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再建主義者富井氏との対話-旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/08 14:03
投稿者 Luke
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献金の問題もこれがクリアできれば良いのですよね。

喩えて言えば、MicrosoftのMS-DOSはWindowsの一部として吸収されて、WindowsはMS-DOSの上位互換となっています。Windowsを入手したら、あえてMS-DOSを買う人はいないでしょう。

新約のいのちの御霊の法則(The Law of the Spirit of Life)も旧約の律法の上位互換となっています。後者はレビ系の祭司制度でのもの(これは人を罪に定め、死をもたらす石に書かれたもの)、前者はよりすぐれたメルキゼデク系の祭司制度のもので(人を義とし、いのちをもたらす心に書かれたもの)、イエスはいのちの力によって大祭司と立てられたわけです。

<いのちの木vs善悪の木>から見ないと律法の問題も、イスラエルとエクレシアの問題もややこしくなって、感情論に陥る傾向を感じます。新約のLawはいのちの木のもの、旧約のLawは善悪の木のものです。

つまり私たちが100%いのちの法則に則っていれば、旧約律法の、否、それ以上の基準を生きているはずなのです(ただ経験的にはいのちの成熟度によって不十分な部分があるわけですが、これはイエスの血が解決してくれます。またそれぞれが達し得たところに従って生きればよいわけです。)。献金もこの点から考えてみてくださいませ。(どうもこのテーマは額の問題で熱くなってしまうようですから・・・^^)

・「祭司制と律法について」
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/priest_law.html
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レビ系とメルキゼデク系
投稿日 : 2005/10/14 10:23
投稿者 Luke
参照先
とても話がポイントついてきました。ちょっとまとめておきます:

ヘブル7:16 その祭司は、【肉についての戒めである律法】にはよらないで、朽ちることのない、【いのちの力】によって祭司となったのです。

から分かるとおり、レビ系の律法は「肉についての戒め」であり、よって「肉は何の役にも立たない。人を生かすのは霊である」と主も言われたとおり、いのち(Zoe)を与えません。パウロも

ローマ8:3 肉によって無力になったため、【律法にはできなくなっている】ことを、神はしてくださいました。

とあるとおりです。それは

ローマ8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある【いのちの御霊の法則】が、罪と死の法則から、あなたを解放したからです。

それによって、

ローマ8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、【律法の要求が全うされる】

のです。律法自体は聖であり、良いものです。が、それを行なわせる力がない。よって

ヘブル7:19 律法は何事も全うしなかったのです。

しかし

同 他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。

この希望とは

コロサイ1:27 あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み

です。なぜでしょう。それはこの方が【死と復活を通して】

1コリント15:45 「最初の人アダムは命のある生きる魂(原語)となった」と書いてありますが、最後のアダムは【命を与える霊となった】

からです。つまり主は肉に関するレビ系の規定によらず(主はレビ族ではなく、ユダ族です)、いのちの力によってメルキゼデク系の大祭司となられたのです。私たちにいのち(Zoe)を分与するためです。このいのちは型・影であるモーセ律法の基準、否、それ以上を行なわせる力があるのです。そしてこれは私たち異邦人にも及び、富井さんの言われるとおり、普遍的で、超民族的なのです。

・レビ系律法−肉についての規定、影・型−いのちを与えない−何も成し遂げない−廃棄

・メルキゼデク系律法(法則)−霊についての規定、本体・実体−いのち(Zoe)を与える−律法を行なわしめ、すべてを成し遂げる−私たちのうちに置かれた

よって今の私たちの責任は

 肉に従うのか、御霊に従うのか

であり、モーセ律法に対するものではないのです。むしろモーセ律法に対しようとすれば、パウロが言うとおり、自分の肉を刺激し、無力を知るだけに終わるでしょう。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/13 23:54
投稿者 Luke
参照先
ガラテヤ書でいう律法が、当時の律法主義者の「律法」であることには不同意ですが、

>レビ系律法=予型的律法 対 メルキゼデク系律法=本体的律法

には大体同意です。なるほど、前者は影・型、後者は実体と言うわけですね。そこでその実体が問題ですね。前者は基準を示しても、それを行なわせる力はなかった(いのちを与えないから)。が、後者は実体(=キリストのいのち)を与えるので、行なわせる力も持っている、と私は解しているわけです。これはすでに何度も申し上げたとおりです。

