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神学と聖書のみことば
投稿日 : 2005/12/15 07:37
投稿者 赤子
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Luke先生のお書きになったものを少しずつ読ませていただいております。まだ、この世に完全な神学書というものは無いと思っていますが、これからも人間が神様にかかわることについて、また、人間について、その他の被造物について、また、神様の深遠なお考えについて考え想像しても、勿論、聖書のみことばに基づき、かつ、自然現象、また、その時点、その時点での科学の最先端の知識を駆使したとしても、人間は人間であって神様ではないので人間が完全な神学書を書き上げるということは出来ないとは思っています。しかし、より聖書の真理に忠実である神学書というものは期待されて良いのではないかと思うしだいです。例えば、Luke先生の<聖書のキーワード>などは、一般的には、組織神学と呼ばれている範疇に属するものだと思います。
 愚かな事を申し上げますが、「読書百遍意自ずから通ず」という諺がありますので、私も、旧新約の聖書通読を致しております。今年は65回目になります(何回読んでも見当違いの読み方をしていては何にもならない、との実感を持っています)。初めの頃は、がむしゃらに読んでおりました。しかし、旧約聖書は、背景の歴史を知らないとよく理解することが出来ない面もありますので、旧約の歴史も学んだほうがより良いと思い、一般向けの旧約の歴史に関する本なども読みました。その方が、聖書に書かれているみことばのの背景をより良く理解できました。
 それと同じように、救いや義認に関することを知りたいのに裁きについてのみことばを当てはめてもうまくはいきません。
 あるみことばは、あるテーマについて語っている、そしてそれは何時の事をさして言っているのか、予言や、約束のみことばの成就するときは時代的にいつなのか、預言者たちも神からのみことばを受けたときそれが誰を指して、また、何を指して、また、いつの時代のことなのかということを思い巡らした、と聖書には書いてあります。みことばをどのように解釈し、どのように適用するか、これを間違えるととんでもないことになると思います。
 神学者といわれる人たちが書いたものも、みことばなしで書いているわけではなく、常に理論体系の背後にみことばの裏づけがあるわけですから。ただ、場合によっては、その解釈が良いか悪いか、そのように適用しても良いものなのか、ということを問われることと思います。
 またまた、まとまりの無い文章を書いてしまって申し訳ありません。
 Luke先生もそういう意味では神学者だと私は思っています。
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神学者のオツムの悪さ
投稿日 : 2005/12/29 10:34
投稿者 Luke
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またまた異議をいただきました(汗)。「ルークさんがカルバンとアルミニウスの議論の無意味さを指摘する根拠となっているカオス理論は、あくまでも自然科学の領域の事例に過ぎず、霊的領域には適用できない」とのこと。

そろそろ私もキレましょうか。カルバンにならって「神学者はバカだ」と言いたくなって来ましたね(笑)。あまりまともに相手にしたくありませんが、ちょっとだけ言っておきますとね、認識論の問題なんですけどね。カオスの理論はわれわれの精神の言語・論理による認識能力の限界を示しているのです。

森に入って一本一本の木だけを見ていると、森の全体の位置が分からなくなる典型です。神学は・・・。以上で無意味な異議に対する回答はオシマイ。もっと勉強してから出直してきてください、ネ。

追記:
一応弁明です。本当を言うと、これかなり前からいただいており、回答するとこうなるので、ちょっと控えていたのです。ただし、神学者がすべて・・・とは言っておりませんので、そこんとこヨ・ロ・シ・ク。

でもね、何で日本にクリスチャンが少ないか、その原因は明らかでしょう?
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簡単にご回答を
投稿日 : 2005/12/29 09:58
投稿者 Luke
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まず確認したかったのは、ラッシュドゥーニーが富井さんと同じことを語っているのかどうかでした。下記のサイトで確認しますと、まさにそうでした:

・The Chalcedon Foundation
http://www.chalcedon.edu/

で、霊的領域の問題はすでに述べていますので、過去ログを見ていただくことにして、「論理必然的な狂気的要素」について触れます。

問題は彼らの世界観は「超民族的に普遍化され完成されたモーセ律法が適用される領域」と「そのモーセ律法が適用されない領域」しかないわけでして、後者は「ヒューマニズムに犯されている領域」となり、「神の権威に服していません」から、自動的に「サタンの領域であり、神の敵」となります。

現在の国家はもちろんモーセ律法を適用していませんから(モーセ律法を司法的法律化していない)、現国家はサタンの領域のものとなり、再建主義者に言わせれば、税金なども10%以上取るのは搾取であることになります。かくして現国家の神的権威を認めません。つまり現在の国家に委ねられている仕事を個人責任で負うべしとなります。(素朴な疑問ですが、富井さんが「日本の主権」と良く言われますが、この「主権」の法源は何でしょう?現日本はモーセ律法を採用していませんし、国際法も採用していませんからね・・・)

