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再建主義者富井氏との対話-旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/08 14:03
投稿者 Luke
参照先
献金の問題もこれがクリアできれば良いのですよね。

喩えて言えば、MicrosoftのMS-DOSはWindowsの一部として吸収されて、WindowsはMS-DOSの上位互換となっています。Windowsを入手したら、あえてMS-DOSを買う人はいないでしょう。

新約のいのちの御霊の法則(The Law of the Spirit of Life)も旧約の律法の上位互換となっています。後者はレビ系の祭司制度でのもの(これは人を罪に定め、死をもたらす石に書かれたもの)、前者はよりすぐれたメルキゼデク系の祭司制度のもので(人を義とし、いのちをもたらす心に書かれたもの)、イエスはいのちの力によって大祭司と立てられたわけです。

<いのちの木vs善悪の木>から見ないと律法の問題も、イスラエルとエクレシアの問題もややこしくなって、感情論に陥る傾向を感じます。新約のLawはいのちの木のもの、旧約のLawは善悪の木のものです。

つまり私たちが100%いのちの法則に則っていれば、旧約律法の、否、それ以上の基準を生きているはずなのです(ただ経験的にはいのちの成熟度によって不十分な部分があるわけですが、これはイエスの血が解決してくれます。またそれぞれが達し得たところに従って生きればよいわけです。)。献金もこの点から考えてみてくださいませ。(どうもこのテーマは額の問題で熱くなってしまうようですから・・・^^)

・「祭司制と律法について」
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/priest_law.html
< 12345678910>
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/12 22:21
投稿者 富井
参照先
<LUKE様>

これについては別スレの「エクレシアとイスラエル」で、契約のあり方が<旧約=双務契約>、<新約=片務契約>という違いがあると理解しています。ここにも転載しておきます:

-----転載------
旧約は要するに両当事者、つまり神(甲)と人(乙)があるわけです。しかもこの間に絶望的な溝がある。乙が甲の命じるところを行なえば、甲は乙を祝福できるが、行なえなければ呪いを刈り取る。これが双務契約です。

 旧約のシェーマ:神 ⇔ 人 (力がないために失敗)
          (甲) (乙)

新約では神の第二格位である御子が人になることにより、神は甲と乙の両当事者をキリストにあって引き受けることができるようになった。御子は御父に対する犠牲の供え物として代価を払い、我々の債務を消して下さった。同時に律法をまっとうし、完全な義を成就した。

          (甲)    (甲かつ乙)
 新約のシェーマ:父 ⇔ 御子=神−人 (成就)
            完全        |   |
                     私たち←効力
                       ↑
                      御霊の力(いのちの法則)

信仰によってキリストの死と復活に結合され、キリストの内に置かれた私たちは、この法的効果を継承できるわけです。これが片務契約の意味です。ですから神が人になること、すなわち両当事者を引き受けることが、新契約を確立する本質的な要素なのです。よって神が三にして一でないと救い自体が成立しないのです。

では現在の私たちの責任はと言えば、古い自分はすでにキリストと共に死に、共に復活したことを認め、御霊に従ってその霊的リアリティの中に留まり、歩むこととなるわけです。これは内にあるいのちの力といのちの御霊の法則によるわけです。
----転載終わり----

<tomi>

旧約の契約は、LUKEさんの言い方によれば、片務契約なのです。

すでに申し上げましたが、モーセ律法は、「恵みの契約の中にいる人々に与えられた法」なのです。

それを守れなければ永遠の生命を失い、呪いを蒙るというようなものではなかった。

民には、「罪の赦し」が与えられており、動物を犠牲にすることによって罪が赦された。

これは、現在のクリスチャンとまったく同じです。

旧約聖書の民も新約聖書の民も同じ一つの民であり、旧約聖書の契約も新約聖書の契約も一つなのです。

犠牲が動物とキリストで違うというだけです。

では、旧約聖書においてなぜ民が裁かれているのか?という疑問が起こるかもしれません。

それは、「神の民としての清めの訓練」であるか、もしくは、「契約からの追放」です。

契約追放について言えば、旧約において殺人者は、契約の民から「断ち切られ」ました。すなわち、恵みの相続人の地位を失った。

新約聖書においても、神は「悔い改めない罪人」を教会から追い出される。

教会が追い出さない場合、その人を裁かれ、病気にしたり死なせたりする。

「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」(1コリント11・29-30)
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/12 22:09
投稿者 富井
参照先
<LUKE様>
>私は、改革主義と同様に、「心に書き記された律法」は、モーセ律法のことを意味していると考えます。(*)

