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神学の罠

前に<カルヴァンvsアルミニウス>の議論が無意味なものであることを指摘した(このBlogの過去ログまたは「ハードコア・セッション」参照)。また今回、ウェスレーの「全き聖化」なるものにある人間性疎外を指摘し、ウェスレーのパーソナリティとその神学が不可分であると述べた。よって神学は「学」足りえないと。これで怒り出す人もいるとは思うが、事実である。

神学は単なる個人的信仰あるいは経験の告白レベルに留めておくべきと思う。無限なる神を人間の言葉の中に固定化する試みなどは恐るべき高ぶりの罪であろう。無限なる神とある種の病理傾向を持つパーソナリティが相互作用して言語化されたものがいわゆる神学に過ぎない。ウェスレー神学はウェスレーの人格(多分、強迫性人格傾向)の反映であって、それ以上のものではない。再建主義にはまる人たちもある種の精神病理傾向を帯びているし、福音派だの聖霊派だの人たちもまた同じ。

小説を読み解いてその作者の精神病理を明らかにする「病跡学」という分野がある。その視点から見ると神学者や牧師こそは絶好の研究対象となると感じている(^^)。前にも牧師たちの人格テストを試みたいと書いたが、まあ、怒るでしょうね、結果を披露したら(笑)。

と言うわけで、私は最近は本気で、クリスチャンをこのような病理的産物である神学や、それに基づく牧会場面や牧師などから解放する必要性を感じている。誤解されることを恐れずに(もうされているなあ〜、私はニッポンキリスト教の危険人物ですから^^)、もっと言えば、クリスチャンを「キリスト教」から解放する必要があるのだ!これから真理の解き明かしで用いられる器は神学者ではなく、「学」を構築するための方法論と視点を得て、十分な訓練を受けた自然科学者でしょう。

そのためにはみことばを各自が正確に読みこなすこと。ウォッチマン・ニーの『キリスト者の標準』でもいえるが、和訳にはすでに訳者の主観が入っている。このために重要な論点が曖昧にされている。聖書も同じ。ニッポンキリスト教の問題は出版される本なども、出版社の経営状態に資するものばかりで、まともなものがほとんどない。特に80年代後半以降、それは寒い状況が展開している。

みなさん、声を大にして言います。メディアをそのままに信じてはなりません。吟味してください。ニッポンキリスト教で紹介される本を、「最新の神の働き」などとナイーブに信じてはなりません。内なる真理の御霊にご自分でお聞きになってください。そして何よりも、みことばに直接触れ、外なるみことばと内なる御霊の共鳴によるレーマを聴くことです。それはきわめてパーソナルであり、スウィートです。決して外なるものによって動かされることがない確信を得るでしょう。

こうしてひとりひとりがキリストにある大人になることです。神はこの時にご自由に働くことができるのです。

固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。

で、大変にうれしいお知らせです。Dr.Kさまがウォッチマン・ニーの"The Normal Christian Life"について、その中のみことばを考察するシリーズを始められるとのことです。みなさん、ニーであれ、誰であれ、自らがこうやってコツコツとみことばと触れて、吟味する必要があるのです。特にDr.Lukeの言うことは決してそのままに信じ込んではなりません(笑)。

ちなみにDr.Kさまも

「神学」という学問は、到底好きになれそうにありません。こういった地道な聖書理解の積み重ねで必要十分なのではないかと思っております。

と言われます。こういう視点をもたれた兄弟姉妹との交わりは実に豊かなものを得ることができます。主に感謝する次第です。楽しみです。

みことばざんまい by Dr.K