パウロとヤコブについて


パウロは言います:
人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく信仰によるというのが私たちの考えです(ローマ3:28)。もしアブラハムが行いによってと認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神のみ前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼のとみなされた」とあります。(ローマ4:3,4)。

ヤコブは言います:

私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰行いによってまっとうされ、そして「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばば実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう(ヤコブ2:21‐24)。

これらの御言葉は、一見すると、その対立は明らかであり,ある人々が、だから聖書にも矛盾がある、と批判する根拠となっています。この一見して明らかな矛盾に対して、神学的哲学的論及をする能力は私にはありませんので、次の喩え話を提出するにとどめたいと思います。

私には愛する息子がおります。彼は私のことを父親として尊敬し、信頼し、従ってくれております。これによって私と彼の関係は麗しく、楽しい関係になり、私も彼の信頼に応えようとし、彼には私のできる範囲で最善のことをしてあげることを願っております。私は彼との交わりを楽しみ、彼との交流によってどれほどの幸いを得ていることでしょう。彼を私の息子として与えてくださった天の父に感謝すると共に、私も天の父の息子として、天の父を拝し、信じ、従うことを願います。

ある時私は、信じるとはどういうことだろうか、と考えたことがあります。その際次のような思考実験をしました。私の息子を高い台の上に載せます。そして彼に向かって語ります、「そこから飛び降りてごらん。パパが受け止めてあげるから!」と。多分息子は高い所において下を見るならば、その事実によって恐れおののいているはずです。そして息子は震える声で返事をします、「ぼくはパパを信じるよ。パパが必ず受け止めてくれるし,パパにはそれだけの力もあるよね!」と。その言葉を聞いて、私はうれしさを覚えます。息子はこんな状況においても、自分のことを信頼してくれているのだから。そしてまた語ります、「早く飛び降りなさい!」と。

私と息子の関係の本質が明らかになるのは次の瞬間です。もうお分かりと思います。もし息子が本当に私の手の中に飛び降りてきたならば、それは彼の私に対する信仰の本物であることを証しします。私と彼との関係の確実性が確認され,さらにはもっと深く麗しいものとなるでしょう。もし息子がいつまでも飛び降りてこないとしたら、それは私にとってはとても深刻な失望を意味します。私と彼との関係にある種の傷を残します。

「パパを信じるよ」と言う彼の言葉は私にとって一つの喜びです。そして実際に飛び降りるか否かは、その言葉の本質を明らかにします。すなわち、「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだもの」なのです。(ヤコブ2:17)。私と天の御父との関係が、私の行いを伴った信仰によって、よりいっそう深く麗しいものとされることを願います。

これらの御言葉は私たちが信仰によって神の御旨に応ずる時、どちらも経験的に真となるのです。これらのパウロとヤコブの一見矛盾する主張は、同一の平面上に乗せてしまうからそう見えるだけで,実はどうも平面を異にしていると思われるのですが、皆さんはどう考えますか?

信仰によらないことはすべて罪であり(ローマ14:23)、しかし愛のない信仰はむなしいとあります(1コリント13:2)。大切なのは愛によって働く信仰である(ガラテヤ5:6)。それは行いによって完成されるのです(注)。

なお、この信仰と行いの対立はルターの聖書理解によるもので、彼はヤコブ書を「藁の書」としました。実はパウロも真の信仰には自ずと業が伴うことを指摘しています。すなわち1テサロニケ1:3において、「あなたがたの信仰のわざや」と書いています。  


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