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再建主義者富井氏との対話-旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/08 14:03
投稿者 Luke
参照先
献金の問題もこれがクリアできれば良いのですよね。

喩えて言えば、MicrosoftのMS-DOSはWindowsの一部として吸収されて、WindowsはMS-DOSの上位互換となっています。Windowsを入手したら、あえてMS-DOSを買う人はいないでしょう。

新約のいのちの御霊の法則(The Law of the Spirit of Life)も旧約の律法の上位互換となっています。後者はレビ系の祭司制度でのもの(これは人を罪に定め、死をもたらす石に書かれたもの)、前者はよりすぐれたメルキゼデク系の祭司制度のもので(人を義とし、いのちをもたらす心に書かれたもの)、イエスはいのちの力によって大祭司と立てられたわけです。

<いのちの木vs善悪の木>から見ないと律法の問題も、イスラエルとエクレシアの問題もややこしくなって、感情論に陥る傾向を感じます。新約のLawはいのちの木のもの、旧約のLawは善悪の木のものです。

つまり私たちが100%いのちの法則に則っていれば、旧約律法の、否、それ以上の基準を生きているはずなのです(ただ経験的にはいのちの成熟度によって不十分な部分があるわけですが、これはイエスの血が解決してくれます。またそれぞれが達し得たところに従って生きればよいわけです。)。献金もこの点から考えてみてくださいませ。(どうもこのテーマは額の問題で熱くなってしまうようですから・・・^^)

・「祭司制と律法について」
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/priest_law.html
< 12345678910>
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/13 03:05
投稿者 富井
参照先
<LUKEさん>

この逆は真ですね。つまり、まずそれを行なえるいのちを得ることにより、

「xがいのちの御霊法則を満たす(十分条件)⇒xがモーセ律法を満たす(必要条件)」
 
ですから、私たちが満たせばよい前提条件は、いのちの御霊の法則に従うこと(=御霊に従うこと)で十分なのです。すなわち責任を負うのもこの法則あるいは御霊に対してです。

論理学的には、「モーセ律法を満たすための十分条件はいのちの御霊の法則を満たすこと」です。われわれサイエンティストはこのように論理を用いるものですが・・・。

<tomi>
「私たちが満たせばよい前提条件は、いのちの御霊の法則に従うこと(=御霊に従うこと)で十分なのです。すなわち責任を負うのもこの法則あるいは御霊に対してです。」

つまり、「御霊に従えば、責任を果たしたことになり、律法を守る必要はない。」と。

この議論には大きな欠陥があります。

御霊に従うとは何か?それは、神の御心に従うということですよね。聖霊は神ですから。
御心はどうやって分かりますか?
聖書ですよね。
書かれた啓示以外ではありえない。
我々の自然理性は堕落しているので、自然理性に委ねると、御心でも何でもないことを簡単に「これは神の御心だ」と考えるようになる。
こんなものに頼れない。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」(エレミヤ17・9)
「自分を知恵のある者と思うな。」(箴言3・7)
「自分の悟りにたよるな。」(箴言3・5)

もし万が一「御霊が与えられたのだから、聖書なんていらない。祈っているうちに御心は分かってくる。」といわれるなら、これ、まったくの異端になります。ニューエイジの黙想主義。

御霊に従うという内容は、実は、御言葉に従うことなのです。

そして、その御言葉には、旧約聖書の律法も含まれるのです。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(2テモテ3・16)

ここで「聖書」とあるのは旧約聖書です。パウロがこの手紙を書いた時点でまだ新約聖書は記されていなかったから。

旧約聖書を、ユダヤ人は、「律法と預言者(原語に正確に言うと、『律法または預言者』)」と呼びました。旧約聖書は主に律法と預言書に分かれるからでしょう。

ここから、律法は「有益」だということが分かりますね。教えと戒めと矯正と義の訓練を与えてくれる。

この聖句を読んでどうして、

「我々の責任は、御霊に従うことだけだ。モーセ律法に直接向かう必要はない」と言えるでしょうか。

「教えと戒めと矯正と義の訓練を与えてくれる」ものをどうして避けるのでしょうか???

「教えと戒めと矯正と義の訓練を与えてくれる」ものをどうして責任遂行において不要と言うのでしょうか???

おかしいと思いませんか?

