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異端:カルトの定義
投稿日 : 2005/10/09 21:00
投稿者 ブヒちゃん
参照先
(;_;)明らかに異端と言われてる所は当然ですが、一見普通に見える教会・・・?教界・・?で傷つく人が余りにも多いように思います。単なる甘えなのでしょうか・・・?
いろんなケースが考えられると思いますが、何故、そう云う事が起こるのか、何が問題なのか、私たちが出来る事は何なのか、皆さまのご意見をお聞かせください。
よろしく、お願いします。

あ、一般的な異端、カルトの定義もお願いします。
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Re: 異端:カルトの定義
投稿日 : 2005/10/11 21:30
投稿者 ICHIRO
参照先
>教会の中が(教界)がヒューマニズム色に染まり、教界
>から十字架が見えなくなりなり。。。大切なことはカド
>が立つからといってうやむやにして、みんな仲良く、ヒ
>ューマニズムでキリスト教を広めよう!(+_+)

ここが再建主義の富井氏も批判される所以では?
そのキモチは私も分かりますが、
旧約律法に戻るのはどうかなとも、、、
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Re: 異端:カルトの定義
投稿日 : 2005/10/11 12:06
投稿者 てんてこまい
参照先
ブヒちゃんさんへ

Re ありがとうございます。ほんとうに、何でも受け入れてしまいそうなニッポンキリスト教会・・・心配です。
<「マリアの祈りによっって」とはどの聖書にも、<(新共同にも)書かれてませんね。
<これは、カトの憶測なんでしょうか・・・?

私はそのように、マザーテレサ以外にも、カトリックの司祭の書いたものもを読みました。
また、マザーテレサは、臨終の人に、それぞれの宗教の(ほとんどがヒンズーでしょう)
経典を読んで、送ってあげるのだそうです・・(-_-)

それから。山形にある有名な教会の「坊さん信徒」のことですが、私も聞いたことがあります。
その教会での洗礼の時の証には
イエスキリストが唯一の救い主であるという、項目が無いのではないでしょうか・・マジに・(*_*)

そして
<マザー・テレサの「マリアはとりなして」・・・<にしても、先生方はみんなそれをご存知のはずで、すよね。。。それをあたかも蓋をするがごとく<マザーは素晴らしい〜!!」と・・・!!

この類に関して、牧師さんたちはこう仰います。
「違いを強調していては、何も進まない。だからいつまでたってもキリスト教は1パーセントに満たないんですよ!」と。。。。
もっともらしく聞こえませんか??
そうやって
教会の中が(教界)がヒューマニズム色に染まり、教界から十字架が見えなくなりなり。。。大切なことはカドが立つからといってうやむやにして、みんな仲良く、ヒューマニズムでキリスト教を広めよう!
と言うことでしょうね。
カキコしてるうちにみことばを思いだしました。
エゼキエル8:16
〜主の宮の本堂に背を向け、顔を東の方に向けて
東の方の太陽を拝んでいた。
それでは、また!失礼です。
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Re: 異端:カルトの定義
投稿日 : 2005/10/11 11:27
投稿者 てんてこまい
参照先
通りがかりさんへ
まことにありがとうございます!
そうでした!・・うっかりしてて・・(^_^;)
うっかりというより、記憶喪失でしょう・・・
また説明が足りなかったと思いますが、
私的には
カトリックは一つの教派だとは思えないのです。
「聖餐」の理解も、違っていますから・
大切なところがプロテスタントと違っています。
是は核心の部分ですので、ゆずれないのです)
ですから、そちらで使われている音楽もそのままでは使えないと思っております。
あくまでこれは私個人の意見ですが。
また
マリヤを執り成し手として考えているミサの中で、歌われている音楽は、たとえ、イエスキリストをほめたえる音楽であったとしても
私的には、違和感があります。
通りがかりさんが、ナニゲに立ち寄って、カキコして下さったのに、こんなに突っ込んでしまって、不快感を与えてしまっておりましたら、お赦し下さい。私も、日ごろ、思っていることを、ついつい、カキコしてしまいました。 
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Re: 異端:カルトの定義
投稿日 : 2005/10/11 10:38
投稿者 kawa
参照先
いつもお世話になってます。
KFCはメジャーになるべきである。私的見解では、@今の周囲は教えの風ばかりで混乱している。がKFCはふつうに聖書どおり語っている。AKFCの方法論(み言のネットワーク)では友以上にキリストその方とのお付き合いが出来るようにしてくれる(「真理はあなたがたに自由を与える」)。B一方ニッポンキリスト教は主に兄弟姉妹にお交りを提供し、病的である。

