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再建主義者富井氏との対話-旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/08 14:03
投稿者 Luke
参照先
献金の問題もこれがクリアできれば良いのですよね。

喩えて言えば、MicrosoftのMS-DOSはWindowsの一部として吸収されて、WindowsはMS-DOSの上位互換となっています。Windowsを入手したら、あえてMS-DOSを買う人はいないでしょう。

新約のいのちの御霊の法則(The Law of the Spirit of Life)も旧約の律法の上位互換となっています。後者はレビ系の祭司制度でのもの(これは人を罪に定め、死をもたらす石に書かれたもの)、前者はよりすぐれたメルキゼデク系の祭司制度のもので(人を義とし、いのちをもたらす心に書かれたもの)、イエスはいのちの力によって大祭司と立てられたわけです。

<いのちの木vs善悪の木>から見ないと律法の問題も、イスラエルとエクレシアの問題もややこしくなって、感情論に陥る傾向を感じます。新約のLawはいのちの木のもの、旧約のLawは善悪の木のものです。

つまり私たちが100%いのちの法則に則っていれば、旧約律法の、否、それ以上の基準を生きているはずなのです(ただ経験的にはいのちの成熟度によって不十分な部分があるわけですが、これはイエスの血が解決してくれます。またそれぞれが達し得たところに従って生きればよいわけです。)。献金もこの点から考えてみてくださいませ。(どうもこのテーマは額の問題で熱くなってしまうようですから・・・^^)

・「祭司制と律法について」
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/priest_law.html
< 12345678910>
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/15 01:18
投稿者 Luke
参照先
あれあれ、論点が進んでしまったようですね(汗)。ここを読んでくださっている方の益のために少し書きましょう。

>「いのちを得ている⇒(いのちの御霊の法則に含まれる)律法を守れる」という理屈が成立するならば、律法を守っていたと聖書が証言するザカリヤとエリザベツは、いのちを得ていたと結論するのが当然ですよね。

あの〜ですね。お願いしますので、私の文章をよ〜くお読み下さい。ご自分の主張をするだけでなく、相手を理解しようと努めることは、オトナのディスカッションの条件ですよね。富井さんが<律法を行なうこと=いのちを得ていること>のフィルターを通して見ているのです。私は

「いのちを得る⇒モーセ律法を行なえる」

なんて言っていないのですけどね・・・。

「いのちを得ている⇒(いのちの御霊の法則に含まれる)律法を守れる」

と言っているのです。いのちの御霊の法則(メルキゼデク系律法)はモーセ律法(レビ系律法)の上位互換と何度も申し上げています。つまり、いのちを得て、いのちの御霊の法則に従えば、モーセ律法は当然に行なえますが、その逆は言えません。仮に100%モーセ律法を行なったとしても、いのちを得ているとは言えないのです。

「xが人である⇒xは二足歩行をする」

は真ですが、その逆は言えないでしょう?二足歩行という現象では、人のいのちを得ているかどうか判定できません。同様にキリストのいのちを得ることと律法を行なうことは別の次元の話です。イエスは律法に拠らずに、いのちの力によってメルキゼデク系祭司とされたのですから(ヘブル7:16)。問題はガラテヤ書に「律法はいのちを与えない」と明言されているのに、富井さんは「この律法は律法主義者のそれだ」と言うスペキュレーションの上に立っておられる。ここで対話がすれ違いになるわけです。私は富井さんのその信念を変えようとは思いませんから、上で十分ですねと申し上げました。

繰り返しますが、いのちの御霊の法則はモーセ律法以上をなすのです。WindowsとMS-DOSの関係であると何度も申し上げているのですが・・・涙

>イエスを受け入れるには、聖霊を受けていなければならない。
>「また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(1コリント12・3)

これはおっしゃるとおりですし、旧約の民も経綸的な霊の力を受けて、律法を行なうことはできたかもしれません。救われる前のパウロですら、「自分は律法の義に関しては落ち度がない」と証ししています。ちなみに「人が義とされるのは律法を行うことによりません」(ローマ3:20)。(このロマ書の律法も律法主義者の律法なのでしょうかね?)