また、さらにすでに述べましたが、聖書は、「律法も言うように…しなさい。」と命令していますね。

「教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。」(1コリント14・34)

聖書自身が律法は権威であると述べている。

「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。 」(マタイ5・19)

権威である律法を守らなくて、どうして責任を十分に果たしたと言えるのでしょうか???
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/13 02:23
投稿者 富井
参照先
<LUKEさん>

富井さんとのディスカッションはかなりの相違点が露になると同時に、同意点も分かってきました。

相違の一番のポイントは、繰り返しますが、Windows(いのちの御霊の法則)とMS-DOS(モーセ律法)の関係なのですね。

論理学をちょっと弄すれば、

「xがMS-DOSを使う⇒xがWindowsを使う」は偽です。

逆に

「xがWindowsを使う⇒xがMS-DOSを使う」は真です。

同様に

「xがモーセ律法を満たす⇒xはいのち(Zoe)の御霊の法則を満たす」は偽です。

理由:モーセ律法は、そもそもそれを満たす力を持ついのち(Zoe)を与えないから。

この逆は真ですね。つまり、まずそれを行なえるいのちを得ることにより、

「xがいのちの御霊法則を満たす(十分条件)⇒xがモーセ律法を満たす(必要条件)」
 
ですから、私たちが満たせばよい前提条件は、いのちの御霊の法則に従うこと(=御霊に従うこと)で十分なのです。すなわち責任を負うのもこの法則あるいは御霊に対してです。

論理学的には、「モーセ律法を満たすための十分条件はいのちの御霊の法則を満たすこと」です。われわれサイエンティストはこのように論理を用いるものですが・・・。

富井さんの議論はここがよく分からないのです。どっちがどっちの何条件なのか・・・?(まさか、必要十分条件、すなわち同値とは言わないと思いますけど・・・。ちょっと予感が・・・汗。)

いや、どうも、WindowsとMS-DOSの共通部分だけしか見ていないような印象もするのですね。

注:「⇒」は「ならば」の意味で、英語では“imply(含意する)”のこと。


<tomi>


>「xがモーセ律法を満たす⇒xはいのち(Zoe)の御霊の法則を満たす」は偽です。

>理由:モーセ律法は、そもそもそれを満たす力を持ついのち(Zoe)を与えないから。


モーセ律法を満たすことができるのは、聖霊を受けている人以外ではありえません。

なぜならば、聖書にこうあるからです。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(1コリント2・14)

モーセ律法は、聖霊が書いたものです。なぜならば、聖書はすべて神の霊感によるとありますから。

モーセ律法は、ただ戒律だけを守ればよいというものではなく、その本質は、「全身全霊を尽くして神を愛し、自分と同じように隣人を愛する」ということにあります。

本質を守れずに、ただ戒律を守るだけでは守ったことにならないのですから、その本質を理解できるためには聖霊によって理解しなければならない。

ですから、

「xがモーセ律法を満たす⇒xはいのち(Zoe)の御霊の法則を満たす」は真です。

モーセ律法を成就できたならば、それは、聖霊を受けて聖霊にしたがったということを意味しているのです。

>理由:モーセ律法は、そもそもそれを満たす力を持ついのち(Zoe)を与えないから。

これは理由になりませんね。
たとえモーセ律法が律法を成就する力を与えなくても、聖霊を受ければ、人々は律法を成就できるから。

「聖霊を受けたxがモーセ律法を満たす⇒聖霊を受けたxはいのち(Zoe)の御霊の法則を満たす」は当然真ですよね。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/13 02:19
投稿者 富井
参照先
わざの契約と恵みの契約

神と人間は、エデンの園において、契約を結びました(ホセア6・7)。

聖書契約の構造から分かるように、契約には必ず律法が含まれていますので、そこには律法が存在しました。

それは、「善悪の知識の木からとって食べてはならない」という法でした。

アダムは、聖霊を与えられていたので(創世記2・7)、聖霊の力によって法を守る力がありました。

しかし、アダムはその自由意思により、法を破りました。その結果は、永遠のいのちの相続者としての立場の喪失と、聖霊の喪失でした。

このアダム契約は、「わざの契約」でした。つまり、それを守ることによって永遠のいのちが与えられ、それを破ることによって永遠のいのちを失うという契約です。

神は、わざの契約が破棄されたため、人間との間に代償的契約を結ばれました。これを恵みの契約といいます。

その最初が、原福音と呼ばれるもので、動物の毛皮をアダムとエバに着せたということです(創世記3・21)。

2人には、代償者によるサタンへの勝利が約束されました(創世記3・15)。

ここから、後の契約はすべて、ことごとく、恵みの契約です。アブラハム契約はもとより、モーセ契約も「恵みの契約」だったのです。図示すると:

わざの契約:アダム契約

恵みの契約:原福音−アブラハム契約−モーセ契約−ダビデ契約−キリスト契約

O.P.RobertsonのChrist of the Covenant(P&R)によると、この恵みの契約は、時代が経つにつれて、内容が充実し、キリストの啓示(つまり、真の贖い主がどのような方かに関する啓示)が進んでいきます。

わざの契約において、律法を守る責任は、アダムにありました。恵みの契約において、律法を守る責任は、キリストにありました。

キリストは、我々の身代わりに律法の要求をすべて満たし成就されたので、キリストには褒賞として永遠のいのちが与えられました。

もちろん、キリストには聖霊が際限なく与えられていたので、彼は聖霊によって完全な行いをされました。

アダムの子孫であるノンクリスチャンは、わざの契約の中にいますので、生まれながらに失敗者であり、クリスチャンにならない限り、永遠のいのちの相続にあずかることはできず、むしろ、その罪のゆえに永遠の滅びの中に入れられます。

恵みの契約に属する人々、つまり、旧約聖書のユダヤ人と、新約聖書のクリスチャンたちは、キリストの完全な行いとその褒賞に与る権利が与えられ、それゆえ、永遠のいのちと報いに与ることができます。

モーセ律法は、恵みの契約の一部として与えられていたので、それは「いのちの法」でした。

神のいのちに与る道(永遠の命を達成するための道ではなく、豊かな祝福された生活への道)がそこには示されていました。また、罪を犯したときの契約のメンバーとしての身分回復の方法も指示されていました。それは、動物犠牲でした。

旧約聖書のユダヤ人も、聖霊によって律法を守っていました。彼らも聖霊を受けていました。

なぜならば、神の真理を悟っていたからです。神の真理を悟る力は聖霊による以外に不可能です。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(1コリント2・14)

聖霊によらなければ、旧約聖書すら読めない。旧約の民が旧約聖書を読んで理解していた以上、彼らにも聖霊が与えられており、その聖霊によって律法に従った生活をしていたということが分かります。

旧約の民も新約の民も、聖霊という原動力によって律法を守る民だったのです。

聖霊による律法遵守を新約聖書にだけ帰することはできません。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/13 01:14
投稿者 富井
参照先
>アダム族とキリスト族の話はまったく同意です。

>これについては
>・JAVAと信仰
>http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing49.html

>>これは、現在のクリスチャンとまったく同じです。

>原理は同じで、犠牲が動物かキリストかの違いのみというわけですね。

そうです。
ただし、旧約聖書の犠牲制度は、キリストによる贖いを示す型でしたので、実体を待つ必要がありました。
それから、旧約律法において、キリストを示す、または、キリストの民を表す象徴・型に属する律法は、キリストという実体が登場したおりに、キリスト、または、キリストの民に置き換わりました。

>ここで質問なのですが、旧約のイスラエルはアダム族に属しているわ
>けですね?

キリストがまだ登場していませんので、肉的には(実際的には)アダム族に属しておりますが、神の目から見れば(法的には)キリスト族に属していると思います。

ですから、彼らの救いは暫定的であったと言うことができます。旧約の人々は死後黄泉に行き、キリストが復活されたときに、キリストとともにパラダイスに引き上げられましたが、新約の人々は黄泉に行かずに、直接パラダイスに行きます。

過越の祭りの際に、キリストを表す小羊を食するのは、小羊が表すキリストとの一体化を象徴しています。

>もうひとつは、神の原則は旧新約で同じとあるのは、私のいう「神と人
>の関係の原則は旧約であれ、新約であれ、信仰によります。」と理解
>してよいのでしょうか?

そうです。
もう少し付け加えましょう^^
投稿日 : 2005/10/13 00:49
投稿者 Luke
参照先
命題「p⇒q」とは、「¬(p∧¬q)」のこと。(「『pであって、かつqでない』ことはない」と読みます。例えば、「雨が降るならば傘を差す」とは「『雨が降っていて傘を差さない』ことない」ですよね。

つまり

「Windowsを使うならばMS-DOSを使っている」

ことを証明するには、

「『Windowsを使いかつMS-DOSを使っていない』ことはない」

ことを示します。

これを否定して矛盾を導く論証を「背理法」と言いますが、

『Windowsを使いかつMS-DOSを使っていない』

ことはあり得ません。そもそもWindowsはMS-DOSのカーネルの上に作られてきたのですから(今のNT系統は別ですよ)。これは事実に反するわけです。

よって証明終わり■

同様に「始めの契約(モーセ律法)」(MS-DOS)は「後の契約(いのちの法則)」(Windows)よりも劣りますが(これはヘブル書の語る事実です)、その原理は神の聖による愛と義に基づくものですから、後者は前者を否定しません(これは同意事項)。むしろ当然に含むわけです。よって上の証明がそのまま適用されるわけですね。
ちょっと論理学的に・・・
投稿日 : 2005/10/13 00:27
投稿者 Luke
参照先
富井さんとのディスカッションはかなりの相違点が露になると同時に、同意点も分かってきました。

