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ヒューマニズムについて
投稿日 : 2005/12/19 09:12
投稿者 Luke
参照先
再建主義で批判されるヒューマニズムと、Dr.Lukeが批判するそれとの違いをまとめておきます。まずは再建主義が認めない自然人と律法の関係について、聖書はこう言っております。再建主義においてはモーセ律法の適用される領域とされない領域しかなく、されていない領域がヒューマニズムに侵された領域となるわけです。つまり彼らは一切自然法を認めません。が、聖書は次のように自然法の根拠を与えています。

生まれながらの人、あるいは律法を持たない異邦人については、次のロマ書にある御言葉を見れば明らかですね:

2:14 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
2:15 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。

これが私の言う「生まれつきの価値観」です。霊の残りが人にはあるわけですね。しかしパウロが言うとおり、善(神の基準)を行なう意志はあっても力がない。この力はいのちにより、いのちはいのちの御霊の法則に従って働き、この時、私たちの内に立法の要求が満たされるのです。これが神学の理論ではなく、御言葉そのものの啓示です。



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Re: ヒューマニズムについて
投稿日 : 2005/12/19 09:14
投稿者 Luke
参照先
再建主義では「普通性」を極端に嫌い、その究極に獣姦があるという。これ自体ですでに彼らの病理性が分かるが、では聖書は何と言っているでしょうか。

1)人は神の形に造られた。しかし第一の人アダムはその実質である神のいのちの内住を得損なった。

2)神から断絶されて、いのちの木への道も封鎖された。かくして人は魂と体の生き方、つまり肉となった。

3)ローマ2:14-15にあるように、たとえ律法を持たない人あるいは生まれながらの人であっても、良心が善と悪をわきませさせる。これが私の言う「生まれながらの価値観」であり、自然法の根拠です。(再建主義はこれを一切認めない。)

4)人は善を行ないたいという意志はあるが、力がない。人は思いの中にある神の律法を行ないたいと言う法則と、体の中にある罪と死の法則のはざまで、神の律法を行なうことができない。つまりアダムのいのちには力がない。

5)キリストは最後のアダムとして旧創造を終わらせ、第二の人として復活の初穂となり、同時にいのちを与える霊として、御霊によって私たちに内住され、わたしたちのいのちとなられた。そのいのちはいのちの御霊の法則に従って働き、私たちを罪と死の法則から解放した。

6)御霊に従えば、このいのちの御霊の法則が自動的に働き、たとえ知識として律法を知らなくとも、律法の要求は私たちの内で満たされる。

7)ロマ書の語る私たちの生まれながらに持つ普通の感覚はいのちの実質を得るときに、実際に行なうことが可能とされる。つまり私たちはますます普通な人になるわけ。

8)カルトや異端はこの普通さをその教義や聖書解釈によって壊していく。もちろん私たちは自己中心で生きてきたから、例えば「得るためには捧げよ」と言う御言葉には当初は肉の抵抗を覚える。しかし自己をおろして従う(=自分の十字架を取る)ならば、むしろそれが解放であり、自由であり、喜びであることを味わう。

9)この自己を処理することは私たちの意志により、そのとき御霊は内なる業をして下さる。つまり「得るためには得よ」と言う価値観は、実は生まれながらのものではなく、世にある間に刷り込まれたもの、つまり普通ではなかったわけ。これを経験させてくださるのがキリストのいのちである。

10)かくして神の形である人の中に神のいのちの実体が満ちる時、そのいのちに従った行動やあり方を実現する。このいのちの性質に従った統治が行なわれ、御国は成長拡大する。これはモーセ律法よりはるかに上位互換のいのちの御霊の法則によるわけ。

注:ここで富井さんが言う「超民族化・普遍化されたモーセ律法」とは「いのちの御霊の法則」ではないかと問いましたら、明確に「違う!」とのことでした。これは致命的ですね。

11)かくして十字架と共に働く御霊の造り変えが私たちの内で進めば進むほど、私たちは普通になっていくのです。しかしそこにキリストの香りと何かが表現され、世の人とは異なるのです。普通ですが、何かが違うのです!