つまりキリスト族に属する人々とはキリストのいのちを得ることによって、影・型であるモーセ律法の基準をも行ない得る。いのちは信仰によって働く恵みにより与えられ、そのいのちは律法を成就します。つまり「信仰は律法を確立する」わけですね。

>それは、メルキゼデク系律法になっても変わりありません。

MS-DOSはWindowsになっても変わりありません。上位互換として吸収されるだけです、ということですね。

>キリストは、レビ系律法を成就され、そのすべてを全うし、メルキゼデク系律法に変化させました。

レビ系律法(MS-DOS)は、レビ系律法に拠らずに(主はユダ族です)、【いのちの力によって】大祭司とされたキリストのいのちを与えることができるメルキゼデク系律法(Windows)、すなわち【いのちの御霊の法則】にヴァージョンアップされた(上位互換)。ですから、Windowsに対して責任を負えば、自動的にMS-DOSは全うされるわけです。そこでパウロは

・御霊によって歩みなさい。そうすれば肉の欲を満たすことは決してありません。

・御霊によって歩む私たちにおいて律法の要求が満たされるのです。

と確証しています。私たちの責任はモーセ律法(=レビ系律法)に対するのではなく、御霊とその上位ヴァーションであるいのちの御霊の法則(=メルキゼデク系律法)ですよね。

>メルキゼデク系律法は、レビ系律法の本体化、普遍化、超民族化です。

実体であるキリストのいのちを異邦人にも分与し得、いのちの御霊の法則を適用し得るという意味で、同意です。

私の論点、お分かりいただけました?ポイントはいのちを得るかどうか。つまり「肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれるのは霊である。神の国に入るには御霊から生まれなくてはならない」わけです。これがキリストのいのちの分与(ディスペンス)であるわけです。

<メルキゼデク系律法=いのちの御霊の法則>であることを認めていただけると大いに議論が実り豊かになると考えます。そしてもしここまでをご理解いただけるのでしたら、次の論点、エクレシアとイスラエルの関係にも進めるとかと思います。

Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/13 23:07
投稿者 富井
参照先
メルキ「ゼ」デク系の



<tomi>
メルキ「ゼ」デク系の
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/13 23:04
投稿者 富井
参照先
<LUKEさん>

>ここにおける律法とは、当時パウロの時代にユダヤ人の間に流行していた律法主義者の「律法」なのです。

ほう、なるほど・・・。律法主義者の律法ですか。これも新しい発見ですね。

すみませんが、再度No.52に対してのご回答をいただければ思います。このレビ系の律法は富井さんのいわれる

>旧約聖書の民にとっての律法とは、「恵みの契約」の中において与えられた「生活指針としての掟」なのです。

ですよね。しかしそれはメルキデク系の律法に変えられたとあるわけです。ではこれは何なのでしょう。

<tomi>

「ほう、なるほど・・・。律法主義者の律法ですか。これも新しい発見ですね。」

パウロは、ガラテヤの手紙において、誰に対する批判を行っていたかといえば、「割礼派」の人々だったですよね。

つまり、彼は割礼派の律法主義を攻撃していた。

この文脈を無視すると、パウロは律法そのものを否定したと誤解してしまう。

ディスペンセーショナリズムは、この誤謬に陥った。

改革主義は、律法を否定しません。ウェストミンスター大教理問答書には次のようにありますね。

「問99 十誡の正しい理解のためには、どのような規則が守られなければならないか。
答 十誡の正しい理解のためには、次の規則が守られなければならない。すなわち、
 1 律法は完全であり、全人においてその義に全く一致し、またいつまでも完全な服従をするように、すべての人間を拘束する。従って、すべての義務に対する最高度の完全さを要求し、またすべての罪の最少度をも禁ずる(1)。1 詩19:7(8)、ヤコブ2:10、マタイ5:21-48」

