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再建主義者富井氏との対話-旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/08 14:03
投稿者 Luke
参照先
献金の問題もこれがクリアできれば良いのですよね。

喩えて言えば、MicrosoftのMS-DOSはWindowsの一部として吸収されて、WindowsはMS-DOSの上位互換となっています。Windowsを入手したら、あえてMS-DOSを買う人はいないでしょう。

新約のいのちの御霊の法則(The Law of the Spirit of Life)も旧約の律法の上位互換となっています。後者はレビ系の祭司制度でのもの(これは人を罪に定め、死をもたらす石に書かれたもの)、前者はよりすぐれたメルキゼデク系の祭司制度のもので(人を義とし、いのちをもたらす心に書かれたもの)、イエスはいのちの力によって大祭司と立てられたわけです。

<いのちの木vs善悪の木>から見ないと律法の問題も、イスラエルとエクレシアの問題もややこしくなって、感情論に陥る傾向を感じます。新約のLawはいのちの木のもの、旧約のLawは善悪の木のものです。

つまり私たちが100%いのちの法則に則っていれば、旧約律法の、否、それ以上の基準を生きているはずなのです(ただ経験的にはいのちの成熟度によって不十分な部分があるわけですが、これはイエスの血が解決してくれます。またそれぞれが達し得たところに従って生きればよいわけです。)。献金もこの点から考えてみてくださいませ。(どうもこのテーマは額の問題で熱くなってしまうようですから・・・^^)

・「祭司制と律法について」
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/priest_law.html
< 12345678910>
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/17 06:44
投稿者 富井
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その人が何を言わんとしているかにおいて「も」質が悪いんですね。

そもそも、これだけ骨を折って、神学校の一年生で勉強するようなことただで説明してもらってるなら、感謝するもんじゃないですか?
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/17 05:42
投稿者 kimura
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<ここのカキコ質悪いねぇ。まったく「読めない」<んで、真剣に議論するのがばからしくなるわ

の御意見ですが、「質が良い、悪い」については
表面に出ていることでは,決められないと思います。
その人が何を言わんとしているか、が最も大切な事ではないでしょうか。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/17 05:25
投稿者 kimura
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みなさん
この方は(富井さん)は聖書を読み違えています。
時代を勘違いしていますから、
心に残さない方がいいと思います。
ルークさんの聖書理解が正しいですよ。
(一連の論議によっても、解ることです)
内なる御霊が、私たちに教えておられるんですね。
主に感謝です。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/17 03:34
投稿者 富井
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ガラテヤでパウロが批判しているのが「律法主義者の律法」であると、詳しく説明したのにまだごねている人がいるんですね。

いいですか。

繰り返すと、律法の本来の意味は、契約の箱に示されている。

十戒の二枚の板は、契約の箱の中に収められていた。

契約の箱の蓋は、「贖いの蓋」(ヘブル9・5)と呼ばれていた。

これは、十戒が直接人間の目に触れることがないためであった。十戒を直接見ると、人間は必ず死ぬ。

これは、律法の責めに人間が耐えられないことの象徴である。

だから、人間には「贖いの蓋」が必要である。

これは、イエスの犠牲を象徴している。

イスラエル人には、律法は剥き出しで与えられていたのではなく、贖いの蓋で覆われた状態で与えられていた。

これは、イスラエル人が贖われた民であることを象徴している。

これが、本来の律法の意味である。

律法とは、イスラエルにとって「贖い主によって安全化された律法」なのです。

それに対して、ガラテヤの「割礼派」の人々は、「律法によって救われる」と説いた。

このような律法は、贖いの蓋で覆われていない律法であり、本来の律法ではない。

パウロが反論したのは、このような異常な律法のことであって、本来の契約の箱に収められた律法ではない。

もし、契約の箱に収められた律法に対しても反論したと言うならば、どうしてパウロは聖書のほかの個所において、「律法も言うように、…しなさい」とか「信仰は律法を確立する」とか、「律法にはこう書かれています。…」とか述べたのか。

それは、彼が「契約の箱に収められ毒を抜かれた律法」については反論しなかったということでなくて何だろうか?

