ニューエイジの問題点について


近年ニューエイジ・ムーヴメントが盛んになっています。これは一見すると宗教団体とかの形をとってはおらず、むしろ一種の世界観あるいは世界を把握するためのフレームとして、あらゆる分野に浸透している感があります。例えば、宗教を筆頭に、哲学、心理学、教育学、芸術、科学、医学、さらには環境問題や人権問題などの分野へも広がっています。そこでニューエイジ運動をどう定義するかとなると何とも捉え処がなく、明確な定義を与えることが困難です。そこでこの論考では、あくまでも聖書の真理に照らして、真理からの評価した定義を提供したいと考えます。

クリスチャンであれば、イエス・キリスト十字架による贖いによって人は救われることは、教団・教派を越えて共通の信条としていることは疑義がありません。まさにこれがクリスチャン信仰のアイデンティティー、すなわち天地の創造主による救いの根底であるわけです。このイエスとは、神の第二格位である御子が人間性を取られた方であって、イエスにおいて神と人がユニークに結合されているわけです。イエスとはユニークな神・人たる存在です。なぜなら、本来神と人は厳然と異なる存在であって、神が人を救う際に、人の罪の問題を対処するためには、どうしても人間性を取らざるを得なかったのです。イエス・キリストのみがユニークな神と人の仲保者であるわけです。

それに対してニューエイジでは、人は潜在能力としてみな神になり得るのであり、一切は一つであって神であるとし、人の罪の問題もイエス・キリストの贖罪の必要性を認めません。人のうちには神になり得る潜在能力があるのであって、それを適切な瞑想やヨガの修行などによって"啓発"してやれば、そのうちなる神の性質が現されてくるとします。ここで神と人の明確な区別を否定し、一種の汎神論的見方を取ります。その結果、人の罪の存在も無視することができ、イエス・キリストの贖罪も不要となるわけです。このようにして私たちのクリスチャンの信仰の根本的な部分を否定し、破壊します。一言で言えば、「進化論的汎神論」と言えます(水草修治:『ニューエイジの罠』:CLC出版)。きわめて人間中心の世界観であるのです。

占星学的に言いますと、イエスの到来から約2000年間は魚座(キリスト者のシンボルです)が支配していたが、それ以降(1960年代以降)は水瓶座(アクエリアス)の支配による新たな時代(ニューエイジ)が開始され、イエス・キリストとか教会はすでに終わった存在であるとするわけです。そこで別名"アクエリアスの時代"とも言われます。生命はすべて一つの神たる生命体(ガイア)の様々な現れであって、地球も一つの母なる生命体であり、その生命体は次々とその形態を変化させる(輪廻思想)と言っています。したがって人格を持たれた神は認めません。また宇宙の真理についての啓示は、チャネリングを通して、宇宙の霊と交信することによって得られるとします。人間は本来神の一部であるのだから、瞑想やチャネリングなどの自己啓発によって神化し、その過程を通じて、様々な苦しみからも解放されるとします。人間には原罪などもなく、輪廻転生を通して、より高次の霊的存在へと進化し、ついには神になるとします。これが自己発見と呼ばれます。イエスとは単なる高次の霊的存在であって、偉大な教師であり、また霊能者にすぎないとします。そしていつの日かキリストがマイトレーヤとして再臨され、この世を統治し、人類の平和と幸福が実現するとします。

このようにニューエイジ・ムーヴメントは近代合理主義あるいは科学万能主義による霊的閉塞感に対するアンチテーゼとして、近代まで抑圧されて来た神秘主義や東洋思想などが、いわば装いを新たにリバイバルしたものと言えます。したがってその中身はある種「八百屋さんの店先」的な状況を呈しており、何でもありの感があります。そこで問題は、教育とか心理学や精神療法などの中に、意識されないままに進入しているケースが非常に多いのです。最近の自己啓発セミナーヒーリング・セミナーなどはまさにニューエイジの落とし子と言える者です。真の自己の発見とか、自己の潜在能力の開発・啓発とかの、とても魅力的な形で提示されています。また母なる地球と人間は一つだから、環境を壊すことは、私たち自身を壊すことであるなどの環境思想も近年あらゆる分野に浸透しています。特にハリウッドの有名俳優とかスポーツマン、さらにサイコセラピストなどの人々が、それとなくその思想を展開していることに、私たちクリスチャンは差し迫った危機感を覚えるべきです。しかも時として、ヒーリング(癒し)の賜物などの形でキリスト教会の中にさえ忍び込んでいることがあります。これもまさに霊的戦いの非常に大きな現代における課題なのです。

ニューエイジを一言で表現するならば、人格を持たれた神を排除した人間中心の汎神論的神秘主義的世界観であると言えます。その意識の中心はつねに自己に向けられ、自己の能力、自己の徳、自己の愛、自己の霊性・・・・と、あくまでも自己追求の試みと言えます。これらの姿勢はイエスの「十字架を負って、自己を否みなさい」という教えに真っ向から対立するものであって、神の贖いの御計画の御業を根底から否定する点において、私たちクリスチャンにとっては、ひじょうに狡猾な現代的な敵であると言えるのです。


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