なるほど。ここがひとつの違いですね。発見です。私の理解は

マタイ5:20−まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。

に基づいて、<いのちの御霊の法則⊃モーセ律法>(つまり上位互換)なのです。しかも(キリストの)いのちはこれを私の努力にはよらず成就する。だからWindowsとMS-DOSの関係だと言っているわけです。MS-DOSでマルチメディアをやろうとしたら相当に大変ですが、Windowsならばきわめて簡単です。

いつも例で言うのですが、二足歩行するには相当に複雑な微分方程式を解かなくてはならない。しかし知的には無理でも、人のいのちを得ていれば、誰でも歩ける。もちろん当初の意志的訓練は必要ですが、いずれ自動的になります。法則を全うしているから歩けるわけです。

ですから、私たちの責任は旧約の時のように、直接にモーセ律法に対するのではなく、いのちに対する、すなわち御霊によって歩むことであり、その歩みおいて自然と律法(の精神)が全うされると。いのちに従っていたら、罪を犯すことはできません。(もちろん失敗はありますが・・・)

<tomi>

(1)
モーセ律法よりも優れた法ならばそれはどこに書かれてどういう法なのかが具体的に明らかにならなければなりません。

しかし、新約聖書には、そんな法はどこにも書かれていない。相変わらず、パウロは、新約聖書において、モーセ律法を引用して、モーセ律法を権威として扱っている。

もし、モーセ律法よりも優れた法があるならば、その法をパウロや聖書記者があげて解説していなければならないのにまったくないというのはおかしいですね。

繰り返して言いましょう。

「そのモーセ律法よりも優れた法というのがあるとすれば、それが新約聖書において具体的に記されていないのはなぜか?」

このことに答えがなければ、まったく補強聖句のない教理になり、正統的な教えとして広めるには、致命的な欠陥といえるでしょう。


(2)
「しかも(キリストの)いのちはこれを私の努力にはよらず成就する。だからWindowsとMS-DOSの関係だと言っているわけです。MS-DOSでマルチメディアをやろうとしたら相当に大変ですが、Windowsならばきわめて簡単です。」

いのちが努力によらずに成就するのは、モーセ律法の場合でも同じです。

このモーセ律法よりも優れた法というものでなければならないというわけではありませんね。


(3)
「私たちの責任は旧約の時のように、直接にモーセ律法に対するのではなく、いのちに対する、すなわち御霊によって歩むことであり、その歩みおいて自然と律法(の精神)が全うされると。」

御霊によって歩むことは、御霊の力によって「モーセ律法を守る」ことを意味するのです。

「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8・4)

新約時代になったら、「直接にモーセ律法に対する」責任はなくなったということを証明することはできません。むしろ、聖書は逆のことを証言しています。

パウロは、信者に対して「律法も言うように、…しなさい。」と命令しています。

「教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。」(1コリント14・34)

パウロは、クリスチャンに「モーセ律法を守れ」と言っているのです。

「私がこんなことを言うのは、人間の考えによって言っているのでしょうか。律法も同じことを言っているではありませんか。
モーセの律法には、『穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。』と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。 それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。…」(1コリント9・8-10)
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/12 21:31
投稿者 Luke
参照先
>私は、改革主義と同様に、「心に書き記された律法」は、モーセ律法のことを意味していると考えます。(*)

