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再建主義者富井氏との対話-旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/08 14:03
投稿者 Luke
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献金の問題もこれがクリアできれば良いのですよね。

喩えて言えば、MicrosoftのMS-DOSはWindowsの一部として吸収されて、WindowsはMS-DOSの上位互換となっています。Windowsを入手したら、あえてMS-DOSを買う人はいないでしょう。

新約のいのちの御霊の法則(The Law of the Spirit of Life)も旧約の律法の上位互換となっています。後者はレビ系の祭司制度でのもの(これは人を罪に定め、死をもたらす石に書かれたもの)、前者はよりすぐれたメルキゼデク系の祭司制度のもので(人を義とし、いのちをもたらす心に書かれたもの)、イエスはいのちの力によって大祭司と立てられたわけです。

<いのちの木vs善悪の木>から見ないと律法の問題も、イスラエルとエクレシアの問題もややこしくなって、感情論に陥る傾向を感じます。新約のLawはいのちの木のもの、旧約のLawは善悪の木のものです。

つまり私たちが100%いのちの法則に則っていれば、旧約律法の、否、それ以上の基準を生きているはずなのです(ただ経験的にはいのちの成熟度によって不十分な部分があるわけですが、これはイエスの血が解決してくれます。またそれぞれが達し得たところに従って生きればよいわけです。)。献金もこの点から考えてみてくださいませ。(どうもこのテーマは額の問題で熱くなってしまうようですから・・・^^)

・「祭司制と律法について」
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/priest_law.html
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Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/08 14:30
投稿者 月光仮面
参照先
「善悪の木」と「命の木」について、多くの牧師は漠然と説教しているだけです。このような真剣な議論をして、真理が明らかになることを期待します。しかしながら、疑問に思うのは、木の実を取っただけで、それ以後、生まれたすべての人に罪が内在しているということです。木の実を取ったというのは比喩であり、何か深い罪の行為があったのではないでしょうか。
論点のまとめ(3)
投稿日 : 2005/10/08 14:30
投稿者 Luke
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> では富井さんと言う方はキリストの十字架のもつ意味は。何だと仰ってるのでしょうか?

富井さんも十字架の意義は十分に知っておられると思いますよ。ただ彼のこれまでの歩みを理解しますと、ディスペンセイションから再建主義に転向しておられるわけです。これは大きなパラダイムシフトなのです。

で、彼の理解するディスペンは、律法の「祭儀的意義(第1,2の意義)」と「倫理的意義(第3の意義)」を共に排除していることが今日の教界の諸悪の根源だ。(ここで私はそのディスペンの人と【みなされた】わけです。)だからディスペンは諦めの神学に堕している。律法の第3の意義は生きているのだ。神は「地を従わせよ」と命じられた。それを地上に実現するのだ(ただし強制ではなく宣教による)。現在はすでに千年王国に入っている。そして御国が地上に確立した時に主は再臨される。

律法を行なえば祝福された生活を送れるのだ。だから律法を司法も含めてあらゆる分野に適用するのだ。旧約のユダヤ人も車は故障している(永遠の命は得てない)が、JAF(聖霊)の手助けがあればその生活を送れるのだ。だから律法も「いのち」を与えるのだ。

ただしこの「いのち」は十字架によって提供されるいのちとは違うわけです。ですから、私の根本的疑問がWindowsとMS-DOSの関係になるわけですね。

富井さん、これでよろしいでしょうか?
Re: 論点のまとめ(2)
投稿日 : 2005/10/08 14:29
投稿者 てんてこまい
参照先
> もう少しまとめておきましょう:
> > 富井さんは、<永遠のいのちを得ること=義認>として、<神の基準に沿った祝された生活を送ること>とは別のものとしていますね。これも大きな発見です。
> なぜなら、私たち自然科学者からすれば「いのちと生活はひとつ」だからです。犬は犬のいのちによる生活、人は人のいのちによる生活。で、律法を行なうにはソレを行なえるいのちを得ればよいわけです。自動的に生活もそれを反映します。それは人の意志の力ではなく、霊的な法則によります。

