨済寺を訪れたことがあるが、あの修行の生活には憧れがあるわけ。永平寺などは道元の正法眼蔵(私の本では現成公案からの道元の言葉を上げて置いたが)に従った生活をするが、朝4時に起きて、唯座る。これを「只管打座」と言うが、悟りだとか何とかを何も求めないで唯座る。そして作務。食事作法もトイレの入り方、風呂の入り方など、すべてが規則あるいは作法に従った生活。これらは「典座(てんぞ)教訓」・「辧道法(べんどうほう)」「赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)」など。

ココで精神はある種の緊張を強いられるが、精神の安定のためには、実はこの緊張が必要なのだ。走っている自転車や回っているコマが安定するのと同じ。このとき生死といった二元的世界を越えた生き様が展開する。これは善悪を超えたはからいのない世界だ。道元のこの「生死」などは実に名言と思う。鍵はいのち(もちろん霊のそれではないが)。この生活はどうも修道院の生活とよく似ている。函館のシトー会の生活スケジュールを見て、これは禅寺と同じだと感じた次第。(しかしオプス・デイではほんとうに体を鞭で叩いているのだろうか?)

なお、キリスト者と禅者の異同についてはこちらを。

Step Forward

一歩を踏み出すことは、もちろん、日常の生活でこれまでできないと思っていたことにチャレンジすることも、奉仕や伝道に踏み出すこともそうですが、もっとも本質的なことは、「自分から離れること」です。足りない、足りないと、求めてきた自分、傷ついて自己憐憫に閉じ篭っていた自分、その自分から一歩を出ることなのです。禅の天才道元もこう言っている:

仏道をならうとは、自己をならうなり。自己をならうとは、自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるいふとは、自己の身心、および侘己の身心をして脱落せしむるなり。−正法眼蔵・現成公案

この「万法」とは「自然の法則」であり、もちろん私たちの得ている「いのちの御霊の法則」ではありません。しかし私たちも自分を忘れて身心脱落するならば、いのちの御霊の法則に証せられるわけです。禅学の大家鈴木大拙は「わしはイエスが覚者であることは分かるが、聖霊と言うものはどうしても分からん」と言った。ここに禅者とキリスト者の違いがあります。

再建主義者はこのいのちを見ていないので、あくまでも廃棄されたモーセ律法の適用となるわけですが、私たちはこの法則に乗るのであれば、孔子も言っているとおり、

七十にして、心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず

となるわけです。手離しで自転車を走らせるようなものと私は喩えていますが・・・。

Re:Step Forward

>仏道をならうとは、自己をならうなり・・・脱落せしむるなり。
・・道元も、なかなか深いですね。

>インフルエンザがまだ気管に残っていて,冷たい風で狭窄を起こして・・。
どうぞ、ご自愛ください。お祈り致します。

104歳の禅僧のことば

NHKで永平寺の主管のドキュメンタリをやっていた。いいですね、永平寺。私も観て来たが、森閑とした山の斜面に伽藍があって、雲水たちが作務をしていた。静岡の臨済寺もいい。夏にはセミで山全体が鳴く。そこの入り口に「脚下照顧」とあった。ちなみに私も家では作務衣でおります。

 * * *

禅師の話:

悟りと言うものを何か日常から離れたこと思うからいかんのじゃ。日常の当たり前のことがすべて禅であり悟りじゃ。スリッパが乱れていたら、スリッパを直すのじゃ。ゴミがあればゴミをひろう。

座禅も息とひとつになることじゃ。その時に妄想は消えて、環境とひとつになる。自分をわすれることや。すべてのことにおいてひとつになることじゃ。それが自然の法に任せて生きるということ。自然はみな時期が来れば花を咲かせ、何の報酬も期待せず、誰からも認められようとかせずにただ法に従って生きるだけじゃ。自然はすばらしい。

わしは永平寺とひとつであり、永平寺は私である。だから永平寺を愛すること、さらには環境を愛することは自分を愛することじゃ。ただ法を行なって、ただ生きること。これが道元禅師の只管只座じゃ。

 * * *

道元はかく言っている:

「仏道をならうとは自己をならうなり。自己をならうとは自己を忘るるなり。自己を忘るるいふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるいふとは、自己の心身、および侘己の心身をして脱落せしむるなり」―要するに自分から意識が離れて法のままに生きること。自分の心身から意識(注意)が離れることを「心身脱落」という。

主は生活の糧を思い煩う人々に、「野の花を見よ」と言われた。いのちの法則を見よと。「自分の魂を自分で救おうとする者はそれを失い、失う者は得る」と。

禅者はもちろん霊的ないのちを持っていないし、現に鈴木大拙は「わしはイエスは覚者と分かるが、聖霊だけは分からん」と言っている。しかし魂の経験として、自分の何かから意識が離れる点は同一である。これはパウロのローマ7章から8章への飛び越しと同じ。

私たちキリスト者は、自己を忘れ、心身脱落して、キリストのいのちの御霊の法則に乗ること。きわめて楽な生き方である。法にませた生き方。このときにはただ当たり前を当たり前に生きるだけ。人からの評価や報酬などはかえってうっとしく感じられる。

しかし心身脱落したクリスチャンはあまり多くはいない。だいたい神学オツムでガチガチで、いのちの法則などは聞いたこともない。多くのニッポンキリスト教徒は"苦しチャン"である。しかしブラザーローレンスも言っている:任せた者には苦も楽も同じだと。藁を一本拾うことにも喜びがある、と・・・。

さあ、自分の教会を大きくして、信徒を増やして一旗挙げたい牧師には、ぜひ永平寺で10年くらい修行をしてもらいと思うのだが・・・。「只管只座」の境地を得て欲しいものだ。

詳細はこちらを:

「意識の扱い方について」
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/consciouness.html

Dr.ルークの一言映画評−ザ・ラスト・サムライ

家内といっしょに観て来ました。意外でしたね、ハリウッドがこのような映画を撮るとは。

セットや時代考証などもしっかりしていましたし、古い世界の象徴である武士道に生きる勝元と、新しい時代の波に乗り遅れないように小器用に生きる官僚の葛藤をよく描いていました。トム・クルーズはその武士道の霊性に触れて、かつてのインディアン虐殺の良心の呵責から癒されていく。

自らのアイデンティティと民族の誇りを守ろうとする生き方は時代の波に必ず逆行する。最後は反逆者として文明の象徴である機関銃に倒される。しかしその勝元の死に臨んで、官軍がみな帽子をとり、顔を地に伏して敬意を表する場面は泣けました。

このような映画を撮れるハリウッドを見直しました。彼らもある種の深いスピリチャアリティを求めているのです。トム・クルーズが「この地は教会はないが深い霊の存在を感じる」とつぶやくわけですが、非常に面白い。むしろ西洋経由の教会には真の意味の霊性はありません。それはキリスト教文化と儀礼であり、霊的リアリティが欠けています。

『葉隠れ』に「武士道とは死ぬことと見つけたり」とあります。「十字架道」も同じです。今日の、互いに神のVIP、「世界にひとつだけの花〜、オンリーワンでいい」式の、自分の能力を啓発して、ハッピーな人生を送るための"砂糖まぶし福音"のような霊性の浅薄なものはもう十分であろう。

私の本には道元の『正法眼蔵』のことばが書いてあるが、ホンネを言って、礼拝出席者数を密かにオペラグラスでカウントしている牧師などより、禅の師家たちの霊性の方があるかに深いことは認めざるを得ない。

 「十字架道とは死ぬことと見つけたり」-Dr.ルーク

クリスチャンたちよ、今こそ立ち上がり、主のサムライとなる時だ!!!