さて、真理が絶対的な権威と人格的な自己責任が伴うものならば、Lukeさんの教え子たちが、既存教会の中で、「異端」とか、「冷たい」とか、「破壊している」とか対決型と言われていることについて、確かに、そのようでないと人は救われないと思うが、救いの味わいは対決型とは別途のものである。

理由は、@オジサン、オバサンである我々夫婦は孫をどんなに愛してやっても、最後に親の愛情にはかなわない。A同様にLukeさんは真理に到達させてくれるが、真理そのものの味わい(巾とか高さとか深さとか長さとか厚み)は親である神にゆだねるしかなく、しかしKFCはいつでも誰にでも広く厚く長く深く高くメジャーである。

余計なことを言いすぎたかもしれないのでご容赦ください。
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新聖歌
投稿日 : 2005/10/11 08:35
投稿者 通りがかり
参照先
こんにちは。
いつも、こちらのHPを興味深く拝見させていただいております。
#理解は不十分な点は多いながら、少しずつ学ばせて
いただいております。

さて、議論の本筋ではなくて恐縮ですが、
てんてこまい様のレスに誤りがあったので
レスします。

新聖歌は日本福音連盟によるもので、
日本基督教団によるものは讃美歌21ですよ。
ただし、きっちりカウントした訳ではないのですが、新聖歌も以前に比べるとカトリックのミサで歌われているものが入っているとは思います。
でも、あくまでも音楽的な面からだけでカトリック
教会の教義とは一線を画している・・・少なくともうちの教会に関してはそう思っております。
#うちの教会の牧師は「イエス様の十字架以外救いはないんだ!」と極めてハッキリしているので。

結局、どこの教会or教派に所属しようが、
金科玉条に人間のことばを受け取ってその中に
ひたってしまうのではなく、
主の前に謙遜に祈りつつ自分で考えて感じながら
御言葉に向き合っていきたいと思いました。

以上、まとまらなくてすみません。





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Re: 異端:カルトの定義
投稿日 : 2005/10/11 08:33
投稿者 ブヒちゃん
参照先
てんてこまいさんへ

おはようございます。
資料を本当にありがとうございました!!m(__)m

資料の中の以下の箇所ですが

>イエスはマリアの祈りによって奇跡を行われた」(ヨハネ2・1〜11)。

「マリアの祈りによっって」とはどの聖書にも、(新共同にも)書かれてませんね。
これは、カトの憶測なんでしょうか・・・?

カトは組織信仰という点においても、エホバの証人と同じです!!

エキュメニカル運動・・・すごくはびこっててとても気になります。
私が「エホバの証人、救出」の学びをしている相模原の先生は、その地区の教会が一致するようにと働かれてます・・・(*_*; 
例えばクリスマスを共に祝う?とか・・・デス!!!(+_+)

それと、これはエキュメニカル運動ではありませんが、某教会は現役お坊さんに洗礼を行いました。
え〜〜、今もお坊さんです!!
木魚を叩きながらt先生のテープを聞いたりしてるとか・・・(+_+) 何も言葉がありません・・・。

先生方は、そのお坊さんがいつかちゃんと主の元に帰る!!!と、思われてるのかもしれませんが、こういう例に対し、私たちはどう考えたらいいか正直戸惑います。

聖書に忠実で、それを訳がわからない私たち羊に教えてくれるのが本来の姿だと思うのですが、余りにもみなさんが聖書から離れてて・・・。

マザー・テレサの「マリアはとりなして」・・・にしても、先生方はみんなそれをご存知のはずですよね。。。それをあたかも蓋をするがごとく「マザーは素晴らしい〜!!」と・・・!!

どこの集会も異端もどきに見えてしまいます。
まともな所はルークさんとこだけでなんでしょうかしら・・・?