それでもパウロはさらに御霊を受ける必要があったのです。なぜなら、イエスが十字架の死と復活を経る前には「御霊はまだなかった」(ヨハネ7:39原語;新改訳欄外)からです!神の霊は永遠に三にして一なる神格の第3位として存在されます。が、ここでは「なかった」と証ししています(「注がれていなかった」は意訳です。ギリシャ語をお調べ下さい)。なぜでしょう。それは「イエスがまだ栄光を受けておられなかったから」(同)です。

つまり旧約の神の霊と人の関わりは、新約のそれとは本質的に異なるのです。イエスが栄光化されていなかったからです。十字架の前と後では決定的【霊的相転移】が起こったのです。イエスは律法の犠牲の実体とされた同時に(=法的立場の完成)、死と復活を通して、いのちを与える霊となったのです(1コリント15:45)。こうしてイエスは復活体を持って天に昇られましたが、同時にいのちを与える霊として私たちの内に御霊によって住まうのです。新約の御霊は私たちのうちにイエスを生かし、イエスを証し、栄光化する霊です(ヨハネ16章)。

(つづく)
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/14 23:35
投稿者 富井
参照先
パウロがユダヤ人の救いを望んだのは、「彼らが聖霊を受けていなかったから」ではなかった。

ユダヤ人の中には、外面的に割礼を受けただけで心の割礼を受けていない人々がいたと、エレミヤは証言しています。

「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行ないのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。…
エジプト、ユダ、エドム、アモン人、モアブ、および荒野の住人でこめかみを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼であり、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。」 (エレミヤ4・4、9・26)

これと同じように、パウロの時代にも、外面的割礼を受けているだけで、心の割礼を受けていない人々がいた。

そして、彼らは、イエスを受け入れることをしなかった。

イエスを受け入れるには、聖霊を受けていなければならない。

「また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(1コリント12・3)

パウロは、これらの割礼だけ受けて、聖霊を受けていない人々が救われることを切望していた。

しかし、実際は、イエスを告白して救われた人々もユダヤ人の中にたくさんいたのです。

「彼らはそれを聞いて神をほめたたえ、パウロにこう言った。『兄弟よ。ご承知のように、ユダヤ人の中で信仰にはいっている者は幾万となくありますが、みな律法に熱心な人たちです。』」(使徒21・20)

紀元70年の崩壊直前のエルサレムの規模を正確に知ることはきわめて困難ですが、8万から40万の人口があったと推測されています。

8万から40万のうちの幾万ですから、当時エルサレムにはいかにユダヤ人クリスチャンがたくさんいたか、ということです。

パウロがイスラエルの救いを望んだとしても、それが「だからイスラエルは霊を受けていなかったのだ」という証拠にはならないということです。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/14 23:35
投稿者 富井
参照先
<LUKEさん>
「富井さんは、「彼らは律法を守った⇒聖霊を受けていたはずだ」という論理ですね。私は「いのちを得ている⇒(いのちの御霊の法則に含まれる)律法を守れる」となるわけです。」

<tomi>
これっておかしくないですか?

「いのちを得ている⇒(いのちの御霊の法則に含まれる)律法を守れる」という理屈が成立するならば、

律法を守っていたと聖書が証言するザカリヤとエリザベツは、いのちを得ていたと結論するのが当然ですよね。

LUKEさんの理論でいけば、旧約の民で律法を守った人は一人もいないはずだが、聖書は、彼らが律法を落ち度なく守ったと証言している(ルカ1・6)。

そのほかにも、旧約聖書が無数の個所において彼らが聖霊を受け、聖霊に従って行動したこと、聖霊の導きを受けていたと述べていることをどうやって説明するのでしょうか。

<LUKEさん>
「しかしもしそうであるならば、なぜパウロはあれほどにユダヤ人の救い(=イエスを受け入れること)を願ったのでしょうか?富井さんの説明ですと、<イエスを受け入れる≠聖霊を受ける>となりますね。」

