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心が痛い?

この言い回しはニッポンキリスト教と関わるようになってよく聞くようになった。というか、私の言葉で心が痛くなる人がけっこういらっしゃるようだ。Dr.ルークの言葉は鋭いとよく言われる。ならば、ペテロに向かって「サタンよ、さがれ!」と言われたイエスの言葉の方がはるかにするどい。

実はこの言い回しの裏には巧妙な自己愛が隠れている。「心が痛い」とはその対象の立場に自分を置いて、自分が傷つくであろう場面が予想された場合、自己防衛する時に使われるようだ。

「心が痛む」のは大変結構であるが、今日ニッポンキリスト教では当たり前が当たり前でなく、黒を黒、白を白とすることで「心を痛める」繊細な方々が多過ぎるようである。姦淫している牧師に対して、「先生が可愛そうだから」として見て見ぬふり。「相手を傷つけたくないので、求められると性的関係も許してしまう」とか。かくして教会の中に罪がいたるところに隠蔽されている。

「相手を傷つけたくない」とは、実は、「自分が傷つきたくない」の裏返し(これを「同一視的投影」という)。自己愛の変形が他人に対して、「心が痛い」と感じさせている。実は自分を愛していることの事実に気がついていない。

「心を痛める」前に、まず客観的な正確な情報を得て、十分にアセスメントし、善悪をわきわえまてからでも遅くはない(ヘブル5:14)。一方的な情緒的な話に踊らされ、見当外れに「心が痛い」とするのが、ニッポン人の得意とするところだからである。メッセージでも語っているが、聖書には一切の甘えの入り込む余地はない。「あながたのことばは、しかりか否かであるべきだ。それ以上は悪から出る」とあるとおりである。

私たちが本当に心を痛めるべきことは、信じない人が多過ぎること−主の十字架が貶められていることである。