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文化と偶像礼拝
投稿日 : 2006/07/30 00:44
投稿者 kamekame
参照先
日本文化とのかかわりと偶像崇拝といった微妙な線についてlukeさんや皆さんはどのようにお考えでしょうか?基本的にはローマ14章にあるようにそれぞれが信仰と確信をもって自己責任において実践すべきだとは思いますが、さまざまな意見を聞くことも有益かと思います。

まず、「お盆や法事」ですが、親戚が集まると言うことには意義があると思います。しかし、仏壇や僧侶の意味のわからない読経を聞くことに意味はあろうか?(仏教についてスレのような意見交換を僧侶とできれば大変意義深いと思いますが。たいていは読経がすめばお茶を飲んで、世間話をして、すぐに帰りますし、他の親戚も、そのような意見交換をいきなりはじめられるとどう思うか予測がつきません。)クリスチャンだからといって一切関わらないのも、孤立的な気がします。祈りつつ参加するかなあと思っています。

ちなみにお焼香の時には、一応、仏壇の前に行き、お焼香はせずに、手をあわせてイエス様にお祈りをしています。(周囲の人がみるとお焼香はしないが仏壇に向かって祈っていると思うでしょう。)

「盆踊り」これは純粋に日本文化だと割り切って参加しても良いかと思っています。起源には日本独特の祖先崇拝、盆になって帰ってくる霊に対してどうこうという思想があるのでしょうか?盆踊りに参加するだけならそのような思想に同意したり加担したりすることにはならず、地域の人と人とのつながりを大切にしたり、日本の文化を味わったり、キリスト者であればイエス様を賛美しつつ、踊ることもできると思います。

これが、起源に偶像礼拝的な意味合いがあるから、クリスチャンは関わるできではないとか言い出すと、七夕もそうだし、節分もそうだし、ひな祭りもそうだし、日本からでていかなきゃいけないのではないでしょうか?

「地蔵盆」(地蔵を子供の神様として崇め、子供が線香を供えて地蔵に祈るとお菓子がもらえる。これは地域によって非常にさかんな地域とそうでない地域があるようです。)これに関しては、明確に偶像が存在するために、完全に対決モードです。一切参加しませんし、なぜ参加しないかを聞かれたときには、明確にキリスト者として説明をする準備をしています。(いまだ質問する人はいません。)
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夏の終わりをエンジョイしましょう。
投稿日 : 2006/08/27 00:05
投稿者 kamekame
参照先
ふつうのおばさん様、

>kamekameさま、有難うございます。
貴方の親切なお心に感謝いたします。

とんでもございません。僕はただ、自分の疑問をみなさんはどうしてるかな、どう考えておられるのかなと思って意見を聞いてみたかっただけだったので、自分の書きたいことを書いただけなのですが、でも、一緒に楽しんでいただけてたらうれしいです。

>二人息子がいます。幼い時に父親を天におくりましたので、わたしたちの拠り所は天国です。この世のなにものでもありません。

将来天国で会えたら、ぜひご挨拶させてください。僕の家族も紹介させていただきます。「私たちは以前Lukeさんのホームページで交わったんですよ」って、ご主人様に紹介してくださいね。永遠なんですから、それくらいの時間はあるでしょう。そのときには今私たちが悩んだり、考えたりしてることの意味や答えが明確になってるんでしょうね。

うさぎ亭主様、

>貴方と御子息の日常が既にキリストの香りを放っているのですね。
我が家もそうでありたい、と悔い改めて祈ります。

私も一緒に祈ります。アーメン。我が家もそうありたいです。

さて、このスレも、最初は駄スレだったかなと思ったのですが、レスを下さった皆様のおかげで、私としましては大変有意義なお交わりをいただけたと思います。感謝いたします。

我が家の地蔵盆は、例年通り、家族で近くの温泉につかりました。ウィークディだけど仕事が終わったら温泉で落ち合って、家族でゆっくりすごせるというリフレッシュのひと時でした。週の半ばにこんなことしようなんて地蔵盆でもなけりゃ、思いつかないな、と語りながら家族でとても幸せなひと時を過ごせました。

と同時に、同じ温泉に来てる人たちは地蔵盆に参加しなかったんだなと思って、親近感がわいたり、、、。

夜十時近くになって家に戻ると、近所では人はもう誰もいませんが、線香のにおいがぷんぷんしています。ふだんはうすぐらいほこらの中にある地蔵がきれいに飾られて、屋根や椅子が並べられて、スポットライトを浴びています。祭りが終わったあとのなんともいえない雰囲気がただよっています。

でもその雰囲気を感じながら、地蔵盆が終わると、夏も終わりだなと思うのです。

8月は、広島・長崎の原爆記念日があったり、終戦記念日があったり、怪談やホラーがはやったり、盆踊りや地蔵盆があったり、いろいろと考えさせられることが多かったように感じます。