これでも分からなのでしょうか。

分かりやすい説明だと思うんですけどねぇ。^^;

Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/17 02:16
投稿者 富井
参照先


メルキゼデクについては、ヘブル書の文脈は、彼がイスラエル民族の登場の前の人物であり、レビ人ですら、アブラハムを通じて十分の一を捧げた人物であると述べられています。つまり、民族的経綸が始まる前の祭司である。

そして、キリストは、「メルキゼデクと等しい祭司」と呼ばれており、超民族的経綸における祭司であると述べられている。

具体的に、レビからメルキゼデクに経綸がどのように変わったのかを見てください(7章−10章。*の対比表を参照)。

このヘブル書の対比表で述べられている変化を見る限り、

レビ系…型
メルキゼデク系…本体

であり、メルキゼデク系において律法がまったく別のものになったのではなく、それがレビ系律法の成就型であったことが分かります。

そして、さらに、そのメルキゼデク系律法の聖所とは、「まことの天」になった。つまり、民族的幕屋が、宇宙大の意味を持つようになった。

私が民族から超民族になったと述べるのは、ここに根拠があります。

つまり、レビ系の聖所が民族的・地域的な幕屋であったのに対して、イエスが入られた幕屋は普遍的・宇宙的な天そのものであった。

これゆえに、旧約聖書の経綸は民族的で、新約聖書の経綸は超民族的というわけ方ができるのです。

(*)
レビ系       祭司になるのは、肉についての戒めである律法によって

メルキゼデク系  祭司になるのは、朽ちることのない、いのちの力によって

レビ系       弱く無益なため廃止された(律法は何事も全うしなかった)

メルキゼデク系  さらにすぐれた希望が導入される。これによって神に近づく。

レビ系       誓いなしに祭司になる

メルキゼデク系  神による誓いによって祭司になる

レビ系       祭司は大勢、寿命がある

メルキゼデク系  祭司はひとり、永遠の祭司

レビ系       不完全な救いしか提供できず

メルキゼデク系  完全な救いを提供できる

レビ系       罪人の祭司、自分の罪、民の罪のため毎日犠牲を捧げる

メルキゼデク系  きよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、天よりも高くされた大祭司。一度でいけにえを完了。

レビ系       祭司は人間が作った幕屋で奉仕

メルキゼデク系  主が作られたまことの幕屋で奉仕

レビ系       天にあるものの写しと影に仕える祭司

メルキゼデク系  天にある実体に仕える祭司

レビ系       欠けのある契約の仲介者

メルキゼデク系  さらにすぐれた契約の仲介者

レビ系       その当時のための比喩。新しい秩序の立てられる時まで課せられたからだに関する規定にすぎない幕屋。

メルキゼデク系  手で作った物ではない、さらに偉大で完全な幕屋。キリストは、すでに成就したすばらしい事柄の大祭司として、これを通ってまことの聖所に入り、ご自身の血を捧げ、永遠の贖いを成就された。

レビ系       やぎと雄牛の血、雌牛の灰によるきよめ。清めの働きをして肉体をきよいものにする

メルキゼデク系  とこしえの御霊によって神におささげになったキリストの血によるきよめ。良心を清めて死んだ行いから離し、生ける神に仕える者とする。

レビ系       聖所は、本物の模型。

メルキゼデク系  聖所は、天そのもの。

レビ系       年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司

メルキゼデク系  世の終わりにただ一度ご自身をいけにえとして捧げたキリスト

レビ系       礼拝者は、罪を年ごとに思い出す。神に近づく人々を完全にできない。罪を除き去ることができない。神は礼拝者の罪を思い出す。

メルキゼデク系  礼拝者は、罪を年ごとに思い出さない。一度の犠牲によって完全に聖なる者とされる。神は礼拝者の罪を二度と思い出さない。

レビ系       聖所は、本物の模型。

メルキゼデク系  聖所は、まことの聖所。
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/17 01:02
投稿者 富井
参照先
イザヤ・ベン・ハーさんへ:

的確で正当な質問です。

ただ、書いた文脈を読めば、ルークさんも私も同じように「バージョンアップ」と言っているので、両者に対する議論となっているわけですよね。

「ここのヘブル書の文脈は明らかにメルキゼデク系がモーセ律法とは別系統であることを論証しようとしている箇所ですね。素朴な疑問を感じました。」

聖書ってのは、一つの個所で言われていることと、他の個所で言われていることを総合して解釈しなければならないのはご存知ですね。

「聖書は聖書によって解釈する」というのが原則です。

そうした場合に、モーセ系律法が廃止され、まったく別系統の律法(メルキゼデク系律法)が登場したと考えると、では、パウロが聖書の中において「信仰は律法を確立する」や「律法も言うように…しなさい」イエスが「一点一画たりとも地に落ちることはない」というような無数の律法永遠確立論の個所とどのように調和させるかが問題となる。

この点について神学者は古来考えてきた。

プロテスタント宗教改革の総括であるウェストミンスター信仰告白では「律法は今日でも有効」と結論した。

つまり、歴史的にプロテスタント教会は、メルキゼデク系律法は、モーセ系律法とまったく異なる系統のものではない、いやそれはモーセ系律法のバージョンアップ、つまり、普遍化されたモーセ律法と結論されてきたということなんですわ。

まさか、この結論すらこのサイトでは否定するんじゃないでしょうね…。^^;
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/17 00:30
投稿者 富井
参照先
ここのサイトは、ちょっとの筆休めも許さないんですねえ。

あれだけ書いたから、もう腕張って…

LUKEさんは、論点を理解されているようですが、ここのカキコ質悪いねぇ。まったく「読めない」んで、真剣に議論するのがばからしくなるわ。

LUKEさんが弁護してくださったのは感謝しますよ。

でも勝手にああゆ〜総括ってちょっと乱暴だよね。

「交わり」を求めているのに、人をシーラカンスのように言いなさんな。^^;
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/17 00:22
投稿者 富井
参照先
>私は難しいことは全然わかりませんが

ホントに分かってないようですね。^^;
Re: 旧約律法と新約のいのちの御霊の法則
投稿日 : 2005/10/16 19:05
投稿者 無学な者
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ガラテヤ書の律法は律法学者の「律法」ですか。。。
するとアブラハムの430年後に与えられた律法は何だろう?
その当時すでに律法学者様がいらっしゃたわけか。。。?
ただでさえ教会では悩みが多いのに、
ますます悩みが深くなってしまったではないか!

感想をつらつらと・・・
投稿日 : 2005/10/16 11:41
投稿者 Luke
参照先
(1)
富井さんとの対話(?)は非常にいい学びの機会でした。再建主義と契約神学についても理解が深まりました。

結局、契約神学では恵みの契約をアブハラム契約からスタートするわけです。私たちはヨハネの言葉に従って、律法はモーセを通して、恵みはイエス・キリストからと単純に考えます。また契約も旧契約と新契約で、ソレを分けるのは十字架です。

ですから再建主義ではモーセ律法は自動的に恵みの契約の一部となるわけです。どうしてかくもモーセ律法にこだわるのかの理由が分かりました。

するとガラテヤ書で「律法はいのちを与えない」と明言があるのですが、ここの律法は当時の律法主義者たちの「律法」であって、モーセの純粋な律法ではないとしなくてはならないわけです。そうでないと、旧約の民はいのちを得ることができなくなってしまう。