なるほど。ここがひとつの違いですね。発見です。私の理解は

マタイ5:20−まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。

に基づいて、<いのちの御霊の法則⊃モーセ律法>(つまり上位互換)なのです。しかも(キリストの)いのちはこれを私の努力にはよらず成就する。だからWindowsとMS-DOSの関係だと言っているわけです。MS-DOSでマルチメディアをやろうとしたら相当に大変ですが、Windowsならばきわめて簡単です。

いつも例で言うのですが、二足歩行するには相当に複雑な微分方程式を解かなくてはならない。しかし知的には無理でも、人のいのちを得ていれば、誰でも歩ける。もちろん当初の意志的訓練は必要ですが、いずれ自動的になります。法則を全うしているから歩けるわけです。

ですから、私たちの責任は旧約の時のように、直接にモーセ律法に対するのではなく、いのちに対する、すなわち御霊によって歩むことであり、その歩みにおいて自然と律法(の精神)が全うされると。いのちに従っていたら、罪を犯すことはできません。(もちろん、肉に従っていのちから外れると言う失敗はありますが・・・)

これについては別スレの「エクレシアとイスラエル」で、契約のあり方が<旧約=双務契約>、<新約=片務契約>という違いがあると理解しています。ここにも転載しておきます:

-----転載始め------
旧約は要するに両当事者、つまり神(甲)と人(乙)があるわけです。しかもこの間に絶望的な溝がある。乙が甲の命じるところを行なえば、甲は乙を祝福できるが、行なえなければ呪いを刈り取る。これが双務契約です。

 旧約のシェーマ:神 ⇔ 人 (力がないために失敗)
          (甲) (乙)

新約では神の第二格位である御子が人になることにより、神は甲と乙の両当事者をキリストにあって引き受けることができるようになった。御子は御父に対する犠牲の供え物として代価を払い、我々の債務を消して下さった。同時に律法をまっとうし、完全な義を成就した。

          (甲)    (甲かつ乙)
 新約のシェーマ:父 ⇔ 御子=神−人 (成就)
            完全        |   |
                     私たち←効力
                       ↑
                      御霊の力(いのちの法則)

信仰によってキリストの死と復活に結合され、キリストの内に置かれた私たちは、この法的効果を継承できるわけです。これが片務契約の意味です。ですから神が人になること、すなわち両当事者を引き受けることが、新契約を確立する本質的な要素なのです。よって神が三にして一でないと救い自体が成立しないのです。

では現在の私たちの責任はと言えば、古い自分はすでにキリストと共に死に、共に復活したことを認め、御霊に従ってその霊的リアリティの中に留まり、歩むこととなるわけです。これは内にあるいのちの力といのちの御霊の法則によるわけです。
----転載終わり----

ディスペンセイション神学が、恵みと律法の関係をそのように排他的関係として理解しているとは、私の認識不足でした(真実はどうなんでしょう?)。私は「ディスペンセイション」を原義的意味の「いのちを分与すること」の意味で使っているだけですので。なお私はプレミレです。(理由はディスペンの根拠以外にありますが)。神と人の関係の原則は旧約であれ、新約であれ、信仰によります。

現在でも裁き(と言うより訓練・取り扱い・矯正)があることはおっしゃるとおりです。撒いたものは刈るわけです。富井さんと再建主義の関係が、お証を通して見えたような感じがします。

教界の現状に対する富井さんの問題意識は共有することができます。私の対策は、十字架の正しい意義を回復し、死と復活を通して働くいのちの法則の力を経験することが必要と考えています。

「律法が人気がない」のはニッポン人の精神病理である強迫性と非常に関係していると思います。

ともあれ、今回のディカッションで富井さんと私との間で共有できる部分と違いのある部分が分かって収穫がありました。感謝いたします。

ただ、あと数点、サイエンティストとして疑問を覚える部分があるのですが、少し間を置いて提起させてもらいたいと思います。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/12 19:21
投稿者 富井
参照先


(*)現在、教会には、「心に書き記された律法」を「何かモーセ律法とは別の法」と考えています。この誤謬が、「モーセ律法はすでに廃止された」との言説と合わせて、モーセ律法全廃論が展開されています。