<tomi>
旧約の民は、割礼を受けて、神の御民になった。御民とは贖われた民であった。彼らは、贖いを受けていたので、アダム族ではありません。

たしかにキリストは登場していませんから、彼らの贖いは不十分であったが、しかし、神はそれでも彼らを「無罪の民」として迎えて、ご自身の宝の民とされた。

神は、アブラハムについても、モーセの民についても、彼らの「未来を望み見る信仰」によって彼らを義とされたのです。

それとも、彼らは義認されていなかったとでも言われるのでしょうか。

アブラハムは、「神はその信仰を義とされた」と言われているのです。モーセの民は、小羊の血をエジプトの家の門に塗ることによって、赦された。つまり、義とされた。

旧約の民は、みな贖われた民であり、赦された民であり、義認された民だった。

だから、聖霊を受けた。

「御霊に属することは、御霊によってわきまえる」というパウロの証言が本当ならば、神殿や幕屋において賛美し、知恵の言葉や箴言、詩篇を語った、たとえば、ダビデやソロモンは、それを聖霊によって行ったはずですね。

実体としてのイエスを受け入れることがなくても、イエスを遠く望み見た旧約の民にも、聖霊は与えられていたのです。

実際、イエスがまだ生まれていない時に、ヨハネの父ザカリヤは、「聖霊に満たされて」預言をしたと言われています。

「さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。
『ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、…』」(ルカ1・67−68)

旧約の民が、「聖霊に満たされていた」とはっきりと聖書は証言している!!!

つづく
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/14 23:33
投稿者 富井
参照先
<LUKEさん>

>アダムの子孫であるノンクリスチャンは、わざの契約の中にいますので、生まれながらに失敗者であり、クリスチャンにならない限り、永遠のいのちの相続にあずかることはできず、むしろ、その罪のゆえに永遠の滅びの中に入れられます。

このふたつの命題から、旧約のユダヤ人の立場が曖昧なのですが、彼らは立場的には非ユダヤ・ノンクリスチャンとは違うと言うわけですね。法的には救われていると(=キリスト族にある)。これがよく分かりません。アダム族とキリスト族は「生まれ」の問題ですから、私の理解ですと、旧約の民はアダム族であり、聖霊を私たちの意味で受けていないとなるわけです。ですから私たちの意味でいのちの御霊の法則に従い得ない、よって律法を守り得ないわけです。富井さんは、「彼らは律法を守った⇒聖霊を受けていたはずだ」という論理ですね。私は「いのちを得ている⇒(いのちの御霊の法則に含まれる)律法を守れる」となるわけです。

しかしもしそうであるならば、なぜパウロはあれほどにユダヤ人の救い(=イエスを受け入れること)を願ったのでしょうか?富井さんの説明ですと、<イエスを受け入れる≠聖霊を受ける>となりますね。私の聖霊との関わりの理解はその二面性です。「外なる満たし=経綸的な力を得ること」と「内なる満たし=いのちを得るること」と区別し、旧約のユダヤ人は前者であると考えています。またパウロ自身の証で「自分は律法の義では問題ない」と言いながら、「律法はなし得なかった」と言う訳です。それは前の契約に欠けがあるからだと。

<tomi>

「アダム族とキリスト族は「生まれ」の問題ですから、私の理解ですと、旧約の民はアダム族であり、聖霊を私たちの意味で受けていないとなるわけです。ですから私たちの意味でいのちの御霊の法則に従い得ない、よって律法を守り得ないわけです。」

まず、すでに述べたように、旧約の民は聖霊を受けていたという聖書個所を挙げました。

そして、その具体例として、ザカリヤとエリサベツが律法を守っていたと聖書が証言している個所を挙げました。

聖書は、LUKEさんの推測とは逆に旧約の民が聖霊を受け、律法を守ったと記しているわけです。

くどくなりますが、もし聖霊を受けていなかったら、聖書を読んで悟ることはできません。

もし彼らが聖霊を受けていなければ、神は、盲目の民にあえて聖書を与えたということになる。

しかし、神はイスラエルに対してそんな意地悪なかたではなかった。

イスラエルは、宝の民だったのです。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民である」(申命記7・6、14・2、26・18)
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/14 22:05
投稿者 てんてこまい
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富井さんへ