相違の一番のポイントは、繰り返しますが、Windows(いのちの御霊の法則)とMS-DOS(モーセ律法)の関係なのですね。

論理学をちょっと弄すれば、

「xがMS-DOSを使う⇒xがWindowsを使う」は偽です。

逆に

「xがWindowsを使う⇒xがMS-DOSを使う」は真です。

同様に

「xがモーセ律法を満たす⇒xはいのち(Zoe)の御霊の法則を満たす」は偽です。

理由:モーセ律法は、そもそもそれを満たす力を持ついのち(Zoe)を与えないから。

この逆は真ですね。つまり、まずそれを行なえるいのちを得ることにより、

「xがいのちの御霊法則を満たす(十分条件)⇒xがモーセ律法を満たす(必要条件)」
 
ですから、私たちが満たせばよい前提条件は、いのちの御霊の法則に従うこと(=御霊に従うこと)で十分なのです。すなわち責任を負うのもこの法則あるいは御霊に対してです。

論理学的には、「モーセ律法を満たすための十分条件はいのちの御霊の法則を満たすこと」です。われわれサイエンティストはこのように論理を用いるものですが・・・。

富井さんの議論はここがよく分からないのです。どっちがどっちの何条件なのか・・・?(まさか、必要十分条件、すなわち同値とは言わないと思いますけど・・・。ちょっと予感が・・・汗。)

いや、どうも、WindowsとMS-DOSの共通部分だけしか見ていないような印象もするのですね。

注:「⇒」は「ならば」の意味で、英語では“imply(含意する)”のこと。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/12 23:53
投稿者 Luke
参照先
アダム族とキリスト族の話はまったく同意です。

これについては
・JAVAと信仰
http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing49.html

>これは、現在のクリスチャンとまったく同じです。

原理は同じで、犠牲が動物かキリストかの違いのみというわけですね。

ここで質問なのですが、旧約のイスラエルはアダム族に属しているわけですね?

もうひとつは、神の原則は旧新約で同じとあるのは、私のいう「神と人の関係の原則は旧約であれ、新約であれ、信仰によります。」と理解してよいのでしょうか?



Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/13 00:52
投稿者 Luke
参照先
Bに対して
・ヘブル8:7-10
もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。しかし、神は、【それに欠けがある】として、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と【新しい契約】を結ぶ日が。それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

・ローマ8:2-4,13
なぜなら、キリスト・イエスにある、【いのちの御霊の原理】が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、【律法にはできなくなっていること】を、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。・・・それは、肉に従って歩まず、【御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされる】ためなのです。

※肉の弱さのために律法にはできないが(=最初の契約には欠けがある)、御霊に従うならば(=いのちの御霊の法則が働くならば)、律法の要求がまっとうされる(上位互換)。Windowsを使えば、自動的にMS-DOSも使っている。時には、DOS窓で直接MS-DOSアプリケーションを使うこともあるでしょうが。モーセ律法に基づいて「姦淫するな!」と叫ぶ必要もあるということ。

Cに対しては
・ローマ7:1-4
それとも、兄弟たち。あなたがたは、【律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ】、ということを知らないのですか。私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、【律法に対しては死んでいる】のです。

・ローマ8:12,13
ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、【肉に対して負ってはいません】。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

※律法は肉の弱さのゆえに行ない得ない。しかも肉に従って歩む責任を肉に対して負ってないのだから、当然律法に対しても負っていない。Windowsを使えば自動的にMS-DOSはカバーされる。よってわれわれはWindowsに対して責任を負えば十分という論理。MS-DOSにできないことまでユーザーが責任を負うことはないでしょう。

Dに対しては
・ヘブル9:31
しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。

※律法自体は聖であるが、力を与えないため。それはいのちを与えないから。

・ヘブル11:39,40
この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、【約束されたもの(=キリストのいのち)は得ませんでした】。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、【彼らが私たちと別に全うされるということはなかった】のです。

-----------------------------------------------

と言うわけですが・・・。しかしこの御言葉の評価も違っているとすれば、これは山谷氏と同じように平行線ですね。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/12 23:54
投稿者 Luke
参照先
う〜ん、なるほど。これは思っていた以上に、かなり本質的な相違がありますね。とりあえず、論点整理のために、次の5ポイントにまとめておきます。