このスレで伺ったさまざまなご意見を胸に、色々と自分の中でまとまらない思いがまだありますが、ゆっくりと、来年に向けて祈って、考えてみたいと思います。

来年はどんな年になっているかな。来年の地蔵盆はどのように過ごすかな。

8月も残すところあと5日ですね。残暑はまだまだきびしいと思いますが、日一日と涼しさが増してきます。暗くなるのが早くなってきます。神様の恵みも日一日と豊かに心にみちあふれますように。夏の終わりを主とともにエンジョイいたしましょう。

ありがとうございました。
ということで、このスレは8月いっぱいをもちましてロックさせていただきたいと願っています。
Re: 文化と偶像礼拝
投稿日 : 2006/08/26 21:05
投稿者 うさぎ亭主
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ふつうのおばさん様:

失礼なレス致しましたこと、お詫び申し上げます。

>クリスチャンではない人から「キリストの葬式はいいね」と言われたときは嬉しかったです

>わたしたちの拠り所は天国です。この世のなにものでもありません。

貴方と御子息の日常が既にキリストの香りを放っているのですね。
我が家もそうでありたい、と悔い改めて祈ります。
Re: 文化と偶像礼拝
投稿日 : 2006/08/25 16:03
投稿者 ふつうのおばさん
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kamekame様
「対決モード」は誤解しておりました。お気持ちよく分かりました。

>人は神によって創造されていますから、どんな人でも神を求めます。霊のなごりがあります。偶像礼拝を否定するあまり、その人の神を求めようとする心まで否定してしまってはいけないと思います。

アーメンです。

>昔、ピーターという牧師が地蔵さんに癒しをもらったと喜ぶおばあちゃんにそれは偶像だよと否定するのではなく、「おばあちゃん、よかったね。神様は恵みふかいかたただね。」と言ってあげて、その後、おばあちゃんが受洗まで導かれたという意味のメッセージを言っていたような記憶を思いだしました(うろ覚えなので間違っているかも??)
その神を求める心を否定せずに、大切にしながら、偶像ではなく、イエス様を紹介することが私たちの役目でしょうね。

アーメンです。

聖書にあります偶像礼拝の箇所ですが(第一コリント)、
純粋な、混じりけのない心をもって神様に向かうことを諭してある、と私は理解しております。

クリスチャンの一人一人が自分の内側が、今キリストにあるかどうかを見ることだと思います。問題は偶像ではなく私たちの内側だと思います。
偶像を必要以上に並べ立てたり、善し悪しを人に突きつけたりすることではないと思います。

>地蔵盆の世話係りをしながらどのようにしてそのメッセージを伝えることがおできになったのかとても知りたく思います。よかったら教えてくださいませ。

わたしがクリスチャンであることは近辺の方はご存知です。母のお葬式はキリスト式でしました。クリスチャンではない人から「キリストの葬式はいいね」と言われたときは嬉しかったです。近所のおばあちゃんからは「あんたんとこはかわっとるね」と言われてます。その日特別にイエス様を伝えている訳ではありません。

>世話係をしてもご自身は地蔵参拝はしなかったんですか?

  私は自分の内なるキリストに向かっていつも祈っております。地蔵参拝はいたしません。

>またふつうのおばさん様にはお子様はいらっしゃらないのですか?もしいたら、お子様は地蔵参拝をされたのですか?もしも、ご自分のお子様が地蔵参拝をされてもやはり純粋だとおもわれるのでしょうか?

 二人息子がいます。幼い時に父親を天におくりましたので、わたしたちの拠り所は天国です。この世のなにものでもありません。

kamekameさま、有難うございます。
貴方の親切なお心に感謝いたします。
ご健康が守られますように
投稿日 : 2006/08/22 22:24
投稿者 kamekame
参照先
>あまりお返事、論議に参加出来ませんこと、お許しください。そこまでの時間は今の私にはありませんので・・・あしからずです。

フリーディスカッションの掲示板でお仕事のご様子を書いておられたのを読んでいます。大変お忙しいのでしょうね。どうぞ、ご健康が守られますようにお祈り申しあげます。
Re: 文化と偶像礼拝
投稿日 : 2006/08/22 10:22
投稿者 東名高速
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>東名高速様はそのことをおっしゃっておられるのではないでしょうか?

残念ながら、そうではないのです。

誰にでもイエスを信じる時、
直接的な動機というものはあることでしょう。私にもあります。
しかし今回、私が反論させていただいたのは、
「幼い頃、地蔵を拝む」という偶像礼拝、宗教体験が素地となってやがて「イエスを信じるに至るのでは・・」というご意見に対してであります。

>ふつうのおばさん様はそのことをおっしゃっておられるのではないでしょうか?