私は今日これから富井さんに、下記のような質問をさせて頂こうと思っていたところでした。

Q1、富井氏は私たち旧約律法を守り行っていないクリスチャンは「救われてない」と仰るのでしょうか。
しかし先ほどの富井さんのルークさんへのレスを見て、もうその必要もないことが分かりました。
富井さんは十字架の贖いと、旧約律法を守ることはワンセットだと仰るのですね。よく解りました。
レビ律法がメルギゼデク律法へとバージョンアップしたのだから、さらにしっかり、細かく、研究して守り行わないと、「救われない」と仰るのですね。それが十字架の、贖いの完成だと仰るのですね。
イエスもそのことを私たちに望んでいるのだと仰るんですね。そうだったら、「富井さんのイエス観」と「私たちのイエス観」は違います。私たちは全く異なった対象を信じていることになるのではないでしょうか。
以下も、富井さんに質問したく準備していた事柄です。

これを見ておられる方々と分かち合いたいので、書かせていただきます。

Q2、「完成、成就」と言う言葉の意味は文字通り「終わった、終了」と言うことでしょう。もはや、やり残されたものは一つもない、「すべてやり終えた!」ということではないでしょうか。
富井さんは「完成」、と、「終了」とでは意味が違うとお考えでしょうか。
Q3、
使徒15:10
〜〜 それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。
このくびきとは旧約律法のことを指してはいないでしょうか。『その当時流行の割礼派の律法』だと仰るのでしょうか?
もしそうなら、なぜパウロは「先祖は勿論、今の時代の私たちも負いきれないくびき〜」などと、いうのでしょうか?
矛盾しているのではないでしょうか。
私の質問は以上です。
レスは結構です。答えは、先ほどのルークさんへのレスNO63ですべて解りました。
ありがとうございました。


Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/14 20:24
投稿者 Luke
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丁寧なレスを感謝致します。

>モーセ律法も「いのちの御霊の法則」です。

いや〜、これは驚きました。思わず、うーむ、と・・・。ローマ書の文脈から完全に外れています。

>旧約の人々も新約の人々も「いのちを与える力」を受けていた。

これも、うーむと・・・。

>厳密に言えば、神の「意見」「助言」などというものはない。すべて「命令」「掟」です。

これもうーむ、御霊は「アドヴォケイト」、「助言者・弁護者」でしたよね。

しかし、今回、これらの言明を伺って再建主義の本質が見えたような感じがいたしました。これらの言葉は決定的ですね。

率直な印象は、どうも御言葉に対する反応において違う要素があるようです。例えば、

・いのちを与えるのは霊であり、肉は何の役にも立たない
・御霊に従えば肉の欲を満たすことは決してない
・御霊に従って生きるわたしたちに律法の要求が全うされる

とかに関してはほとんど無反応(と言うか、目を留められないかのよう)ですが、ある傾向の部分にはきわめて過敏な反応をされる。

旧約の民と新約の民については

ヘブル11:39-40 この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、【約束されたものは得ませんでした】。神は私たちのために、【さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられた】ので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。

とあるとおりです。

しかしながら、これまでの丁寧なレスをありがとうございました。お忙しい中お時間をさいていただき感謝致します。当初の目的はとりあえず果たせたと思います。今回のディカッションを通して、富井さんの主張から見える再建主義について、私なりの理解を新たにし、整理することができました。またビックリするような視点があることも分かりました。それと私の専門の見地からの興味も刺激されました。

同意点は明らかにされましたし、相違点とそれに対する御言葉による私の回答は、すでにNo.41&42でさせていただいておりますので、繰り返しません。今回のレスを読ませていただきますと、エクレシアとイスラエルの関係についても大体どんな主張をされるか理解できますので、これはもう十分ですね。

まだ他にもいくつかお伺いしたい点はありますが、前にも書きましたとおり、機会を改めましょう。再建主義が人々に理解されますことを期待いたします。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/14 19:03
投稿者 富井
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<LUKEさん>