つまり、「律法を守れ」といっているわけです。

このような教理は、パウロがガラテヤにおいて否定したのは、本来の意味での律法ではなく、割礼派の人々の律法であった、という理解から来ています。

<LUKEさん>

>「このレビ系の律法は富井さんのいわれる
>旧約聖書の民にとっての律法とは、「恵みの契約」の中において与えられた「生活指針としての掟」なのです。
>ですよね。しかしそれはメルキデク系の律法に変えられたとあるわけです。ではこれは何なのでしょう。」

メルキ「ゼ」デク系の律法とは、レビ系の律法が完成した律法、つまり、動物犠牲が実物であるキリストの犠牲に変えられ、人間である祭司がキリストという大祭司に代わった実体的律法のことを指します。

レビ系の律法は、すでに述べたようにプラモデルやミニカーのようなもので、来るべき本当の律法を表す予型でしかなかった。予型は、「弱く無益なため、廃止され、何事も全うしな」(ヘブル7・18−19)い。プラモデルは人を乗せて、道路を走りまわれません。それと同じように、動物犠牲制度は、何も成し遂げられない。それは、本当の犠牲が未来に現れて、信じる者にとって本当の犠牲となってくれることを指し示すことしかしない。

それに対して、メルキゼデク系の律法は、レビ系を祭司とするのではないまったく新しい体系であり、それは、レビ系律法が成し遂げられなかったことを成就した。つまり、レビ系の律法の完成型である。プラモデルから本物の車になり、人を乗せて動き回るという車本来の目的を達成した。

つまり、

レビ系律法=自力救済の律法 対 メルキゼデク系律法=信仰による救済の律法

という関係ではなく、

レビ系律法=予型的律法 対 メルキゼデク系律法=本体的律法

という関係なのです。

レビ系(モーセ)律法は、あくまでも「恵みの契約の中にいる人々に与えられた規則」です。

それは、メルキゼデク系律法になっても変わりありません。

キリストは、レビ系律法を成就され、そのすべてを全うし、メルキゼデク系律法に変化させました。

だから、今日異邦人クリスチャン(つまり、レビ系ではない)であっても祭司になれるのです。

「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。 …

しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(1ペテロ2・5,9)

メルキゼデク系律法は、レビ系律法の本体化、普遍化、超民族化です。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/13 19:38
投稿者 富井
参照先
<LUKEさん>

Q.彼らは律法を全うしていたわけですか?
A.私は「NO」です。

<tomi>

旧約の民は、律法を完全に守り通すことまで求められていなかったのです。
それは、今日のクリスチャンと同じです。
完全に守り通す役割は、キリストにのみ与えられていた。

旧約の民とクリスチャンもどちらも「恵みの契約」の中にいて、彼らに与えられた責任とは、「完全に律法を全うしたキリストを信じること」です。

では、旧約の民やクリスチャンは、なぜ律法で裁かれたのか?と問われるかもしれません。

それは、「神の民としてふさわしい存在になる(聖くなる)ための試練」です。

神が聖であるのに、神の民が聖でないというのはおかしい。神の御心は、「私が聖であるように、あなたがたも聖になりなさい。」ということにあります。

「あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」(レビ11・44)

「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」(1ペテロ1・16)

旧約の民は、救われるために律法を守ったわけではなかったのです。もう救いの中に入っていたのですから。

彼らにとって救いの中に留まるために必要なのは、新約のクリスチャンと同様に、「悔い改めて立ち返る」ということだけです。それは、動物犠牲によって可能となった。

ただし、動物犠牲は本当に人間の罪を贖うことができないプラモデルのようなものでしかなく、欠陥があったので、キリストという本体を待ち望んでいた。

だから、旧約において本当に聖霊を受けていた人々は、本物の贖い主を待望していた。

「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(ヨブ19・25)

旧約の民は、律法を「永遠のいのちを得るためにではなく」全うした。

全うの方法は、「罪を犯したら悔い改めて立ち返ることによって」。

悔い改めず、立ちかえろうとしない者は、革命者であるから、民の中から「除名された」。(*)


(*)
信仰による義を象徴するアブラハム契約においても、アブラハムには完全な服従が要求されていました。

「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」(創世記17・1−2)

