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やや失望しました

今回BBSにあるとおり、再建主義の富井さんが私の文章を引用し、私が語っていないことを語っているかのように批判された。例えば、モーセ律法を悪者扱いするとか、律法は破棄されたから人間の標準で何でも自由にしていいのが恵みであるとか、私が語っているかのように。

反対に私が語っていること−例えば、モーセ律法はいのちの御霊の法則によって、つまり信仰によって全うされること−については一切無視されたままだ。そして彼のサイトで公に的外れの批判がなされているにもかかわらず、こちらはそこにカキコができないと言う不合理な状態がある。他人を批判し、後は一切シャットアウトといった非常識は少なくともアカデミズムではあり得ない。(常識の問題と言う前に、そもそもモーセ律法の義に反する思うのだが・・・)

喩えて言えば、私が「1+1=10」と書いたことに対して、「お前は間違っている。1+1=2だ」と批判し、私が2進法を用いていることを無視するようなもの。実は今回の機会をとらえて、彼との積極的な交流をと期待したが、どうもその後何らのレスポンスもいただけない。残念なことである。私は彼をかなり評価しているのだが。

かつて富井氏と救世軍の山谷氏が大論争を繰り広げた。互いに自説を主張し合って、今回と同様に富井氏が山谷氏をシャットアウトしてすれ違いに終わったが、その論争から学ぶべき点が多々あったので、今回もそのつもりでいたのだ。ただ御言葉がすべてを露にするので、私はこれ以上追求するつもりもないが(そんな気力もないかな・・・^^)。

思うことは、前に「最も本質的なこと」としてディスペンセイション主義者と再建主義者の論争のあり方を論じたが(論争自体は大いになされるべきであるが、そのあり方はかなり病的である)、その時も、また今回も感じることは、ニッポンキリスト教には知的にはかなり高い資質を持ち、聖書の解釈や神学をよく知っている人はそこそこいるが、情緒的に成熟した大人はあまりいないと言うこと。むしろ情緒的にはきわめて幼い。

ニッポンキリスト教の諸悪の根源はこの情緒的な幼稚さにあることを痛感している。神学の問題ではなく、精神病理的問題なのだ(私は、どの神学を選ぶかはその人の精神病理と密接に関係していると感じている)。いのちの成熟がない。私たちに必要なのは成熟した繊細な霊的感受性なのだ。