>メルキゼデク系律法は、レビ系律法の本体化、普遍化、超民族化です。

実体であるキリストのいのちを異邦人にも分与し得、いのちの御霊の法則を適用し得るという意味で、同意です。

私の論点、お分かりいただけました?ポイントはいのちを得るかどうか。つまり「肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれるのは霊である。神の国に入るには御霊から生まれなくてはならない」わけです。これがキリストのいのちの分与(ディスペンス)であるわけです。

<メルキゼデク系律法=いのちの御霊の法則>であることを認めていただけると大いに議論が実り豊かになると考えます。そしてもしここまでをご理解いただけるのでしたら、次の論点、エクレシアとイスラエルの関係にも進めるとかと思います。

<tomi>

(1)
「<メルキゼデク系律法=いのちの御霊の法則>であることを認めていただけると大いに議論が実り豊かになると考えます。」

モーセ律法も「いのちの御霊の法則」です。

旧約聖書も新約聖書も、「御霊を受けた人々のために記されているから」です。

旧約の民も新約の民も、御霊によって律法を守っていましたし、守っています。

御霊がなければ、霊的なことをまったく理解できませんし、また聖書の御言葉に従おうなどという気持ちが起きません。

旧約の民も新約の民も、霊によって律法を守り、霊によって悟りを与えられていた(いる)のです。

だから、<メルキゼデク系律法=いのちの御霊の法則>という図式には首肯しかねます。

(2)
律法は、モーセであろうとメルキゼデクであろうと、「書かれた律法」です。

メルキゼデク系律法は、何か得体の知れない「霊(ゴースト)」のようなものではなく、バージョンアップされたモーセ律法であり、書かれた法です。

我々がメルキゼデク系律法を読みたいならば、モーセ律法を開いて、そこにある動物犠牲を「キリスト犠牲」の型として読むことです。

つまり、「新約の目を通して旧約を見る」という正統的プロテスタントの聖書解釈理論に従うことです。

(3)
神が主権者である以上、神の言葉はすべて法です。

厳密に言えば、神の「意見」「助言」などというものはない。すべて「命令」「掟」です。

仮に私が会社員だとすると、私の個人的な友人は私の仕事について命令できませんが、会社において私の社長は私に命令できます。会社において社長は主権を持っているからです。

しかし、社長は、私の個人的な生活について命令できません。彼は、私の個人的な人生について何も権威がありません。この領域について、社長や友人は「助言」はできるでしょうが、「命令」はできません。

神は、あらゆる領域を創造された方ですから、我々のあらゆる生活において命令する権限を持ちます。

だから、聖書に記された神の言葉は、すべて命令、法なのです。神は絶対的な主権があるので、我々に語った言葉はすべて法です。

聖書66巻にまとめられた御言葉、それはことごとく法であり、それなるがゆえに、それを細かく調べて、それを細心の注意をもって実行することが求められています。

そこにはいかなる抜け穴もありません。

もしこれを嫌う人がいるならば、その人は、神の主権を拒否する人ですから、クリスチャンではないので、救いから漏れます。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/14 18:31
投稿者 富井
参照先
<LUKEさん>

>それは、メルキゼデク系律法になっても変わりありません。

MS-DOSはWindowsになっても変わりありません。上位互換として吸収されるだけです、ということですね。

>キリストは、レビ系律法を成就され、そのすべてを全うし、メルキゼデク系律法に変化させました。

レビ系律法(MS-DOS)は、レビ系律法に拠らずに(主はユダ族です)、【いのちの力によって】大祭司とされたキリストのいのちを与えることができるメルキゼデク系律法(Windows)、すなわち【いのちの御霊の法則】にヴァージョンアップされた(上位互換)。ですから、Windowsに対して責任を負えば、自動的にMS-DOSは全うされるわけです。そこでパウロは

・御霊によって歩みなさい。そうすれば肉の欲を満たすことは決してありません。

・御霊によって歩む私たちにおいて律法の要求が満たされるのです。

と確証しています。私たちの責任はモーセ律法(=レビ系律法)に対するのではなく、御霊とその上位ヴァーションであるいのちの御霊の法則(=メルキゼデク系律法)ですよね。