12)キリストの形が形づくられる(メタモルフォーシス)ならば、キリストは私たちを迎えに来て下さる。私たちの希望は神学のドグマや油注ぎの器ではなく、土の器の中の宝物、すなわち内にいますキリストである。このキリストを知るならば、失望することはないのです!

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Re: ヒューマニズムについて
投稿日 : 2005/12/19 09:14
投稿者 Luke
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>聞いていて気持ちが悪くなった

人は幸いですね・・・。多くの人は気持ち良くなっちゃうというか、されちゃうわけで、まことのいのちへの道は狭いのです。

富井さんもこの辺で問題意識を持たれて、いのちを見出すのではなく、再建主義に入ってしまったのでしょう。彼の叫びを聞いて(読んで)いると、何だか痛々しく感じますよ。彼のために祈りが必要ですね。

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Re: ヒューマニズムについて
投稿日 : 2005/12/19 09:13
投稿者 外科医
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理解できました.十数年前の話で恐縮です.特伝講師(米沢のある牧師)が、イザヤ書53章「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」を利用して、「傷ついた人格は、他人を傷つけることでしか癒されません.私たちの傷ついた人格は、イエス・キリストを十字架上で傷つけることで癒されるのです.・・・」と騙っていました.そこには罪の贖いとしての、犠牲としての十字架は全く登場しませんでした.ただただ、心理学的なアプローチで、心の満足を得るために、十字架を利用しているだけでした.神の義が満足されるための贖罪としての十字架ではなく、人間の心が満たされるための十字架です.「オイ!オイ!ちょっと待って.」思わず、言いたくなりましたが、私は、黙って特伝会場から立ち去りました.聞くに堪えないメッセージでした.家内も「聞いていて気持ちが悪くなった」と言っていました.

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Re: ヒューマニズムについて
投稿日 : 2005/12/19 09:13
投稿者 Luke
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再建主義に関してはすでに十分なほどに判断材料が揃ったと思います。それぞれで判断がなされることと期待いたします。

で、ひとつ確認しておきたいのは、Dr.Lukeもヒューマニズムを批判しているが、富井氏はDr.Lukeをヒューマニズムと批判している、どうなっているのだ、とのご質問を受けました。

これは実に面白い論点でして、「ハシ」と言っても、「端」なのか、「橋」なのか、「箸」なのか・・・と言うことなんです。

再建主義では超民族化・普遍化されたモーセ律法を適用される領域が神の御国であって、教会からこの世へとその適用範囲を広げることが御国の拡大なわけです。現在は法的に千年期であり、新天新地であるから、これが実際的にも全地に成就されるときに、主イエスが再臨されるわけです(ポスト・ミレ)。

つまり彼らからすれば、モーセ律法が適用される領域とされない領域しかなく、適用されていない領域がヒューマニズムに冒されている領域になるわけです。そこでは「生まれつきの価値観」に従うわけで、すると獣姦も犯すと言うわけ・・・(言うべき言葉が見つかりません)。お分かりになります?彼らの踏み絵は、「あなたはモーセ律法を受け入れますか、拒否しますか」なんです。

しかし私の言っているヒューマニズムとは、私の十字架の適用を排した「愛」とか、「赦し」とか、さらには「福音」なのです(主の十字架はすでに成就)。十字架とは、すなわち、死と復活の原則です。「最初のものは肉のもの、後から来るものが霊のもの」(1コリント15:45)。この自己の経験的死を経ていないものがヒューマニズムです。

私の言うメルキゼデク系の律法とはいのちの御霊の法則であり、これに従えば自動的にモーセ律法の基準はまっとうされます(ローマ8:4)。これが再建主義者には分からないのですね。何度もWindowsとMS-DOSの関係で説明したのですが。先入観とは恐るべきものです。この法則は十字架、つまり死と復活の原則に従って働くのです。

ポイントはアダム系いのちから、キリスト系いのちへの乗り換えです。私のいう御国の拡大とは、自己ではなく、キリストのいのちの領域の拡大です。だから昨今の砂糖まぶしの「ありのままのあなたでよい」と言った「福音」に対して、私は警鐘を鳴らしているわけです。ご理解いただけましたでしょうか?

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