この方の真意は私には解りませんし、その文面に対して、ただストレートに応答させていただいたに過ぎません。

また個人的なことで恐縮ですが、カキコさせて頂いたにも拘らず、あまりお返事、論議に参加出来ませんこと、お許しください。そこまでの時間は今の私にはありませんので・・・あしからずです。



信じる素地
投稿日 : 2006/08/25 19:16
投稿者 kamekame
参照先
東名高速様、仏教のスレに続いてこちらにもご意見をありがとうございます。

>Tコリ12:3〜また、聖霊によるのでなければ、
 だれも、イエスを主と言うことはできません。

これに関しては完全にアーメンですが、

>『やがてイエスを信じる楚地となった』
のではありません。

これに関してはそうともいいきれないのかなあとも思うんです。

仏教のスレを書いてから、仏教からクリスチャンになった人々の証を何人も読んでいます。彼らに共通することは仏教を奉じていたときから真摯に真理を求めていたということです。彼らの証を読むと仏教を通して真理を求めた。しかし、真理は得られなかった。イエスに出会ったとき、真理だと信じたと言っているようです。これは少しは素地になったといえるのではないかなと思うんです。

ただ素地になるからと言って、奨励したりはしません。
たとえば、元ヤクザの人が救われました。ヤクザの怖さや、恐怖心、罪責感が、救いを求める下地になりました。しかし、人にヤクザになるように勧めるようなことはしません。

病気がきっかけになって、その恐怖心や悩みから、救いを求める心がわいてきて、イエスを求めました。という人がいるかもしれません。しかし、病気になることを奨励はしません。

ある人は仏教、ある人はヤクザ、ある人は病気、ある人は覚せい剤、ある人は失恋、いろいろなきっかけで、心に飢え乾きが生じ、救いを求める心がわいてきて、イエスを求め、救われました。しかし、救われるためにそれらのことがらを奨励したりはしません。

聖霊はいろいろなことがらを道具として用いて、人を飢え乾きや救いを求める心へと導かれるのではないでしょうか?

ふつうのおばさん様はそのことをおっしゃっておられるのではないでしょうか?

しかし、最後に魂を再生し、救いを与え、信じる心はただ聖霊の働きにのみよることは御言葉にあるとおりです。もしも聖霊が働かれなければ、ヤクザはヤクザのまま、病気をしても失恋をしてもつらいだけ。

東名高速様はそのことをおっしゃっておられるのではないでしょうか?
Re: 文化と偶像礼拝
投稿日 : 2006/08/21 21:06
投稿者 東名高速
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>日本人のクリスチャンのほとんどの人が、小さい頃は神社やお地蔵さまにふれて、そうしてイエス様のもとにきたのではありませんか?

いいえ、
「イエス・キリストが、唯一の神であると知った」時から、
私たちは、地蔵に参ろうとか、木、石で作られた神と言われる対象は拝もうと思わなくなった。」と言えるでしょう。
小さい時に地蔵を拝んだからといって
それが宗教心として残り、
『やがてイエスを信じる楚地となった』
のではありません。

私たちは純粋に聖霊によって、イエスを主と告白しているのですから。

Tコリ12:3〜また、聖霊によるのでなければ、
 だれも、イエスを主と言うことはできません。
ちょっと誤解が、、、「対決モード」
投稿日 : 2006/08/22 00:18
投稿者 kamekame
参照先
「対決モード」と私が使った言葉で、誤解があるようです。誤解を与えてしまうような表現をすみませんでした。

私が「対決モード」と書いたのは地域の人たちと対決するつもりではありません。地域の人たちは愛して仕える存在だと認識しています。

盆踊りは起源は偶像礼拝だと思うが、今は純粋に文化として楽しんで参加できるけど、地蔵盆は明確に偶像が存在するので「参加できない」「楽しめない」という意味を「対決モード」と表現したのです。地域住民と対決するのではなく偶像の背後にいる霊に対しての対決です。

地域の人たちがしているのを出て行って妨害したり、否定したりというような意味はまったくありません。

加えて説明しますと、私の留守中に(日中は仕事にでてますから)、近所のおばさんが、「お宅は地蔵盆のときはいつもるすですが、お地蔵様は子供の神様ですから、おたくにもお子様がいらっしゃるのですから、ちゃんと参加してください。」と言いにきたそうなのです。家族のものは角をたてないように「はいはい」と返事をしたそうなのですが、チャンスがあれば私のほうから私たちの信仰についてきちんと説明しなければいけないなと思っていたのです。私が家にいるときに来てくれたらいいなと思っているのですが、まだ来ません。それが最初に(いまだ質問する人はいません)と書いたことの意味です。