私たちは、「恵みの契約」なんだから、「完全さ」は不要なんではないか?と思われますが、そうではなく、神はアブラハムに「全き者」であれ、と命令された。

たしかに、恵みの契約に入るということは、「完全な義を自力で達成する」ということではない。

しかし、「神に対する完全な服従の姿勢」というものが要求されるのです。

つまり、常に神のほうに顔を向けて、罪を犯したら悔い改めて立ち返る。

「俺は、あなたの御心なんてどうでもいいんです。私は自分のやりたいことをやります。」というような人間は契約の中から追い出されるのです。

救われた者には、旧約の民、クリスチャンを問わず、「神の主権を認めて、法に服従する」という姿勢が要求されているのです。

モーセ律法でも、「律法への意図的な反抗」は、赦されません。

過失は赦されるが、故意の罪は赦されない。

もちろん弱さから来る「誘惑に負ける」というものには赦しがありますが、「開き直る」者には赦しはなかった。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/13 19:52
投稿者 Luke
参照先
>ここにおける律法とは、当時パウロの時代にユダヤ人の間に流行していた律法主義者の「律法」なのです。

ほう、なるほど・・・。律法主義者の律法ですか。これも新しい発見ですね。

すみませんが、再度No.52に対してのご回答をいただければ思います。このレビ系の律法は富井さんのいわれる

>旧約聖書の民にとっての律法とは、「恵みの契約」の中において与えられた「生活指針としての掟」

ですよね。しかしそれはよりすぐれたメルキデク系の律法に変えられたとあるわけです。ではこれは何なのでしょう。

Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/13 19:01
投稿者 富井
参照先
<LUKEさん>
上の論点と関わりますが、旧約の民はいのちを得る意味で聖霊を受けてはいなかった(イエスがいのちを与える霊として来ていなかった)。現にヘブル書にあるとおり、「始めの契約には欠けがあった」と、またローマ書に「律法は肉の無力で、律法をなし得ない」とあるわけです。

Q.彼らは律法を全うしていたわけですか?
A.私は「NO」です。

Q.旧約の民が聖霊を内的いのちの満たしとして受けていた根拠はどこでしょう?
A.私は「ない」

<tomi>

「ローマ書に『律法は肉の無力で、律法をなし得ない』とあるわけです。」

ここにおける律法とは、当時パウロの時代にユダヤ人の間に流行していた律法主義者の「律法」なのです。彼らは、律法を守ることによって永遠のいのちを得ようとしていた。

しかし、人間はどんなに肉の力でがんばっても律法をなし得ない。だから、律法を守ることによって救われようとするのを止めなさい、とパウロは述べた。

新約聖書における律法論議は、この文脈において行われているので、旧約聖書の民にとっての「律法」とは性質が異なります。

旧約聖書の民にとっての律法とは、「恵みの契約」の中において与えられた「生活指針としての掟」なのです。

すでに値なしの犠牲(過越)によって奴隷の国エジプトから救われて「神の民」となった人々に対して与えられた「恵みの法」だった。

だから、それによって救いを得るとか、わざの契約のような絶対基準ではなかった。

もし、永遠のいのちを勝ち取るための律法であったならば、神は、「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。」(申命記30・11)とは言われなかったでしょう。

永遠のいのちを自力で達成するために与えられたならば、「おまえたちはこれを絶対に守れない。これはむずかしすぎて、遠くかけ離れている。」と言われたでしょう。

パウロはこのような本来の意味として律法までも否定したわけではなかったのです。パウロが否定したのは、あくまでも律法主義者の間違った律法観です。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/13 19:01
投稿者 Luke
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そうですね、契約神学と旧約のイスラエルの評価についての再建主義の立場は分かりました。で、それについてはちょっと置かせてもらいまして、ここで富井さんに質問させてください。上に論点の違いの5ポイントに関して御言葉を持って回答いたしましたが、ここで少し議論が錯綜してきましたので、論点を絞るために、次の点についての富井さんの理解をお聞きしたいと思います。

つまり「モーセ律法」と「いのちの御霊の法則」の関係です。ヘブル書によると祭司制度の変更がなされました。最初のレビ系の祭司制度の下ではモーセ律法がありましたが、これには【欠けがある】ために、【よりすぐれた】メルキデク系祭司制度に変更され、祭司制度の変更によって律法(Law)も【代えられました】。私はこれが「いのちの御霊の法則(Law)」であると言っているわけです。それは【最初のものより優れている】と書いてあります。