そこで山谷さん(http://bbs.infoseek.co.jp/Board01?user=makotoyamaya-lj)が紹介している事例ですと、例のニューオーリンズのハリケーン災害の原因は、国家があるために(i.e.個人が対応を怠ったため)と結論する再建主義論者が出ているようです。結局彼らの国家観を突き詰めますと、現在の国家自体が否定され、すべて個人のレベルで運営する必要が出てきます。これがチャーチスクールやホームスクールの起源です。さらにサイエンスなどもモーセ律法に即するべきものとなりますね。この辺で「カルバンvs.アルミニウス」で述べた幼稚な進化論批判となります(カルバンとアルミニウスの議論自体が現代のサイエンティストから見ると無意味であることも触れましたが。)。

彼らの問題のルーツは人間の裁量権というか、自律的領域を認めておらず、オセロゲームのようにモーセ律法の領域と、そうでない領域に分けている点です。彼らの神の国の拡大とはまさにオセロゲームでして、モーセ律法の適用領域を拡大することなわけです(伝道と教育によるそうですが)。こうしてすべてがモーセ律法の領域となるときにキリストの再臨があるわけです(ポストミレ)。(なお、これもフルプレテリズムとパーシャルプレテリズムに分裂しているようですね。)

この前提からすべての論理が組み立てられますから、後は押して知るべしです。

なお、聖書の国家観とモーセ律法観は次の通りです:

使徒17:26−また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。

ローマ13:1−すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。

1ペテロ3:22−キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである。

ヘブル7:11-19− さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、―民はそれを基礎として律法を与えられたのです。―それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。・・・その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、―律法は何事も全うしなかったのです。―他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。

かくして廃されたモーセ律法の後に今働いている法則は、上位互換ヴァージョンのはるかに優れた「いのちの御霊の法則」です:

ローマ8:2-4−なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

このいのちの御霊の法則に則るときに、自ずと律法の要求は満たさるのです。私はこれをWindowsを使うときに、意識しなくともMS-DOSを使っていると喩えているのですが、富井氏は、「超民俗化され完成されたモーセ律法とはいのちの御霊の法則ではない!」と明言されました。これが致命的でしたね。

なお、再建主義的国家モデルと無神論的リーバタリアニズムによる国家モデルが同一になってしまうことを山谷さんが指摘していますが、リーバタリアニズムについてはかつての私の同僚(副島氏)が紹介しています:

・副島隆彦の学問道場
http://www.soejimatakahiko.net/nlm/20.htm

山谷氏もここを参照しておられるのでちょっと驚きましたが・・・。

そしてもっと驚くべきことは、ポストミレを説く再建主義者のゲイリー・ノースが、「再建主義の普及のためには一度現代社会が崩壊する必要がある」と主張している点です。おいおい、これはディスペンセイションのプレミレの世界観では?

再建主義は聖書の真理から乖離していることは明らかですが、そのメタ言語としての内部自身に深刻な論理矛盾を抱えているようです。再建主義の土台であるカルバン自身が「モーセ律法を司法律法とすることは馬鹿げている」と言っているそうですから(私からするとカルバン自身も・・・と思いますが。これを言うと怒られるでしょうね^^)。かくして再建主義者の精神は、多分、分裂病的に自己崩壊していくことでしょう。

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Re: 神学と聖書のみことば
投稿日 : 2005/12/28 12:54
投稿者 うさぎ亭主
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ご無沙汰しておりました。
[まあ、私も今回の件で再建主義の創始者ラッシュドゥーニの文章などを読み、本質的な問題があると分かった、というより再建主義の究極には論理必然的に狂気的要素があるようだ]
これですが、もう少しわかりやすくご解説頂けませんでしょうか?
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Re: 神学論争のルーツ
投稿日 : 2005/12/19 11:12
投稿者 Luke
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今回の議論に巻き込まれて一度確認しておきたいことが明らかになった。

神学の論争のルーツはどこにあるのか。

これは人間のレベルで生じる現象であり、一方で神が何を最も大切にされるか。その対比が明らかにされたと思う。ディスペンセイション主義は再建主義を受け入れることができず、逆もまたしかり。で、それぞれは自分が聖書に堅く立っていると「信じている」。だから一歩も譲れない。(まあ、私も今回の件で再建主義の創始者ラッシュドゥーニの文章などを読み、本質的な問題があると分かった、というより再建主義の究極には論理必然的に狂気的要素があるようだ。)