繰り返しますが、それは対決ではなく、愛をもっての弁明です。

>あれは偶像、これは悪霊だ、と論ずる事より、

複雑な議論を論ずる必要はありませんが、聖書にはこう書かれています。

第一コリント
10:14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい
10:19 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
10:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
10:21 あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。

偶像はただの石であったり木であったりするわけですが、それにささげたものは悪霊にささげたものだと聖書は言っているのです。

ただ、人は神によって創造されていますから、どんな人でも神を求めます。霊のなごりがあります。偶像礼拝を否定するあまり、その人の神を求めようとする心まで否定してしまってはいけないと思います。

昔、ピーターという牧師が地蔵さんに癒しをもらったと喜ぶおばあちゃんにそれは偶像だよと否定するのではなく、「おばあちゃん、よかったね。神様は恵みふかいかたただね。」と言ってあげて、その後、おばあちゃんが受洗まで導かれたという意味のメッセージを言っていたような記憶を思いだしました(うろ覚えなので間違っているかも??)

ふつうのおばさん様がおっしゃりたいこともそのような意味ではないでしょうか?

彼らは神によって造られた存在ですから神を求める。しかし、まだ、イエスに出会えていない。目の前にあるのは偶像。だから偶像に手を合わせる、拝む。その神を求める心を否定せずに、大切にしながら、偶像ではなく、イエス様を紹介することが私たちの役目でしょうね。

>「信じて仰ぐ対象はイエスさまただお一人です」と。

まことにアーメンです。ただ、地蔵盆の世話係りをしながらどのようにしてそのメッセージを伝えることがおできになったのかとても知りたく思います。よかったら教えてくださいませ。

世話係をしてもご自身は地蔵参拝はしなかったんですか?またふつうのおばさん様にはお子様はいらっしゃらないのですか?もしいたら、お子様は地蔵参拝をされたのですか?もしも、ご自分のお子様が地蔵参拝をされてもやはり純粋だとおもわれるのでしょうか?

加えて書きますと、私の地域の地蔵盆は狭い地域に数十箇所の地蔵がひしめきあい、子供が線香を供えるとお菓子がもらえるというものです。子供がお賽銭を入れたりはしません。子供にとっての関心はいかにしてたくさんのお菓子を手にいれるかということであって、我先にといそいで地蔵めぐりを行います。さながらサンタクロースが袋を担いでいるようにお菓子をもって走る子供たちの姿がみられます。地域のお菓子屋さんはこのときとばかりお菓子の売り出しセールに入ります。「地蔵盆用お得用」と大きく書かれて、ダンボール単位での安売りセールです。白状しますと私も子供のころお菓子をもらうのが楽しみで線香をささげているときも「どのお菓子がもらえるかな」との思いでいっぱいでした。しかしそのことと自分の救いが関係あるとは思ってもみませんでした。
Re: 文化と偶像礼拝
投稿日 : 2006/08/21 19:02
投稿者 うさぎ亭主
参照先
ふつうのおばさん様

ご返答感謝です。

「その先には偶像でも悪霊でもなくキリストです。一人一人を導いておられます。日本人のクリスチャンのほとんどの人が、小さい頃は神社やお地蔵さまにふれて、そうしてイエス様のもとにきたのではありませんか?」

・・・でしたら、正月の初詣に出かける大群衆がそのまま教会に足を向けるのではありせんか?
お子様は、「ありがたいお地蔵様」と教えられているから拝んでいるのではありませんか?
「対決」は私もしたくはありませんが、「信じて仰ぐ対象はイエスさまただお一人です」という明確な線引きは必要ではありませんか?
私が掲げた日本****教団のリベラルの方々のように「何でもあり」になってしまうのではありませんか?

神社・仏閣の偶像礼拝の先にはイエス様はおられないと思います。
Re: 文化と偶像礼拝
投稿日 : 2006/08/21 01:34
投稿者 ふつうのおばさん
参照先
kamekame様
ご返答有難うございます。

うさぎ亭主さま
私からみまして、お地蔵さまはただの石の像で、神様でも悪霊でもありません。偶像とか悪霊とか決めて掛かるのは、キリスト教の人達です。(すべての人ではありませんが)
ですからわたしはお地蔵さま参りは、致しません。
ですが、地域の方々はその事をご存知ないだけです。偶像だ、悪霊だと思って参る人は一人もいないと思います。
やはり子供は純粋に祈ってました。その先には偶像でも悪霊でもなくキリストです。一人一人を導いておられます。日本人のクリスチャンのほとんどの人が、小さい頃は神社やお地蔵さまにふれて、そうしてイエス様のもとにきたのではありませんか?

あれは偶像、これは悪霊だ、と論ずる事より、地域の人々と対決モードになる事より、イエス様が私たちを許してくださった御血潮を伝えませんか?

「信じて仰ぐ対象はイエスさまただお一人です」と。

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