<tomi>

上位バージョンであるメルキゼデク系律法は、モーセ律法の成就型です。

つまり、動物犠牲がキリスト犠牲にバージョンアップした。

それは、相変わらず「書かれた律法」なのです。

何度も言いますが、「律法の一点一画たりとも天地が滅びるまで地に落ちることはない」のです。

バージョンアップしたソフトは、普通、その前に行うことができたことを含んでいます。

だから、実質的にメルキゼデク系律法も、モーセ律法も同じものです。

それゆえに、パウロは、新約の民に向かって「モーセ律法を守れ」と言ったのです。

「御霊に従う」ということは、「律法を自動的に守れるようになる」ということではなく、「律法を知り、研究し、それを、意識してひとつひとつ守り行う」ということです。

旧約の民がやっていたのと同じように、「定めを落ち度なく踏み行う」(ルカ1・6)ということです。

イエスはそのような細かい律法遵守を望んでおられます。

「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。」(マタイ23・23)

つまり、「正義・あわれみ・誠実」をおろそかにしてはならないが、「他のほう」、つまり、収穫物の十分の一をきちんと奉納することもおろそかにしてはならない、ということです。

すでに述べたように、「御霊に従う」とは「御心を行う」ということであり、「御心を行う」という具体的内容は、「御心を啓示した聖書の教えを行う」ということです。聖書には律法が含まれています。

ですから、「御霊に従う」ということが「律法の細心の遵守」を意味していることは明らかです。

「御霊に従う」というのは、旧約の民が行っていたような「細心の遵守」とは異なり、大雑把な遵守であるとか、「律法を研究したり、それらを一つ一つ実生活に適用する必要はない」ということであるならば、結局のところ、「律法を守るな」と言っているのと同じです。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/14 18:02
投稿者 富井
参照先
<LUKEさん>

>レビ系律法=予型的律法 対 メルキゼデク系律法=本体的律法

には大体同意です。なるほど、前者は影・型、後者は実体と言うわけですね。そこでその実体が問題ですね。前者は基準を示しても、それを行なわせる力はなかった(いのちを与えないから)。が、後者は実体(=キリストのいのち)を与えるので、行なわせる力も持っている、と私は解しているわけです。これはすでに何度も申し上げたとおりです。

つまりキリスト族に属する人々とはキリストのいのちを得ることによって、影・型であるモーセ律法の基準をも行ない得る。いのちは信仰によって働く恵みにより与えられ、そのいのちは律法を成就します。つまり「信仰は律法を確立する」わけですね。

<tomi>

これは、新約の民だけではなく、旧約の民にも言えることですね。
影・型の律法のもとにいる時も、民は霊を受けていた。
民がまるで霊的なパワーを受けていなかったというのは、間違いです。
もしそうだとしたら、非常に多くの聖句と矛盾することになります。

たとえば、すでに述べたように、聖書を理解させることは、聖霊の主要な働きの一つですが、それが旧約の民には与えられていたと、聖書は語っています。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(2テモテ3・16)

ここにおいて「聖書」とは「旧約聖書」です。

旧約聖書は、神の霊によって記された。だから、旧約聖書は「神の御霊に属すること」である。

さて、「神の御霊に属すること」は、生まれながらの人間には理解できない。

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(1コリント2・14)

旧約聖書を読み、神を崇め、救いの賛美をしていた旧約時代の人々は、それを行ったときに、「霊によって」そうしたのです。

なぜならば、「御霊のことは御霊によってわきまえるものだから」。

だから、影・型であった律法は、それを行なわせる力はなかったというわけではない。

御霊が働いたからです。

旧約の民は、御霊によって聖書を理解し、御霊の導きを受けていた。だから、バプテスマのヨハネの両親ザカリヤとエリサベツは、「律法を落ち度なく守っていた」(ルカ1・6)と言われている。

旧約の民にも律法を守る力があった!

