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形ある物と形なきもの

そろそろ後期が開始。私たち大学の教員は普段学生に、「講義」と称してあれこれしゃべっているが、何しろ言葉には形がない。空中に飛んでいって、ふ〜っと消えてしまう。ある種の刹那的なものだ。バプテスマのヨハネみたいなものか。あるいは発音が忘れ去れた神聖四文字"YHWH"みたいなもの?ドラえもんで、しゃべった言葉が文字化して固まる装置があったが、私はまじで欲しい。

それでも学生と空間と時間、さらには言葉によるある世界を共有できると非常に楽しい充実感も味わうことも事実であるが、何しろ形がない。まあ、それで無理やり本や論文の形に残そうとするわけ。しかし一方で言葉は今回のローマ法王のように、相手によっては大変な事態も引き起こすからこわい。

アップロードファイル 15KBこれに対して陶器師などのアーチストの作業は形が残る。実にうらやましい。小学生の頃、図画工作で粘土をこねて陶器を焼いたが、あの頃がやけに懐かしい。粘土をいじりたいとか、絵を描きたいとかの欲求が最近こみ上げてくる。私の大学にも芸大出身の日本画家の先生がおられるが(彼が私の中学の同級生の夫君の同級生だったりして、世間は実に狭い)、作品を着々と残されている。

「男はつらいよ」で寅さんが人間国宝の作品の価値が分からず、灰皿にしていたと言う笑い話もあったが、アーチストにとっては作品を金で換算することは、人によってはプライドを傷つけるのだ。彼らにとっては無心で作ること自体に価値がある。そんなひとりの作品が写真の湯飲み。友人の明石庄作氏の作品で、ある機会にいただいた一品。俗人であるDr.Lukeとしては、彼が人間国宝になったら、これもけっこうイケルかもと内心期待しているのだが・・・。

ところで今、江戸東京博物館で特別展 「始皇帝と彩色兵馬俑展」が行われている。これもすべて陶器でできている。テトラグラマトンは発音が消失して姿かたちがないが、こちらはそのままに残っている。2,000年以上前のどんな人々が、どんな気持ちで作ったのか、時間と空間を越え、日常性を抜ける体験を、この機会に味わって来ようと思っている。