霊的アイデンティティの確立I

−キリスト対セルフ−


罪の本質

福音とは何か−私たちが罪を赦され、病を癒され、問題を解決され、善き社会人として成功し、ハッピーな人生をまっとうし、死後天国に入ることだろうか。今日のニッポンキリスト教で語られる「福音」のほとんどがそのレベルのものである。しかしこのような「福音」であれば、他の宗教でも語っているし、クリスチャン信仰のユニークさを見失っている。今日ニッポンキリスト教は福音の本質の的をはずしている。姦淫や殺人をするまでもなく、罪(ハマルティア)の意味は「的外れ」であることを確認すべきである。


自己の正当化

いつ頃からであろうか、「神はそのままのあなたを受け入れて下さる」、「セルフイメージを高める」、「インナーチャイルドの癒し」、「あるがままのあなたが高価で尊い」、「WWJD」などが流行し始めたのは。これらの標語は見かけをキレイに膨らませるパン種である。福音をセールストークにしてはならない。十九−二十世紀初頭の深い霊性に裏打ちされた聖徒の古典的著作に触れ、感化を受けた者であれば、これらのヒューマニズムやニューエイジで汚染された標語には少なからぬ違和感を覚えるはずである。十字架の原則−自己の死−に真っ向から抵触するからである。これらの中心には巧妙に自己(セルフ)が息づいており、自己主張と自己保存の正当化に過ぎない。


死の適用

悩んでいる人、苦しんでいる人々の特徴はダイハードな自己(セルフ)である。「成功者」の特徴もバブル化した自己である。「私はこれほどに苦しんでいる」、「苦節○年、私はこれだけ成し遂げた」という主張の裏には、共に肥大化した自己が息づいており、この自己を憐れみ、この自己を認め、この自己に栄光を帰してくれ、という暗黙の叫びがある。前者は切腹はしたものの、死に切れない苦痛によるうめきである。後者は死ぬ必要を覚えない自己高揚の叫びである。

前者の人々に必要なのは傷ついて哀れな自己を癒し、改善し、セルフイメージを高めることではない。魂と霊を切り分ける諸刃の剣よりも鋭い神の言葉で、一刀のもと、介錯してあげることである(ヘブル四・12)。後者の人々に必要なのもあらゆる動機やはかりごとを暴露する神の言葉による魂と霊の分離手術である(ヘブル四・13)。いずれにせよ十字架の死の効力が働く時、私たちの心は自己から解かれて真の深い平安と安息によって鎮静化する。


隠されたマナ

今日聖所(魂の領域)において光(燭台)と備えのパンに与り、祈り(香壇)も経験している人はいるだろう。しかしペルガモ(「世との妥協・結合」の意味)の教会にあって、物理的な光のない深い静寂に包まれた至聖所(霊の領域)に入り、神の臨在の光(シェキナ)のもとで、契約の箱の中にある金の壷の中に隠されているマナに与る人はどれほどいるだろうか(黙示録二・17)。神が受け入れるのは自己の死を経た後の復活のものだけである(死と復活の原則:第一コリント十五章)。神は第一のものは拒否される。あるがままの自己は決して至聖所には入れない。至聖所に入るには自己は焼きつくされている必要がある。

私ではなくキリスト−それは自己への完全なる絶望によりただ死を望み、十字架の私の死を見出した者が与る究極の祝福である。人目を惹きつけるきらびやかさはない。この歩みを見出した者は徹底して世からの分離を願い、アンティパス(「すべてに抗する」の意味)となるだろう(同13節)。隠されているマナ−何と言う甘さ、何と言うエクスタシー、何と言う栄光。「あなたがたの間からパン種を除き、聖別され、自己を焼き尽くしなさい!」−これが今日の病んだニッポンキリスト教に対する神の処方箋である。


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