モーセ律法は廃止されていない。これが改革主義の歴史的な主張であり、ウェストミンスター信仰告白ははっきりと伝えています。

しかし、ディスペンセーショナリズムが19世紀の前半に、歴史を7つの互いに排他的な原理が支配する7つの時代に分けて、「律法の時代」と「恵みの時代」を分けてしまい、律法の時代に恵みなし、恵みの時代に律法なし、という考えが、キリスト教界全体に広まってしまった。

私が出た改革主義の神学校でも、説教演習の授業で、私が「律法はロードマップであり、正しい生活に導いてくれる」と説教したところ、「それはおかしい」と講師から言われた。彼は、神戸改革派神学校の卒業生でした。

福音派の教会において、「律法を守ろう」と説教したところ、後で信徒から「律法はキリストの犠牲において廃棄されたのではないですか?」と尋ねられた。

律法は人気がない。

もともと改革派やカルヴァン主義の教会において律法は正しく扱われていたのに、今日このように嫌われるようになったのは、ディスペンセーショナリズムの律法観の影響と考えています。

私は、律法の正しい意義を回復しなければならないと考えています。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/12 19:21
投稿者 富井
参照先
<LUKE様>

内なるいのちと外なる御言葉の両輪が必要であることは全く同意です。ただ私は内なるいのち(キリストのいのちですから!)といのちの法則にはかなり信頼(信仰)を置いていますが。

そこでひとつ残った疑問が、いわゆるモーセ律法といのちの法則の関係なのですね。再建主義ではモーセ律法を強調する印象があるのですが。

私は両者の関係をそれぞれMS-DOSとWindowsのように、上位互換であると表現しているわけです。旧約の律法は石の板に書かれたが、それにまさる律法(法則)が心に書かれるのが新しい契約であるとあります:

エレミヤ31: 33―彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

これはヘブル書も語るところであり、私はこの心に書かれた律法が、いのちの力によって大祭司とされたキリストのメルキゼデク系の祭司制の律法、すなわちいのちの御霊の法則であると理解しているわけです。で、これは石の律法の上位互換であると。ですから恵みと(モーセ)律法は互いに背反ではありません。

富井さんの主張が誤解を受け易い点は、「律法を適用する」と言う部分のような感じがします。どうしていのちの法則の働いている新約でモーセ律法を強調するのだろうかと。WindowsがあるのになぜMS-DOSなんだというわけです。「モーセ律法の適用」ではなく、「御言葉の適用」と言われると理解し易いわけです。

<tomi>

私は、改革主義と同様に、「心に書き記された律法」は、モーセ律法のことを意味していると考えます。(*)

なぜならば、「天地が滅びない限り、一点一画たりとも地に落ちることはない」からです。

律法という言い方が誤解を受けるならば、「御言葉」と言ってもよいと思いますが、しかし、御言葉とは、律法のことです。

イエスやパウロの言葉は、モーセ律法に準拠しており、それと矛盾する言葉は一つもありません。

今日教会がニューエイジとか様々な異端の教えに毒されている根本的原因は、「法が存在するのだ」ということを見逃しているからだと思います。

個人的なことになりますが、私は、若い頃、ロックギタリストを目指していて、回心して、教会に加わった後でも、生活は、ある意味において普通のクリスチャンに到底及ばないものでした。

ディスペンセーショナリズムの影響を受けた牧師が「クリスチャンは何をしてもいいのです。殺人しても、姦淫してもいい。ただ、すべてが益となるわけではないが。」とさかんに説教していました。

