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救済の意味

単純な思考実験をしましょう。

■質問1:エデンの園でアダムが善悪の木の実を取らず、いのち(Zoe)の木の実を取っていたら(仮定法)、律法は必要だったでしょうか?
■回答:必要なかった。
■理由:律法はまことのいのちの実体であるキリストへと導く養育係だから。すでにいのちを得たのだから養育係は不要。

■質問2:アダムとエバがいのちの木の実を取っていたら、神が送ったと考えらえる聖霊によって律法を行なって得られるいのちと、ただ信じることによって得られる義認としてのいのち(Zoe)を区別する必要があったか?
■回答:ない。
■理由:いのち(Zoe)はすべてを包含する。つまり律法の第1,2の機能(影としての祭儀的意味)は排されたが、残っている第3の機能(律法の趣旨)もいのちの御霊の法則によってまっとうされるから。

■質問3:「救済」には、善悪の路線上のものと、いのちの路線のものがあるのか?
■回答:ない。
■理由:もしアダムがいのちの木の実を取っていたら、「救済」という概念自身が不要となるから、契約神学とか、ディスペンセイション神学とかも不要だった。つまりいのちの木の実を取りそこなったから「救済」が必要なのだから、「救済」とはいのちの木の実を提供すること。私の理解はこちら

【結論】:要するに、人類がアダムの得損なったいのちの木の実を取れば神のご計画は成就する。アダムの失敗があったので、キリストは贖いのプロセスを経る必要があった(救済)。それが完成されている現在、いのちを得るためには私たちがキリストの死と復活に結合されること、それはすなわち信仰による。

※注意※モーセ律法の趣旨である富井さんの言われる第3の機能(人を神の標準に導き祝福された生活を送らせる)を排除してはない。なぜなら、それはいのちの御霊の法則に含まれるから(上位互換)。

【神の御心】わたしはあなたがたのいのちとしてあなたがたの内に生きたいのです。神と人が共に住まうこと、父と子として、また夫婦として。だからわたしの独り子をいのちとしてあなたがたに与えたのです。このギフトをただ信じることによって得てください。