では、パウロが「いのちを与えない」と言ったのは、どういう意味でしょう。

「とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。」(ガラテヤ3・21)

ここで言う「律法はいのちを与えない」というのは、「律法を守ることによっては人間は生きることができない」という意味です。

つまり、すでに述べたように、剥き出しの律法は、人を殺すことしかできないのです。

しかし、割礼派の人々は、「いや、剥き出しの律法をつきつけられても私は死なない。むしろ、それによって生きることができる」と考えて、「律法を守ることによって救われる」と人々に説いていた。


影・型の律法と、実体の律法の差は、「それを行わせるいのちの有無の差」ではありません。

旧約の人々も新約の人々も「いのちを与える力」を受けていた。

たしかに、聖霊の働きの程度には差はあります。

旧約の場合に、霊によって預言できる人は限られていましたが、新約において、万人が霊の預言者になりました。

「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒2・17)
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/14 17:23
投稿者 富井
参照先
<LUKE様>

ガラテヤ書でいう律法が、当時の律法主義者の「律法」であることには不同意ですが、

<tomi>

ガラテヤ書は、「割礼派」(2・12)の人々がガラテヤ教会の中に入って、人々を惑わせているという背景において書かれたことは文脈から明らかですね。

割礼派は、何を説いていたかと言えば、「律法によって救われる。割礼を受けなければ救われない。」と言っていた。

これは、律法の誤用なのです。

イスラエルの民は、「恵みの契約」の中に入っていたのです。そのしるしは、契約の箱です。

契約の箱の中の十戒の板は、贖いの蓋によって封じ込められていました。

律法は、イスラエルの民に対して剥き出しにされておらず、贖いの蓋でバリアされていた。

放射線廃棄物がしかるべき遮蔽物でバリアされているのと同じです。

もし十戒が剥き出しになったら、死んでしまいます。契約の箱を開けて中を見た人々は実際に死んでしまいました。

「主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。そのとき主は、その民五万七十人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。」(1サムエル6・19)

契約の箱は、イスラエルの民にとって律法とは、「それを守らなければ死んでしまう」というようなものとして与えられたのではなく、「贖い主とともに与えられた」ということを象徴しています。

つまり、彼らは贖い主によって救われ、十戒によって、もろに要求をつきつけられない状態に置かれていたということです。

これは、今日のクリスチャンと同じです。クリスチャンは、神の律法を直接対峙しなければならないというわけではなく、イエス・キリストが贖罪者となり、イエス・キリストの弁護の影に隠れていられる。

イエス・キリストは、神の律法に対して、我々を弁護しながらこう言います。「彼らを裁かないでください。その裁きは私が負い、すでに代償を支払いましたから。」と。

それと同じように、イスラエルの民も、「贖いの蓋」によって弁護されていた。つまり、彼らも来るべきメシアの贖いの恩恵を受けていた、ということです。贖いの蓋は、メシアの贖いを象徴しているのです。

しかし、割礼派の人々は、律法をこのようには理解していなかった。

彼らは、「我々は剥き出しの十戒の板を見ることができる。」と考えていた。

福音書において「富める若者」がその典型です。彼は「そのような戒めはすべて小さい頃から守っています。」と言った。

完全に誤解している。神の要求水準はそんな生やさしいものではない。

誰でも十戒をつきつけられて、即死しない者はいない。彼らは、神の要求水準が絶対であるということを知らなかった。

そもそも律法は、贖われた民、つまり、契約の民に対してこのような意味を持っていない。

律法(原語トーラーは「導き」の意味)は、人々を正しい道に導き、生活を豊かにし、聖い生活を送らせ、神の民としてふさわしい歩みをさせるための指導書だった。

律法の「断罪する務め」は、すでにキリストにおいて成就しており、もはや、律法は契約の民を責めたてない。

だから、パウロがガラテヤ6・18で「律法の下にいない」と述べたのは、「剥き出しの十戒の板」つまり「破った際に、あなたがたを責めたてて、殺す使命を帯びた律法の下にはいない」と述べたのであって、「指導書としての律法の下にはいない」と述べたのではない。

図示するならば、

割礼派の人々の律法=剥き出しの十戒の板=違反者を滅ぼす

契約の民に与えられた本来の律法=贖いの蓋に覆われて安全化された十戒の板=違反者を滅ぼさない…神の民の生活指導書としてのいのちの律法

となります。

パウロが否定したのは、前者だけであって、後者ではなかった。
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