それを聞いて幼いクリスチャンだった私は、「なんだ、何をやってもいいのか。」と思って、大学時代の前半には、半分この世の人的な生活をしていたのです。

ある時、裁きが来ました。これは、説明のしようがないほど恐ろしいものでした。はっきりと神が自分を裁いているということが分かりました。

その時気づいたのです。「なんだ、何をしてもよいというわけではないじゃないか。法が支配しているじゃないか。」と。

神は、罪の生活を嫌っておられる。

神は、罪人を裁かれる。

この時から私は、とうていディスペンセーショナリズムの律法廃棄論を信じることができなくなった。

ラッシュドゥーニーの著作を読んだときに、「神の律法に基づく賞罰」がはっきりと記されていて謎が氷解しました。

ディスペンセーショナリズムは、報いと裁きは来世にあると教えていますが、そうじゃない。この世においても起きる。

だから、法的な考え方をする必要がある。御言葉というよりも法という概念が重要だと思うのは、このような経緯があったからです。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/12 18:42
投稿者 Luke
参照先
レスをありがとうございました。

内なるいのちと外なる御言葉の両輪が必要であることは全く同意です。ただ私は内なるいのち(キリストのいのちですから!)といのちの法則にはかなり信頼(信仰)を置いていますが。

そこでひとつ残った疑問が、いわゆるモーセ律法といのちの法則の関係なのですね。再建主義ではモーセ律法を強調する印象があるのですが。

私は両者の関係をそれぞれMS-DOSとWindowsのように、上位互換であると表現しているわけです。旧約の律法は石の板に書かれたが、それにまさる律法(法則)が心に書かれるのが新しい契約であるとあります:

エレミヤ31: 33―彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

これはヘブル書も語るところであり、私はこの心に書かれた律法が、いのちの力によって大祭司とされたキリストのメルキゼデク系の祭司制の律法、すなわちいのちの御霊の法則であると理解しているわけです。で、これは石の律法の上位互換であると。ですから恵みと(モーセ)律法は互いに背反ではありません。

富井さんの主張が誤解を受け易い点は、「律法を適用する」と言う部分のような感じがします。どうしていのちの法則の働いている新約でモーセ律法を強調するのだろうかと。WindowsがあるのになぜMS-DOSなんだというわけです。「モーセ律法の適用」ではなく、「御言葉の適用」と言われると理解し易いわけです。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/12 16:58
投稿者 富井
参照先
LUKE様
こんにちは

お待たせして申し訳ございません。
翻訳が昨日完成し、納品しました。

このテーマ「律法と約束(福音)」については、普通の改革主義の教会の意見と我々の意見はまったく一致しているので、その点我々を新しい運動のように理解されないようお願いします。

律法が契約の民のいのちの生活に寄与するという考えは、我々が独自に主張しているわけではなく、カルヴァンをはじめ、改革主義が500年間言いつづけているところです。

しかも、再建主義の新しい部分として「生活のあらゆる領域に律法を適用する」という考え方もけっして新しい教えではなく、カルヴァンが申命記講解において主張し、アメリカピューリタンが主張しているところでもあります。

再建主義には、歴史上はじめて言い出したというものはありません。

はじめてやったと言えば、歴史上すでにあった正統派プロテスタントの教え(前提主義、統治主義、神法主義、契約主義、ポスト・ミレ)をまとめて提示したということでしょう。

だから、これだけ我々に対して批判があることに正直言って驚いています。

>富井さんのもっとも主張したい点は、ヒューマニズムに落ちている現状を改め
>よ、ということだと理解しました。それには律法の意義を司法を含めてあらゆる
>領域に適用せよと言うわけです。ここが再建主義の特徴であり、ここが私たちと
>の違いなんです。それを論証しているのが山谷氏の主張なのです。

これは、再建主義の特徴ではなく、改革主義の特徴です。
カルヴァンは、セオノミーを信じていました。つまり、神の法を行政、司法など様々な領域に適用すべきだと考えていました。
ウェストミンスター教授だったコーネリアス・ヴァン・ティルは、この地上のあらゆる領域をキリスト礼拝の場にせよと言いました。

山谷さんは、何も論証などしていません。
彼が意見を述べたことはなかった、ただ質問しただけです。





>つまり、私たちはいのちを生きれば、自動的に神の御心が地上に成就するわ
>けです、が、実際はクリスチャンが砂糖まぶしをしているわけなんです。つまり
>は「私の十字架」がないわけです。つまりは天国行きの切符をもらったところま
>でで、いのちを知らないので、「清く・正しく・美しく」のお体裁の世界になってい
>るわけですね。