なぜならキリストはいのちの力によってメルキデク系の大祭司として立てられたのであり、またいのちを与える霊となられたわけです。いのちがないために(=肉の弱さのために)律法ができなかったことを、神はキリストにあってなして下さったのです。それは【律法を行なえるいのちを与えることによる】わけです。

ローマ書に、このいのちの御霊の法則に従う(=御霊に従う)ならば、自ずと(モーセ)律法の要求を満たすとあるのですから、ちょうどWindowsを使うならばMS-DOSを使うことになるのと同じように、上位互換でしょう?

MS-DOSを動かすのに、95年以降すでにWindowsが与えられている現在では、あえてMS-DOSをインストールする必要はありません。Windowsをインストールすれば自動的にMS-DOSはインストールされるわけです。

富井さんの論にはこのいのちの視点が欠けているように感じられます。犬のいのちは何も教えなくも犬として生きます。アダムにある人のいのちはアダム的生き方をします。キリストのいのちを得てキリストにある者はそのいのちに従った生き方をします。このいのちは罪を犯すことは苦痛なのです。

もちろん書かれた御言葉という羅針盤が必要であることは言うまでもありません。内なる御霊は決して御言葉には反しませんし、外なる御言葉によって私たちに語ります。もし心の欺瞞に従って(=肉に従って)誤った道を行けば、その刈り取りを得て神の矯正と訓練があることでしょう。

かくして、メルキデク系の「いのちの法則」はレビ系の「モーセ律法」よりも優れているわけです(これが上位互換の意味です)。

前に富井さんはエレミヤ書の新しいよりすぐれた契約によって心の中に書かれる律法もモーセ律法だと言われました。するとこのレビ系のモーセ律法に代わったメルキデク系のよりすぐれた律法とは何であるとお考えでしょうか。律法も変えられたと明確に書いてありますね。ここが最も本質的な論点になると思います。

Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/13 18:25
投稿者 富井
参照先
「アダム族とキリスト族は「生まれ」の問題ですから、私の理解ですと、旧約の民はアダム族であり、聖霊を私たちの意味で受けていないとなるわけです。」

旧約の民は、生まれた際にはアダム族ですが、8日目に割礼を受けてアブラハム契約の中に入ったときに、キリスト族になります。

問題は、「契約入会の儀式である割礼」にあります。しかし、割礼を受けたから同時にキリスト族になったことを意味しないのは、パウロがガラテヤで詳しく説明しているとおりです。

割礼を受けて、魂の変革を受けた人々は「生まれ」に関係なく、キリスト族になります。

キリスト族になった人々には、聖霊が与えられました。なぜならば、聖霊によらずば、聖書を理解できないからです。聖書は霊的なことですが、霊的なことがらは、霊によったわきまえる以外にはないからです。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(1コリント2・14)

パウロがこの手紙を書いたのは、新約聖書ができる前のことですから、旧約聖書について言っているのです。旧約聖書に記された霊的な教えを理解するには、御霊を受けていなければならないと。

ということは、旧約聖書を理解して、幕屋や神殿において神に賛美を捧げていたイスラエルの人々は、神の霊によってそれを行っていたということです。

旧約の人々が霊によって生きていたことを聖書は証言しています。

「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」(詩篇51・10)

「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。」(詩篇51・12)

神は、旧約の民に聖霊を下されたとあります。

「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。」(箴言1・23)

「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」(イザヤ11・2)

聖霊によって行動しない人々を神が叱責しておられる個所があります。

「ああ。反逆の子ら。――主の御告げ。――彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。 」(イザヤ30・1)

預言者は神の霊を宿して預言したとあります。

「あなたのうちには神の霊が宿り、また、あなたのうちに、光と理解力と、すぐれた知恵のあることがわかった、と聞いている。」(ダニエル5・14)

神がモーセにおいてイスラエルと契約を結んでから、イスラエルの間には、神の霊が働いているといわれている。

「あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。」(ハガイ2・5)