果たしてこのような状況を神はどのようにご覧になるのだろうか。古の昔から神学上の対立(つまりどちらが真理かと言う争い)でクリスチャン同士が殺戮を繰り返してきたことは歴史上の事実。が、ここで確認しておきたいが、真理は第一義的にキリスト御自身である。「わたしは真理である。」そしてキリストは神学のドグマのセットではなく、いのちである。「わたしはいのちである。」

しかし何とも虚しいことに言葉尻の取り合い、否、それ以前に互いの言葉の定義を確認する間もなく自分の教義の押し付けに堕している。こういったことはわれわれサイエンティストは議論以前のマナーの問題なのだ。相手の言葉の定義を理解してから議論は成立するのだから。例えば「ヒューマニズム」の意味がまったく異なっている!(11月30日参照)

聖書はその方(パースン)を紹介する書であり、履歴書である。エマオの途上で青年二人にイエスは聖書がご自分について証ししていることを説かれた。しかし彼らは目が開かれるまでイエスご自身に気がつかなかった。文字を理解しても、本人を理解し得なかった。これと同じことが神学の論争では起きるのだ。真理なる本人を離れて、文字面の対立。それはまさに自己(Self)の表現。自己だから一歩も譲ることができない。それはきわめて強烈な魂のパワーによる。

一方で聖書はもちろん神の息吹きであり、神の霊が塗りこまれている。それは何のためか。いのちのためである。内に誕生したキリストのいのちの養育のためである。再建主義者富井氏との対話は、彼が「モーセ律法=いのちの御霊の法則」と宣言された時点で、すべてが見えてしまい、後は無意味と分かった。

再建主義にはいのちの次元が完全に欠如している。神の国は第一義的にいのちの領域。そのいのちに応じた統治がある。彼らはこの統治をいのちを抜きにモーセ律法の適用のみで成就しようとする。つまり絵に書いた餅。いかにキレイに、実物にソックリ欠かれていても、それは所詮絵である。まことのいのちを忘れ去った神学はかくも虚しい。

いのちの次元に戻ること。その時いのちに応じた統治が実現する。これが神のご計画のすべてであるが、これが欠如しているのが現在の教界。神学の議論の森の中に迷い込むと一本一本の木は見えても、森全体の位置は見えなくなる。それと同じような迷子状態にある。再建主義に対してはある種の期待もあったのだが、残念ながら最も本質的な部分がすっぽりと抜け落ちていたことが分かった。

一方でヒューマニズムに落ちた人気取りの「働き」が見かけ上栄え、一方でいのちの欠如したやや狂気の入った神学が孤立化し、ますます今後のニッポンキリスト教は混迷を深めるであろう。その混迷の中で内なるキリストを知り、いのちに与ることを経験した人は幸いである。(こういった表現は再建主義者からも普通の先生たちからもほとんど聞かれないのが不思議なのだ・・・)

前に書いたことがさらに重要になるようだ。

・もっとも本質的なこと(http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing33.html)

・論理と美しい情緒(http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing57.html)

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ピグマリオン症候群
投稿日 : 2005/12/18 19:09
投稿者 Luke
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って何?と質問をいただきました。ちょっとややこしいことを述べますが、私たちが何かのリアリティ(物理的・精神的・霊的)を認識するとは、それを適切な感覚器を通して内側に取り込み、それを言語化することなのです。言語は世界の映像です。ところがその映像をリアリティを差し置いて大事にすることがあるのですね。

ある所にピグマリオンという彫刻家がいまして、美女の像を造ったのですが、本人を差し置いて自分の作品の像に恋してしまったわけ。これが「ピグマリオン症候群」です。一種の倒錯的状態ですね。

私たちは人と関係するときに、その本人とつねに関係を持つわけで、その経験を通してその人のプロファイルを構成していきます。この人は明るいとか暗いとか、活発だとか内向的だとか。このような何かを記述する言語を「メタ言語」と言います。

カルバンにせよ、ウエスレーにせよ、彼ら自身の神との関係からそのプロファイルを作り上げたわけですが、そのプロファイル書を読んで、本人を分かったつもりになるとしたら、これはおかしいわけです。あるいは本人を差し置いて、互いの報告書を批判し合うと。神学者はメタ言語内でこのような議論をしているわけです。

私たちにはすでに聖書と言う主イエスの第1次のユニークなプロファイル報告書があります。ここにとどまればよいのです。さもないとカルバン神学の講解、さらにまたその講解・・・と言う無限後退性のジレンマに落ちます。ウエスレーについてBBSでどなたがお書きになりましたね。誰々によるウエスレー神学の解釈とか。ナンセンス!

