
クリスチャンとイスラエル
投稿日 |
: 2005/10/10 22:07 |
投稿者 |
: イザヤ・ベン・ハー |
参照先 |
: |
再建主義とディスペンセイションの対話(議論?)を興味深く拝読しています。この二つの立場は契約神学とディスペンセイション神学の相克とも理解できると思います。そして置換神学と共に反ユダヤ主義の問題や、もっと一般的にはクリスチャン(教会orエクレシア)とイスラエルの関係も問われると考えますが、果たして我々クリスチャンはイスラエルに対してどう対応すべきなのでしょう。
ルークさんの言われるとおり、イスラエルに入れ込む人々は扇情的と言いますか、感情的要素がかなりあることは私も経験的に知っております。普通のBBSですと困難なテーマですが、こちらならば冷静かつ客観的に論議してもらえるように期待してスレを立ててみました。よろしくお願いします。

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Re: クリスチャンとイスラエル
投稿日 |
: 2005/10/18 10:47 |
投稿者 |
: Luke |
参照先 |
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あ、イザヤさん、あちらをロックしてしまってすみません。ちょっとクールダウンした方が良いかと思いまして。
納得できないお気持ちは良く理解できますが、まあ、相手には相手の信念があるわけですので、その素朴な疑問を感じる感性を大事にされてください。

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律法の廃棄
投稿日 |
: 2005/10/18 07:21 |
投稿者 |
: イザヤ・ベン・ハー |
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すみません、あちらがロックされていますので、こちらで。
富井先生がご自分のサイトでもご回答下さっているようですが、どうも解せませんね。法律が一度廃棄され、新しい法律になったわけですよね。それが何で前の法律が普遍化されてバージョンアップなんですかね。素朴な疑問です。小泉氏のような解散総選挙でもやったのでしょうか?

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Re: クリスチャンとイスラエル
投稿日 |
: 2005/10/12 21:41 |
投稿者 |
: イザヤ・ベン・ハー |
参照先 |
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ありがとうございました。
富井先生とのディスカッションも興味深く拝読しております。そちらもあわせて、しばらく聖書と照らして頭をまとめてみたいと思います。また戻ってくると思いますが、よろしくお願いします。

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Re: クリスチャンとイスラエル
投稿日 |
: 2005/10/12 11:45 |
投稿者 |
: Luke |
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そうですね、旧約は要するに両当事者、つまり神(甲)と人(乙)があるわけです。しかもこの間に絶望的な溝がある。乙が甲の命じるところを行なえば、甲は乙を祝福できるが、行なえなければ呪いを刈り取る。これが双務契約です。
旧約のシェーマ:神 ⇔ 人 (力がないために失敗)
(甲) (乙)
新約では神の第二格位である御子が人になることにより、神は甲と乙の両当事者をキリストにあって引き受けることができるようになった。御子は御父に対する犠牲の供え物として代価を払い、我々の債務を消して下さった。同時に律法をまっとうし、完全な義を成就した。
(甲) (甲かつ乙)
新約のシェーマ:父 ⇔ 御子=神−人 (成就)
完全 | |
私たち←効力
↑
御霊の力(いのちの法則)
信仰によってキリストの死と復活に結合され、キリストの内に置かれた私たちは、この法的効果を継承できるわけです。これが片務契約の意味です。ですから神が人になること、すなわち両当事者を引き受けることが、新契約を確立する本質的な要素なのです。よって神が三にして一でないと救い自体が成立しないのです。
では現在の私たちの責任はと言えば、古い自分はすでにキリストと共に死に、共に復活したことを認め、御霊に従ってその霊的リアリティの中に留まり、歩むこととなるわけです。これは内にあるいのちの力といのちの御霊の法則によるわけです。

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Re: クリスチャンとイスラエル
投稿日 |
: 2005/10/11 21:03 |
投稿者 |
: イザヤ・ベン・ハー |
参照先 |
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丁寧なご説明をありがとうございます。なるほど、本質的な選びの面と経綸的な選びの面に分かれるわけですね。また双務契約と片務契約というのも初めて聞きます。普通の神学にこのような考え方はないように思いますが。この辺りをもう少し詳しくご説明願えないでしょうか。よろしくお願いします。

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Re: クリスチャンとイスラエル
投稿日 |
: 2005/10/11 12:22 |
投稿者 |
: Luke |
参照先 |
: |
これはなかなか手ごわいテーマですね。私の理解はこちらをご覧いただきたいのです。
・エクレシアとイスラエルの関係について
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/churchandIsrael.html
契約神学は、「行いの契約」と「恵みの契約」に分けるわけですね。対してディスペンセイションでは時代に応じて「7つの神の扱い」があると。再建主義は契約神学に立つのだと思いますが、彼らからするとディスペンセイションでは神の一貫性がないし、律法と恵みが対立し、今は恵みの時代だから律法が破棄されており(第3の意味でも)、その結果ヒューマニズムを招いていると。富井さんに言わせると律法も恵みを与えるアブラハム契約の一部なんだと。この辺でお互いに対立しているようです。
契約論としてみたときは、私は旧契約は双務契約―人がある条件を満たせば、神は祝福する―、対して新約は片務契約―神が神と人の両サイドをキリストにあって引き受け、その法的効果を私たちはキリストのうちに置かれることにより継承する―、と言う具合に契約の本質が異なると考えます。詳細はこちらを:
・律法と恵みについて
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/LawandGrace.html
私の印象からすると、両者とも同じ平面上で考えているから、律法と恵みが対立してしまうわけです。数学ではこういった場合はディメンジョン(次元)を上げて考えます。2次元ではなくて、3次元で2枚の平面を考えれば話が容易になると考えます。つまり平面が違うわけです。
イスラエルとエクレシアの関係も同じように平面が違うわけです。ですからイスラエルがエクレシアに置換されたわけでもない。元から存在する平面を異にするわけで。これが私の言う経綸的選びと本質的選びです。神は元々エクレシア(=キリストにとってのエバ)を得たかったわけで、そのいのちの分与(ディスペンス)のために経綸的にイスラエルを選び、神の言葉を委ね、メシアを地上にもたらしたわけです。その意味での選びは依然として有効なわけです。
このように考えれば、現在の地的イスラエルがやっていることについて異議を唱える者は呪われるといった脅迫めいた話にもならないと思うのですが。彼らがやっていることは、精神病理的にはパラノイドです。被害者意識を持った者は最高の強者なのです。結局は強迫反復的に自分がされたことを相手にもしてしまうわけです。これが感情論が入る理由ですね。
現在主流の白人系ユダヤ人(アシュケナジ)が実はアブラハムの血統ではなく、カザール人の末裔であると言う議論はまた別の話になると思います。これも遺伝学的研究がどうのこうのとかなりややこしいようですが・・・。

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