このまとめ(2)によって「富井さん」と言う方の考え方がよくわかりました!
といいつつも・質問なんです!
では富井さんと言う方はキリストの十字架のもつ意味は。何だと仰ってるのでしょうか?
論点のまとめ(2)
投稿日 : 2005/10/08 14:28
投稿者 Luke
参照先
もう少しまとめておきましょう:

富井さんは、<永遠のいのちを得ること=義認>として、<神の基準に沿った祝された生活を送ること>とは別のものとしていますね。これも大きな発見です。

なぜなら、私たち自然科学者からすれば「いのちと生活はひとつ」だからです。犬は犬のいのちによる生活、人は人のいのちによる生活。で、律法を行なうにはソレを行なえるいのちを得ればよいわけです。自動的に生活もそれを反映します。それは人の意志の力ではなく、霊的な法則によります。
論点のシェマティックなまとめ
投稿日 : 2005/10/08 14:28
投稿者 Luke
参照先
■富井さんの構図は

聖霊
 ↓(神が送られたと考えられる) 
旧約の民→律法を行なう→いのちを得る(祝された生活を送る)

よって、律法は力はないが、いのち(あるいは生活、Zoeではない)を与える(ただしクリスチャンの霊性とは異なる)。

■私の構図は

律法はいのち(Zoe)を与えないから、キリストが死と復活を通していのちを与える霊となって

御霊の内住        
 ||
いのち(Zoe)なるキリストの内住→律法(それ以上)を自動的に全うする
 ||
力を得る(いのちの御霊の法則)

よって、いのちの御霊の法則はモーセ律法の上位互換である。(注:モーセ律法の第3の機能は排除されるどころか、むしろ吸収されている)
【訂正版】Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則D
投稿日 : 2005/10/08 14:27
投稿者 Luke
参照先
最後に

>「善悪路線からいのち路線にもたらすこと」が救済ならば、善悪路線に属すると言われる律法は、「そこから救済されるべき奴隷と死のくびき」と見られても仕方ありませんが…。

これも御言葉で、ガラテヤ書に

3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。
3:14 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

とあるとおりですね。

そして残った疑問は・・・上にも書きましたが、WindowsはMS-DOSの上位互換です。つまりWindowsを使えば、自動的にMS-DOSも使っているのです。同じようにいのちの律法(法則)も石の律法の上位互換です。Windowsを持っている私たちが、何ゆえにそこまでMS-DOSを主張し続ける必要があるのか知らんと。恵みによって働くいのちの法則は自動的に石の律法、否それ以上を全うしてくれるのですから。


【訂正版】Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則C
投稿日 : 2005/10/08 14:27
投稿者 Luke
参照先
>そして、律法は道ではあるが、道を歩ませる原動力は霊である。歩ませる力を与えないというので律法を「いのちを与えない」と断定するのは間違いです。
>たとえば、手元に高速道路マップがあるが、車が故障している場合、高速道路マップを「役立たず」と捨ててしまうでしょうか?車という原動力があれば、それは十分に役立つものなのです。

やれやれ、これもサイエンティストには理解不能です。いのちをもっていればそれに応じた属性があり、能力がある。マップを持つことといのちをもつことは別のことです。律法がマップであることは同意ですが、力のないエンジンの車でそのマップを行けと言われてもねぇ・・・。(JAFを呼ぶのかな?)

力がない以上いのち(Zoe)を与えない(富井さんのいわれる「いのち」は与えるのかも知れませんが・・・)、逆にいのちを与えれば力があるのです。私の言ういのち(Zoe)を得ることはまさにその原動力を、JAFを呼ぶのではなく、【内に得る】ことだと私は言っているのですが。

「律法とクリスチャンについて」
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/Howtokeeplaws.html

これはヘブル書に

11:39 この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。
11:40 神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。

とあるとおりです。そして私の信じている「救済」とは、まさにこの彼らが得損なったいのち(Zoe)を得ることであり、そのいのちによって神の基準を生きることです(=律法を全うすること)。

【訂正版】Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則B
投稿日 : 2005/10/08 14:26
投稿者 Luke
参照先
ところでギリシャ語の「いのち」にはZoe,Psyche,Biosとありますよね。パウロがガラテヤで言っているのはZoeの意味ですね。またイエスが下さるいのちもZoeです。もちろん私もこの意味でとらえています。これが新約の民の特権でしょう。

