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猿化ケータイ社会−喪失した当たり前−

先週の金曜日、ひとつの講義の日程を変更した。4日前に学務連絡の掲示板で告知しておいたにもかかわらず、きょう訪れた学生はひとり。他の連中は掲示板を見ていない!

この来た学生もいつもは掲示板を見ていないが、私が教室に顔を見せなかったので、念のため確認したら日程変更に気がついたというわけ。

一方でケータイを肌身はなさず、絶えずカチャカチャやってないと不安になる連中がいる。コミュニケーションのアンバランス。大切な掲示板による情報伝達には無関心で、ケータイではつねに相手とつながっていないと不安になる。

どこかいかれています。ある動物学者は「ケータイを持った猿」と嘲笑してしますが、まさに猿の社会。彼らは絶えずある種の声を出しつつ、相手を確認していないと不安になる習性を持っているそうです。同じです。

と、同様に教界でも、絶えず慰め、励まされ、愛されていないと自分の身を持て余す人々。大切な主イエスとの交わりはどこかへ行って、互いの温もりを確認していないとやっていけない甘えの病理。

何でしょう、この危うさ。当たり前が当たり前でない部分を、当たり前でないところで、失った当たり前を補償しようとしているわけです。悩んでいる人々よ、当たり前を当たり前に行いなさい。「悩んでいるからできない」とは言わないように。主は足なえに向かって「立って歩け!」と言われました。

信仰は行いによって全うされるのです。