旧約と新約を、「霊を受けていない人々」と「霊を受けていた人々」と分けることはできません。

だから、旧約の民=聖霊を受けていない民=律法を守れなかったという図式は正しくない。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/13 07:01
投稿者 Luke
参照先
レスを拝読しました。ポイントがまたいくつか見えてきました:

>キリストがまだ登場していませんので、肉的には(実際的には)アダム族に属しておりますが、神の目から見れば(法的には)キリスト族に属していると思います。
>ですから、彼らの救いは暫定的であったと言うことができます。旧約の人々は死後黄泉に行き、キリストが復活されたときに、キリストとともにパラダイスに引き上げられましたが、新約の人々は黄泉に行かずに、直接パラダイスに行きます。

>アダムの子孫であるノンクリスチャンは、わざの契約の中にいますので、生まれながらに失敗者であり、クリスチャンにならない限り、永遠のいのちの相続にあずかることはできず、むしろ、その罪のゆえに永遠の滅びの中に入れられます。

このふたつの命題から、旧約のユダヤ人の立場が曖昧なのですが、彼らは立場的には非ユダヤ・ノンクリスチャンとは違うと言うわけですね。法的には救われていると(=キリスト族にある)。これがよく分かりません。アダム族とキリスト族は「生まれ」の問題ですから、私の理解ですと、旧約の民はアダム族であり、聖霊を私たちの意味で受けていないとなるわけです。ですから私たちの意味でいのちの御霊の法則に従い得ない、よって律法を守り得ないわけです。富井さんは、「彼らは律法を守った⇒聖霊を受けていたはずだ」という論理ですね。私は「いのちを得ている⇒(いのちの御霊の法則に含まれる)律法を守れる」となるわけです。

しかしもしそうであるならば、なぜパウロはあれほどにユダヤ人の救い(=イエスを受け入れること)を願ったのでしょうか?富井さんの説明ですと、<イエスを受け入れる≠聖霊を受ける>となりますね。私の聖霊との関わりの理解はその二面性です。「外なる満たし=経綸的な力を得ること」と「内なる満たし=いのちを得るること」と区別し、旧約のユダヤ人は前者であると考えています。またパウロ自身の証で「自分は律法の義では問題ない」と言いながら、「律法はなし得なかった」と言う訳です。それは前の契約に欠けがあるからだと。

・御霊と人の関わりについて
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/Anointing.html

>ですから、

>「xがモーセ律法を満たす⇒xはいのち(Zoe)の御霊の法則を満たす」は真です。

>モーセ律法を成就できたならば、それは、聖霊を受けて聖霊にしたがったということを意味しているのです。

>>理由:モーセ律法は、そもそもそれを満たす力を持ついのち(Zoe)を与えないから。

>これは理由になりませんね。
>たとえモーセ律法が律法を成就する力を与えなくても、聖霊を受ければ、人々は律法を成就できるから。

これも不思議です。ガラテヤ書がそう言っていませんか?

上の論点と関わりますが、旧約の民はいのちを得る意味で聖霊を受けてはいなかった(イエスがいのちを与える霊として来ていなかった)。現にヘブル書にあるとおり、「始めの契約には欠けがあった」と、またローマ書に「律法は肉の無力で、律法をなし得ない」とあるわけです。

Q.彼らは律法を全うしていたわけですか?
A.私は「NO」です。

Q.旧約の民が聖霊を内的いのちの満たしとして受けていた根拠はどこでしょう?
A.私は「ない」

>つまり、「御霊に従えば、責任を果たしたことになり、律法を守る必要はない。」と。

これは違いますね。どうもここが富井さんの解釈が入るわけで・・・。前者は後者の十分条件だと言っているわけです。

 「x=1⇒x^2=1」

は真ですよね。前者であれば、後者は自動的に満たされることを十分条件と言うわけです。富井さんの理解は、

 「x=1⇒x^2≠1」

となるわけです。これが不思議なのです。

いのちの御霊の法則を満たせば、モーセ律法は満たされると言っているのです。Windowsを使えば、知らぬまにMS-DOSも使っていませんか?時にはDOS窓で意識してMS-DOSも使うわけです。

やはりいのちの御霊の法則とモーセ律法の関係−ここにポイントがありますね。

しかし学びになりまして感謝です。

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