(このいのちへの選び私の言う「本質的選び」です。しかしイエスを拒んだユダヤ人はこれを得損なった。律法を行なうことによって祝福されるユダヤ人の選び(ロマ書9,11章の)を「経綸的選び」と呼んでいます。http://www.kingdomfellowship.com/Topics/churchandIsrael.html

で、最も大事な点です:つまり旧約の民が神が送ったと考えられる聖霊によって律法を守って得ることができた「いのち」は、ただイエスを信じることによって得られる私たちのいのちとは違うわけですね。これは同意です。

御霊と人の関わりにおける旧新約の違いについてはこちらをお読みいただけると幸いです。

・「御霊と人の関わりについて―油注ぎ(on)と油塗り(in)―」
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/Anointing.html

で、今回いただきましたレスで分かったことは、富井さんの言っている律法が与えるいのち(すなわち律法を守ることによって得られるいのち)と、イエスが与えるいのち(すなわち信仰によって得られるいのち)は違ったものであると言う事です。これは収穫でした。

【訂正版】Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則A
投稿日 : 2005/10/08 14:26
投稿者 Luke
参照先
またヘブル書にも

8:7 もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。

とあります。

だからレビ系の祭司制度による律法は、メルキゼデク系の祭司制度(キリスト系)によるいのちの御霊の法則に制度が変えられたわけです。

で、なぜ御言葉と明らかに反することを主張されるのかなと思って読んでいると、

>律法を「永遠の生命を与えるものとして」見た場合と、「民が祝福を受ける生活を送るためのものとして」見た場合とを区別しないと、律法全廃論と見なされても仕方がないのです。

なるほど。「いのち」と「生活」を区別するわけですね。ただ私の言っていないことをもって、私をそう「みなす」のは困ります。私たちサイエンティストはこのような主観性を最も排除します。

>たしかにそうです。しかし、旧約聖書の民は、時代によって霊的状態は違いますが、総じて言えば、実際にいのちの生活をしていた。

その根拠は、「律法は聖霊に拠らなければ守れない」が、

>旧約時代においても神が聖霊を送られて、律法を守ることができるようにされたと考えることは可能です。

結局ココが富井さんとの食い違いのポイントになるわけです。

「総じて言えば」と言う部分もわれわれサイエンティストには不可解です。得たのか、得なかったのか、どちらなんですか、と。

次に「神が聖霊を送って・・・と考えることは可能です」は富井さんのスペキュレーション(推測)ですね。これも私たちは避けるところです。
【訂正版】Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則@
投稿日 : 2005/10/08 14:26
投稿者 Luke
参照先
> 応答です。
>
> http://www.path.ne.jp/~robcorp/bbs/wwwboard.cgi

あ、これは失礼致しました。上のレスは削除しました。レスをありがとうございます。とてもうれしく感じます。

今ざっと読ませていただきました。どうして同じ聖書を読みながら富井さんと違いが出るのか不思議だったのです。

ディスペンセイションと契約神学のフレームをはめられてしまうのは、ちょっと私の立場(=御言葉のみ)に会いませんが、まあ、そこは別に論点ではありませんので。

まずディベートの前提として必要性を覚えたのは、私は聖書の御言葉に立っている者でして、神学者の学説や書物に拠る者ではありません。ですからディスペンや契約神学がどうのこうのと言われても、何分浅学な者ですので、応答できません。ですから聖書のみ言葉に基づいてお話いただけるようにお願い致します。

そこでいくつかお伺いしたいことがありますが、お忙しいようですので、論点を絞ります。律法についての評価は大体うなづけますが、今回、特に驚いたのは

>律法はいのちを与えます。
>だから、「律法はいのちを与えない」というのは、極端な言い方であり、聖書全体を見た場合、むしろ「律法はいのちの道」であると言ったほうが正当なのです。

です。いやあ〜、実に驚きです。これはやはり私との違いの一番のポイントですね。

ガラテヤ3:21 とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。

「いのちを与えることのできるものであったなら」は仮定法(事実に反する前提)ですよね。私は先に述べたとおり、神学書ではなく、御言葉に書いてある通りに受け取っているのです。

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