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人格障害というビョウキ

文藝春秋3月号に面白い記事があった。人格障害に関する臨床医のつぶやき。人格障害には、自己愛性、妄想性、境界性など、いくつかのパタンがあるが、一言で言えば、「物事の感じ方や考え方、言動のあり方に極端な偏りがあり、それを状況や環境に応じて調整しきれず・・・量が質に変わる臨界を越えた人たち」と定義できる。この数年来、私もこの手の人たちに少なからず関わられた。

その特徴は「人格障害者が拘泥するのは、自尊心と被害者意識である」。そして治療法がなく、薬も効かないし、「彼らは毎度同じパタンのトラブルを反復し、どれほど知能が高かろうとも決して学習効果を示さない。呆れるばかりの精神的視野狭窄がある。いくら問題点を指摘されようと諭されようと、聞く耳を持たず他人に責任があると逆恨みするのが彼らである」。つまり彼らは自分がいかにオカシイかが分かっていない。彼らの目には悪いのはみな他人なのだ。

そこで医者も彼らを治すことはできず、「いかに人生を逸脱させずに、無難に年をとらせていくか、を目指す」。それは「いわば刺し違いの覚悟で付き合っていくしかないのである。精神科医にとって、これほど徒労感を覚えさせられる人たちはいない。」

これを読んで思わず、ニッポンキリスト教界と同じだ、と頷いてしまった。私が言いたかったことをそのままに語ってくれている。ビョウキが当たり前で、健全な者がむしろ排除される倒錯した世界、これがニッポンキリスト教界である。最後の「刺し違い」という表現は、まさにピッタリくる。この業界とかかわるならば、少なからずこちらも傷を受けるは必定だ・・・。やれやれ。

Commented by 愛知県のさっちゃん Eメール 2006年02月15日(水)08:56

お久しぶりです。ルークさん!
人格障害というビョウキ・・のお話にはまったくうなずいてしまいました。まさに牧師も信徒も・・といった状況の中で出口がない迷路に置かれたような疲労感、徒労感を覚えます。何だろう・・このかたくなさ??まったく持って厄介な人々の集まりです。厄介な牧師が厄介な信徒にメッセージを語る。いのちが枯渇している世界。渇きが渇きを呼ぶ世界。宗教ごっこは、もううんざり。
ビョウキの人の目は輝きがない。どこか死んでいる。
思い込みの激しさ、本当に他の人の言葉は届かない。
いのちという感覚の流れとは無縁のような人々。重症だと思うのは・・わたしだけ?