-----------------------------------------------
■論点整理■富井さんの主張:
-----------------------------------------------

@律法はいのちを与える
A旧契約は新約と同じ片務契約である
Bいのちの御霊の法則はモーセ律法にまさる根拠がない
C新約の私たちもモーセ律法に対して責任を負う
D旧約のイスラエルも恵みの契約の中にいた⇒永遠の命を得ていた

対して私の主張の根拠として、一応御言葉を上げておくと次の通りかと思います(もしかするとこの御言葉の理解そのものが異なっているかも知れないと懸念を覚えつつ・・・)。

-----------------------------------------------
■御言葉との照合■私の主張の根拠:
-----------------------------------------------

@に対して
・ガラテヤ3:21
とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法が【いのちを与えることのできるものであったなら(仮定法→できない)】、義は確かに律法によるものだったでしょう。

※このいのち(Zoe:私の言う本質的意味でのいのち)ついては富井さんの言われる旧約の民が律法を守って得た「いのち」(私の言う経綸的意味でのあり方・生活)とは異なると理解しましたが。

Aに対して
・ヘブル7:11-12
さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、―民はそれを基礎として律法を与えられたのです。―それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。【祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません。】

(つづく)
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/12 23:12
投稿者 富井
参照先
<LUKE様>
ディスペンセイション神学が、恵みと律法の関係をそのように排他的関係として理解しているとは、私の認識不足でした。私はディスペンセイションを原義的意味の「いのちを分与すること」の意味で使っているだけですので。

<tomi>
日本のディスペンセーショナリズムは、このような「律法と恵み」の対立関係はあまりにも現実的ではないということで、律法の時代の中に恵みを入れている人もいますが、土台このような分け方には無理があるので、ディスペンセーショナリズムを全廃してしまったほうがよいと思います。

時代によって統治原理が異なるという考え方は聖書にはまったくありません。神は一人の神であり、法は一つの法です。

神が絶対であるならば、法が複数あるわけがありません。

曽野綾子が、旧約時代は裁きの神で、新約時代は愛と赦しの神という分け方をしていましたが、これでは多神教になってしまいます。

多神教の神は、領域領域において統治神が異なると考えます。学問には学問の神様、結婚に関しては縁結びの神様…と。

今日流行の、「政治に関して聖書は何も言っていない」というのは、半ば神を多神教神扱いしているわけです。

聖書の神が全知全能の絶対神であるならば、神が統治することのできない領域はなく、また、統治者であるならば、神の法が適用できない領域はないのです。

ディスペンセーショナリズムについては、Loraine Boettner "Millennium"(P&R)をお勧めします。

<LUKEさん>
教界の現状に対する富井さんの問題意識は共有することができます。私の対策は、十字架の正しい意義を回復し、死と復活を通して働くいのちの法則の力を経験することが必要と考えています。

「律法が人気がない」のはニッポン人の精神病理である強迫性と非常に関係していると思います。

<tomi>
律法の正しい意味を教えられていないからだと思います。

一般に、教会では、律法は、「わざの契約に属するもの」として扱われています。
「わざの契約」とは、すでに述べたように、「それを行って永遠の命を獲得するための契約」です。

アダムは、永遠の生命をもらうための試験に失敗しました。それ以来、人間にとって試験は永久に中止です。

なぜならば、アダムは全人類を代表しているので、アダムの子孫は、生まれながらに「落第生」だからです。どんなに懸命に正しい生活をしても、アダムから生まれた以上、失敗者です。

そもそも、彼は、試験を受ける資格をまったく失っています。

それゆえ、キリストは、アダムの子孫であってはならないのです。アダムの血を受け継がないためには、処女降誕しかありませんでした。

キリストは、新しい人類の初穂として生まれました。

新約の契約とは、このキリストにつながれることを意味します。

キリストの御体の一部、つまり、キリストの子孫になるのです。

アダム族からキリスト族に移るときに、我々は、キリストにあって律法を完全に守った者とみなされます。

それゆえ、律法を完全遵守した者にだけ与えられる「いのちの木」から取って食べることができるのです。

<LUKE様>
ともあれ、今回のディカッションで富井さんと私との間で共有できる部分と違いのある部分が分かって収穫がありました。

<tomi>

「富井さん」ではなく、「正統派プロテスタント」と言ったほうがよいかもしれません。

私は、ここにおいて、自分の神学校や正統派プロテスタントの著者から学んだもの以外を述べておりませんので。
< 12345678910>

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