ここで言う「いのち」も私たちが言ういのち(Zoe)とはどうも違うのですね。神の基準に従うことによって、神から祝福された生活・あり方なんです。しかし律法は聖霊によってのみ行なえるので、旧約の民も私たちクリスチャンと程度の差はあれ、同じ聖霊の力を得ていたとなるわけです(私の言う経綸的意味ですね)。このあたりの論理の組み立ては苦しいですね。

(2)
富井さんの言われる普遍化・超民俗化は、私が言う「元から神学」でして、神は元々すべての国民を救うことが目的だったのです。ですから私の言い方をすればユダヤ民族の選びは経綸的な選びであり、キリストのいのちをすべての国民に分与する(本質的選び)ための配剤的なものとなるわけです。よってユダヤ人と聖霊の関わりは私たちのソレは異なるわけです。なぜならまだイエスの十字架による栄光化がないのですから!

どうもこの十字架の決定的意義とその前と後の本質的な霊的相転換が再建主義では見落とされています。再建主義での十字架は動物犠牲(影・型)とキリスト犠牲(本体・実体)を分けるだけのようです。つまりいのちの次元の理解が欠如しているようです。これは上にまとめたシェーマを見るとよく分かります。経綸的次元と本質的次元が区別されていないわけです。御言葉の選択も解釈も恣意的要素がありますね。これはディスペンセイションも同じですが。

(3)
仮にガラテヤの律法が律法主義者のソレだったとしても、ローマ書で扱う律法は「聖でありよいものだ」と言っている律法ですから、当初の純粋な律法です。すると8章にあるいのちの御霊の法則は「キリストにあって」働くのですから、モーセ律法と同じであるわけがない。モーセ律法を行なったところで、いのちの御霊の法則を得ることはできないし、逆にいのちの御霊の法則に従えば(御霊によって歩めば)、モーセ律法(富井さんの言う3番目の機能)は満たされる。

すなわち上位互換であり、メルキゼデク系はレビ系よりもはるかに優れている所以です。しかし富井さんはメルキゼデク系の律法はモーセ律法の超民俗化かつ普遍化であると。つまり適用範囲が広がったと言う意味で、優れていることになるわけです。

(4)
しかしながら、何神学を選択することも、これはすでに個人の自由意志の問題であり、それの個人的信念を訂正させる必要はありません。おかしな部分は、私たちは人の組織した神学で答えるのではなく、淡々と御言葉を語りますが、その御言葉にどう応答するかはその人の自己責任です。イザヤさんに言ったのもそういう意味ですので、ご理解下さい。

ただその選択に当たってはかなり個人的な経験が関係していますね。富井さんもいわゆるディスペンに相当にはまっておられたようですが、そこで「何か」があったわけです。

その理由をディスペンの「恵みと律法の排他性」(これは彼の誤解のようですが)に帰して、ディスペンを全面否定することになった。ですから富井さんの主張がカゲキなのは、そのパーソナルヒストリーが相当に関係しているようです。

実際、このディスカッションの開始も、再建主義者でない私が、「ディスペンセイション」の単語を用いたら、ただちに「彼の理解するディスペンセイション主義者」のレッテルを貼られて断罪されてしまうのですから^^

この辺は再建主義が人々から理解を得るためにも考えてもらった方が良いと思いますね。学問的議論が必要なのはまったく同意ですが、私たち自然科学者から見ると神学論争のあり方にはかなり疑問を覚えます。オトナとして相手を理解しようと務めつつ、相互のやり取りの中で双方向性のある対話を求めます。

(5)
そして一番大切なのは神学書や「○○神学」のフレームやフィルターから御言葉を見るのではなく、御言葉そのものを扱うことです。最後のジャッジは物理学は実験、われわれは御言葉なのです。

ここを読んでくださった皆さん、どうも長々とお付き合いありがとうございました。上にも書きましたとおり、当初の目的は十分すぎるほどに達成できたと思います。

Every Blessing!
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