| ■信仰と精神分析について |
人間は誕生した時には精神構造は未分化の状態にありますが、両親や外界との接触の経験を積む中で、精神構造(フロイドは心的装置と呼びます)に個々の機能が分化してくるとします。そしてこの心的装置の中には精神機能を営むためのエネルギーとして、リピドー(=性的エネルギー)があるとします。この精神機能のエネルギー源を性においたことがフロイドの特徴で、これがために後にユングやアドラーとの葛藤と決別を味わうことになります。分化した心的装置として彼は、超自我(いわゆる"良心")、自我(意識できる部分)、イド(あるいはエス;無意識の部分)を設定しました。超自我は特に父親の価値観を自己のうちに取り込んだ部分で、父親の厳格さに比例して強固な超自我(良心)を形成するとします。自我はいわゆる意識される自分であり、イドは自分では意識できず、そこには混沌とした解消されない性的エネルギーであるリピドーが集積し、渦巻いているとします。(注)これに対して、東洋の禅とか、禅との共通性を指摘される森田正馬の創始した森田療法では、意識を自己から切り離すことをその究極的目的とし、人間を全人格的に取り扱うという点では、方法論的に精神分析よりも勝れております。
意識が自己に集中することを「煩悩」とか「囚われ」とよびます。例えば意識が体の異常感に囚われるとヒポコンドリー(心気症)、心臓の鼓動に囚われると実際にも発作を起したりする不安(心臓)神経症、自分の思い(観念)や人の視線などに囚われると、それぞれ強迫観念、対人恐怖症などの強迫神経症、さらに手の不潔感に囚われると手を何度も洗わないと気がすまない強迫行為という病態を呈します。
禅とか森田療法ではある一定の修行によって、意識を自己から離す方向へ誘導します。この意識が自己から離れる経験を、例えば禅では「回心(えしん)」とか「自己放下(じこほうげ)」などと称し、また天才道元は「正法眼蔵」において「心身脱落、脱落心身」と表現しています。また禅学の大家鈴木大拙は、「意識がどこかに止まることが、心の安息にとっての障害となる」と述べております。
剣、弓、茶、花などのいわゆる「道」は、鎌倉時代に禅と結びついて豊かな禅的文化を産みました。これらの「道」の目的は、すべて自己を忘れて、作為のない、何ものにも留まらない自由な心の流れを打ち出すことを目標としています。鈴木大拙の「禅と日本文化」とか、ドイツの実存哲学者のオイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」などが参考になります。
ただし、しばしば東洋の神秘思想と結びついて悪霊的な要素を持ち込んでしまう危険性がありますので注意が要ります。
事実、精神分析による治療は4、5年を要するのが普通であり、また精神分析家自体も教育分析といって、自分自身が分析を受ける必要があるのですが、分析家としての資格を得るまでにやはり5〜7年を要するのです。欧米ではそのようなカリキュラムがきちんとしているのですが、日本の現状はまったくお寒い限りです。例えば精神科医師で本当に精神分析が行える人は何人おられるのでしょうか(注)。ある意味で分析による治療は、分析家から独立した後でも、自己分析を生涯にわたって続ける必要があるわけです。
(注)ちなみにユング派の第一人者であられる河合隼雄博士は京都大学の医学部ではなく、数学科のご出身です。
フロイドはユダヤ人ですから、当然のこと聖書の影響を受けております。あるアメリカの精神分析学者は、精神分析学とはユダヤ教に科学的装いをつけたものである、とすら言っております。例えば「カイン・コンプレックス」、「夢分析」などはまさに聖書の中にヒントを得ております。しかしながら聖書が提示する十字架による人間の苦悩の解決は、フロイドが提示した方法論とはまったく別のものです。フロイドは自由連想によって、患者の過去を探り、無意識の中に抑圧されているリピドーを解消することを意図します。これに対して聖書では、人間の実存的不安や苦悩からの解決の道は「十字架による死」であると啓示します。
つまり精神分析が扱うのは、聖書の語る魂(soul)あるいは肉(flesh)の領域であって、いわばこの領域をオーバーホールした上で、もっとも最善の形で自己実現を図ることを目的とします。これに対して聖書で啓示する方法はまったく反対です。つまり、私たちが生まれついて所有してしまったアダムから継承した古い自己は、すでにイエスがご自身と共に十字架に付けて下さっているのです。精神分析で扱うべき自己はすでに十字架で死んでいるのです!だから改善の必要などはありません。そしてキリストにある新しい自己が提供されているのです。見よ、すべてが新しくなった、とあるとおりです。これが聖書にある救いの方法であって、それを得るのはただ信仰によるのです。私たちキリストにある者のうちには神から新たに生まれた存在があるのです。フロイドは古い皮袋を何とかリペアしようとしたのに対して、キリストは新しい皮袋を下さるのです(→「自己における死について」、「死と復活の原則について」参照)。
そこで私たちクリスチャンは、自己の内を見るべきではありません。もし見るならばそこには古い自己の残骸やがらくたが転がっているだけです。自己の過去の経験や自己の無意識などを明らかにしようとすればするほど、それは"玉ねぎの皮むき"のように、涙と臭さが漂い、失望に終わるだけです。このような古い自己における条件づけされた精神や行動のパターンを肉(flesh)と呼ぶことはすでに述べました。その肉をいくら分析しても何の解決ももたらしません。肉は日々十字架につけてしまえば良いのです(→「罪とは」参照)。クリスチャンはすでに信仰によって新しい自己を得ております。後はこの新しい自己、すなわち内に生きるキリストに最善のあり方で私たちの魂や体を通して生き出ていただければ良いのです。
生きるエネルギーもすべて私たちの霊におられる御霊が提供して下さいます。その御霊からの神聖なエネルギーが私たちの魂の各装置(思い、感情、意志)を、内に生きているキリストの形に従って用いて下さいます。私たちを生かして下さるのは、フロイドの言うリピドーなどではなく、御霊のもたらす命のエネルギーなのです。私たちが自己から目を離して、キリストを見上げ、キリストに思いを置く時、御霊は信仰を息吹いて下さり、私たちがすでに得ている新しい自己(=うちに生きるキリスト)が、内側から輝き出て下さいます。私たちは私たちの魂の各装置をただお捧げすればよいのです。その装置自体を改善する必要などはありません。神聖な命のエネルギーで満たしていただき、用いていただくだけです。どんなにボロの器であっても、キリストが入って下さる時、それは輝くのです。これこそ私たちの希望です。
精神分析、さらには自己啓発セミナーやニューエイジの目指すところは自己実現です。十字架の目指すところは、自己による死を経るところのキリスト実現です。この世の方法は自己を生かすことです。十字架は自己を殺します。しかしその後の復活があるのです!精神分析は果てしなく継続される必要があります。しかしそれは"玉ねぎの皮むき"と同様に、"芯"がないのです。十字架による救いは、ただ一度のキリストと共なる十字架の死を信じるだけです。自動的に復活による新しい自己、すなわち"芯"を得ます。それは信仰がありさえすれば瞬間的な事件です。
もちろんその後、すでに得た内なるキリストが私たちの内で妨げなく生きられることを求める必要があります。しかしそれは自己努力によるのではなく、むしろ自己にあって死に、御霊に頼って復活にあって生きることです。それはとても楽なのです。ただ信じる時に、それは私たちの経験となります。精神分析がもたらすものは自己に対する絶望だけです。十字架のもたらすものはキリストに対する栄光の希望です。ただ信じるだけです!何と簡単なことでしょう。何という解放感でしょう。ハレルヤ!