「いのちを生きれば、自動的に神の御心が地上に成就する」ならば、聖書はいりません。

人間はたとえ再生され、いのちを得ても、「書かれた指針」がなければ正しく歩むことはできません。

聖霊と聖書という両者が必要であり、この点については、我々の主張は改革主義のオーソドックスな見解と一致しています。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/10 18:53
投稿者 Luke
参照先
ええと、彼が言っている律法を守ることによって得られる「いのち」は、再生によってクリスチャンが得るいのちとは違うわけです。私の言う経綸的意味での「あり方」、もっと言えば「生活」なんですね。

だから彼も霊の再生によって得られるいのちを否定しているわけではないのです。同様に私も律法の第3の機能を否定していないわけです。これはいのちの御霊の法則に上位互換の形で吸収されているからです。

富井さんのもっとも主張したい点は、ヒューマニズムに落ちている現状を改めよ、ということだと理解しました。それには律法の意義を司法を含めてあらゆる領域に適用せよと言うわけです。ここが再建主義の特徴であり、ここが私たちとの違いなんです。それを論証しているのが山谷氏の主張なのです。

つまり、私たちはいのちを生きれば、自動的に神の御心が地上に成就するわけです、が、実際はクリスチャンが砂糖まぶしをしているわけなんです。つまりは「私の十字架」がないわけです。つまりは天国行きの切符をもらったところまでで、いのちを知らないので、「清く・正しく・美しく」のお体裁の世界になっているわけですね。

Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/10 16:52
投稿者 てんてこまい
参照先

敬愛いたしますルークさん!

こんな者のために貴重なお時間を削ってお付き合い頂きまして、ほんとうに感謝です。m(__)m

>そして、律法は道ではあるが、道を歩ませる原動力は霊である。歩ませる力を与えないというので律法を「いのちを与えない」と断定するのは間違いです。
>たとえば、手元に高速道路マップがあるが、車が故障している場合、高速道路マップを「役立たず」と捨ててしまうでしょうか?車という原動力があれば、それは十分に役立つものなのです。


ロマ2:19また知識と真理の具体的な形として律法を持っているため〜

律法が指し示してしるのは、絶えず「イエス・キリスト」でありますから、このようにみことばを無視して強引に「仮説」に引っ張って行こうとするのは、良い事ではないと思います。このような例え話しには「人間臭さ」を感じてしまいます・・・(-_-)

富井氏の主張は、自分の主張と相反するみことばに対しては何の解釈も示さず、ただ自分の論理に突っ走っているように思えます。
違ってるでしょうか・・・(富井氏の論文を直には全部読んでいないのです・・理屈を捏ね回しているようで耐えられないのです・・)

ロマ7: 10 [新共同
〜命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。

そして何よりも「聖霊は律法を守る時に働く」という富井氏の主張が「間違い」であると私は思うのです。
これから聖書をひっくり返して調べなきゃいけないですが、今私に解ることは

ヨハネ三章から人は新しく生まれて神の国に入るためには「水と御霊」が必須であるということ、

その御霊を私たちに、「新しい命を与えるために、新しい命で生きるために、キリストを通して与えて下さった」ということだけです。

富井氏は
主がニコデモに仰っているように
人間は新しい命をまず聖霊によって受取って、
そしてさらに『その聖霊によって律法を守る力を与えられる』
と主張しておられるのでしょうか。

そこんとこ、どうぞよろしく、ご指南戴きたいのですが///m(__)m


Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/08 14:30
投稿者 Luke
参照先
> しかしながら、疑問に思うのは、木の実を取っただけで、それ以後、生まれたすべての人に罪が内在しているということです。木の実を取ったというのは比喩であり、何か深い罪の行為があったのではないでしょうか。

これについてはこちらをご参照下さい:

・「JAVAと信仰」
http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing49.html

・「包括の原理について」
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/identification.html

「何かの罪の行為があったかなかったか」は聖書が語っていませんので、私も語りません。
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