異端、カルトを思うとき(いつもですが・・・)健全な信仰の事ばかり思います。
どこも病んでるような・・・(+_+)
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Re: 異端:カルトの定義
投稿日 : 2005/10/10 22:52
投稿者 てんてこまい
参照先
ブヒちゃんさまへ

これはカトリックのトリック・^_^;が丸見え!の資料かと思いますが、いかがでしょうか。

ルイス・カンガス(Luis Cangas)広島・祇園カトリック教会主任司祭1926年、スペイン・カストロ市生まれ。1941年、イエズス会に入会。1951年、来日。1958年、司祭叙階。1966年、東京・麹町の聖イグナチオ教会に赴任、永年主任司祭を務める。1978年、NHK大河ドラマ「黄金の日々」でルイス・フロイス役を見事に演じる。1998年、広島・祇園教会に赴任。著書に「希望に生きる」(ドン・ボスコ社)、「あなたに知らせたかったこの話」(女子パウロ会)など
6)マリアと聖人のとり成し
 プロテスタントはパウロの言葉を文字通り解釈して、マリアと聖人のとり成しを認めません。
「神と人との間の仲介者は、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(一テモ2・5)
 これと違って、カトリックはマリアと聖人を尊敬して、とり成してくださるように祈ります。「イエスはマリアの祈りによって奇跡を行われた」(ヨハネ2・1〜11)。また、昔から聖人のとり成しを求める習慣があったからです。

これでも、「エキュメニカル運動」とか言って、多くの牧師方は、共通点で一致して
「カトリックと一つになって大きくなろう!」などとのたもうているのです。特に日基はその傾向が強いですね。
「新聖歌」などは日基の出版ですよね。(新共同訳聖書も)
カトリックのミサで歌われているものが、結構入ってて・・プロテスタント教会で歌われるようになってきてます・・・(-_-;)
それから
マザーテレサの本・・・には大変なことが書いてありました。
ヨハネ2章のカナの婚礼から「マリヤがイエスに奇跡を起こすことを頼んだら聞かれた。」からと言って、
マリヤがキリストと、人との間に立つ「とりなし手」であると、言っています。
マザーテレサに限らず、他のカトリックの人の文書でも見たことがあります。

エライ先生方は何も調べて無いんですね、きっと!

福音派のある有名なセンセは某聖書学校で
「カトリックは私たちプロテスタントのお兄さんなんですよ!」と・・・(+o+)

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Re: 異端:カルトの定義
投稿日 : 2005/10/10 19:47
投稿者 ブヒちゃん
参照先
ハレルヤ!!
私たちの生き方はルークさんの以下のいひと言に尽きると思います。
妥協も何もなしで〜!! 日々時々に必要ですね!!(^_^)

誰の言葉に従うか、必ずその実を得るわけです。これは法則ですから、私の努力とは何も関係ありません。すなわち信仰とはチョイス(選択)なのです。イエスの言葉に従うならば、持っている者はますます豊かに・・・です!

感謝〜!!ヽ(^o^)丿
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カトリックの評価
投稿日 : 2005/10/10 19:19
投稿者 Luke
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黙示録のテアテラの教会に適合しますが、あのイゼベルにやりたい放題(霊的姦淫)をさせていると同時に、霊的貞操を守る勝利者もいるわけです。まあ、人生イロイロ、カトもイロイロですね。彼らに言わせるとマリア礼拝ではなく、崇敬だそうですが・・・。宗教組織としてみたらおっしゃるとおりでしょう。

・教会歴史について
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/churchhist.html


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聖書に見る認知的不協和の例
投稿日 : 2005/10/10 18:36
投稿者 Luke
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1)ヨブのケース:さんざん自分は正しいと主張し続けたが、神の直接の言葉を聞いて、ついに自らを退け、灰をかぶって、「神の知恵を覆う者はだれか」と悔い改め、2倍の祝福を得た。

2)マリアのケース:ガブリエルから受胎告知を受けた際、困惑を覚え「どうして処女が身ごもるか?」と反応するも、その御言葉を神のメッセージと知り、自らを退け「どうぞお言葉どおりこの身になりますように」と答えて祝福を得た。

3)ペテロのケース:夜通し漁をするも収穫なし。イエスが「網を投げ入れよ」と命じた時にも、彼は自分は漁師なのだのプライドがあったと思われ、「私が夜通しやったのに何も取れなかった」と言いつつも、自分を退けて「お言葉ですから」と従って大漁を得た。

4)パウロのケース:これが最もカゲキです。もうお分かりですよね。

誰の言葉に従うか、必ずその実を得るわけです。これは法則ですから、私の努力とは何も関係ありません。すなわち信仰とはチョイス(選択)なのです。イエスの言葉に従うならば、持っている者はますます豊かに・・・です!

マチガイナイ!!!
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