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自由と依存症

★最近の若い子の間ではケータイ依存症が多いようである。ケータイをいつも持ち歩き、メールを交換しつつ、互いの関係を確認し合っていないと不安に襲われるとのこと。若い一人暮らしの女性が寂しさのために出会い系サイトに関わり、犯罪に巻き込まれる。中には高校生で月に7万のケータイ料金となるらしい。

★主婦の間では万引きがそのスリルを味わうと止められなくなるらしい。あるいはパチンコ。男ならばアルコールやタバコ、さらにゴルフにマージャンにフーゾクにと。これらはすでに古典である。

★いずれも心の空洞を埋めようとする切ない営みである。人のぬくもりをケータイという間接的な媒体によらないと確認することができない。否、むしろ現実の付き合いよりもケータイを介した方が安心なのである。一人でいると寂しいが、人と近づきすぎるとトゲで差し合ってしまうジレンマ。これを「ヤマアラシの精神病理」と言う。

★人との距離感を忘れ、自分のアイデンティティの境界が不明瞭になり、他人との間で自分を確認することが困難となり、ついには引きこもりに至る境界性パーソナリティが、特に若い女性の間で増えている。以前に間接化の精神病理(http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing28.html)として少し書いたが、まさに私の予想通りの展開となっている。しかしケータイでは永遠にその空虚を埋めることはできない。

★クリスチャンはひたすらJesus依存になるべきである。神に依存することは他のあらゆることから自由となることである。人を恐れることからの自由、将来への不安からの自由、病や死からの自由。クリスチャンの成長は神依存の度合いによって計測される。まことの精神安定剤は御霊である。神依存と自由は比例する。自由、自由、自由。しかしその自由をあえて主張せず、キリストにあって制限することも出来る自由である。

"Not I, but Christ" −ここに鍵がある!