へブル8:11にこうあります:

また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。

主は、「マイ・ジーザス」であり、「マイ・ゴッド」。そしてスウィートな方です。無意味な疲れる論争は専門の神学者に任せて、私たち普通のおじさん・おばさんは主ご自身をエンジョイしましょう。

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Re: 神学と聖書のみことば
投稿日 : 2005/12/18 05:46
投稿者 赤子
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どたんばさん、ありがとうございました。
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Re: 神学と聖書のみことば
投稿日 : 2005/12/17 21:00
投稿者 どたんば
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はい、了解しました!


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Re: 神学と聖書のみことば
投稿日 : 2005/12/17 20:11
投稿者 Luke
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どたんぱさんのおっしゃることは良く分かります。真実に赤子さんと交わりを持とうとされたわけですから。赤子さんも主の前でどうされるか祈られていると思います。

ただ私に関しては、赤子さんが「やらせ」かなと言う匂いを感じていました。まあよく感触を掴むためにチョンチョンと釣り糸を垂れる人もおりますから。

それから神学を学んだ人が、単なるサイエンティストである私から、例えばカルバンvsアルミニウスの論争が意味のないことだとか指摘されると、プライドは傷つくでしょうね。だから私が神学者であった方がいいわけです。

神学についてはBBSにも書きましたことを転載しておきます:

カルバンなり、ウエスレーなりも、まるふぁさんが書かれたように、別に自分の主義を建てようとしたのではなく、ひとりのクリスチャンとして神と向きあい、神と格闘した「跡」を残したのでしょう。それが一人歩きして、現代の「○○神学」ができて、互いに異端のラベルを張り合うことになったわけです。

カルバン派の人もカルバンの名で救われたわけでもなく、ウエスレー派も同じ。私もウォッチマン・ニーによって相当に助けられているが、ニーの名前で救われたわけでもなく、いのちを保っているわけでもない。自分の信奉している神学を批判されたり否定されると、いきり立つようになったらアブナイです。

神学がキリストへと導く道標であるならば意味がありますが、神学自体が自己目的化すると無意味です。そのことを意識したうえで、神学と付き合えばよいのかなと勝手に思っております。

一応これくらいでどたんぱさんも主にあってお心を鎮めてくださると感謝です。

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Re: 神学と聖書のみことば
投稿日 : 2005/12/17 09:15
投稿者 どたんば
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赤子さんへ
> Luke先生もそういう意味では神学者だと私は思っています。
>常に理論体系の背後にみことばの裏づけがあるわけですから。ただ、場合によっては、その解釈が良いか悪いか、そのように適用しても良いものなのか、ということを問われることと思います。

ルークさんに対して
なぜ、「あなたは神学者だ」
とおっしゃるのですか。それは、「神学者、神学」ということのプライドがなければ人対して言え無いことだと思うのですが。
また、あなたは、「個人預言とは何でしょうか?」と質問さ
どなたかの答えに対して、確か、
「ありがとうございます。うちの牧師(教会)はそういうことは言わないので安心です。」のようなことを仰いましたね。
いろいろ思い出してしまいます。
私に友人も、赤子さんのことでかなりショックを受けていました。
前回の私の書いたことも含めてどうしてこういう事をなさったのかその動機を教えて頂きたいのです。
私たちは少なからず、この赤子さんという新しい兄弟(姉妹)に、キリストの命の中でまっすぐ育って頂きたい!と本気で思って居たのですから。

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Re: 神学と聖書のみことば
投稿日 : 2005/12/15 09:04
投稿者 Luke
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そうですか、私は一自然科学者ですし、聖書の読み方もその立場で読んでいるだけなんですが。おっしゃることはよく分かります。

私が神学に苦言を呈するのは、神学は「メタ言語」に過ぎないことを、神学者は、あるいは学習者は意識していないように思えるからなんですね。「メタ言語」の意味はお分かりですよね。単なる「メタ言語」が、実質に置き換わってしまう危険性を覚えているのです(ピグマリオン症候群と言います)。

また何度も書いていますが、「学」としても、方法論と論理においてもあまりにも幼稚です。まあ、特殊事例かもしれませんが、再建主義などはどうみても御言葉から乖離し、「メタ言語」内で妄想化しています。

そしてもっとも大切なのは、「メタ言語」などは知らなくとも、カルバンとアルミニウスなどを知らずとも、信仰を持ち得ることです。実際、私は「TULIP」など、まったく知りませんでしたから。

その方についての履歴書を持たずとも、その方自身に触れることはできるわけで、それこそが信仰の本質であることを訴えたいわけです。

メタ言語の病理については

・科学と信仰
http://www.kingdomfellowship.com/Treatises/sciandfaith.html
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