フルコンタクト・ゴスペルG

霊が活きる道―福音の直接体験―


v.s.





かつてJessie Penn-Lewis は終わりの時代、信仰にとって魂と霊の凌ぎ合いが最重要課題になると預言し、現在、まさに彼女の懸念の通りの状況となっています。


魂の潜在能力


神に似せて造られた人には予想以上の能力がありました。その能力は堕落後大半が魂の中に潜在化しましたが、なおも人が思い巡らす(meditating)ことはそのとおりになります(創世記十一・6 、原意)。かつては空想小説の中の物が今日ほとんど実現しています。

また旧ソ連などでは潜在能力(=超能力)を軍事目的に用いるため、パラサイコロジー(超心理学)が国家レベルで研究されました。魂の潜在能力はある種の訓練によって再活性化できます。ニューエイジ系のサイコセラピーや自己啓発は、この潜在能力(サイキック・パワー)を活かそうとします。このような試みは、自己にとってきわめて魅力的です。

しかし主イエスは言われます:「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を負ってついて来なさい。自分の魂(原語)を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分の魂を失う者は、それを救う。」(ルカ九・24など)。「十字架によって自己の魂を否むこと」、これがイエスに従う際の本質的なキーワードです。


魂的現象の特徴

@不安定性

霊の再生により霊の機能が戻ると、ある種の内的混乱が起きて来ます。魂的機能だけの内的経験に新しい機能が新たに加わるからです。救われた当初、やたらとアップダウンが激しくなったり、嗜好が変化したり、自分の内に"別の自分"がいるかのような経験に困惑したりといった多彩な内的経験をします。

初信者は「信仰によって歩もう」と努めたり、あるいは聖霊の「声」を聞こうと試みます。ところがどれが聖霊の声なのか判断できず、またできたと思っても誘惑が来たり、事実が自分の"信仰"に反したりすると、たちまち打ち倒されます。何度もこれを繰り返します。これは魂と霊が癒着しているためです。魂は肉体の五感や外界の影響をもろに受けます。しかも霊が弱いためにこの魂の状態がもろに内的経験に反映するのです。

この段階では御言葉も魂のレベル、特に知性で把握され、知識を増やすだけであり、その確信も魂的なものであって、目先の条件によって吹き舞わされます。神の息吹き(霊)である御言葉は、まず私たちの霊で受け取るべきです。霊で受けた神の言葉(ロゴス)は、ただちに聖霊によっていのちとされます(ヨハネ六・63)。私たちの内的生活は豊かに安定するでしょう。ここで魂と霊の分離が必要なのです。

A自己志向的動機

私たちは神への奉仕をなす強い欲求を覚え、いろいろなクリスチャン活動に携わります。しかしそれはしばしば魂に由来する場合が多いのです。その動機は自己にあります。すなわち自己実現あるは自己の栄光です。

このような場合における動機の純粋性は、魂と霊が分離されている時に担保されます。人の心の奥底まで知っているのは人の霊なのです(第一コリント二・11)。私たちの肉的な心はよろず偽ります(エレミヤ十七・9)。しかし神は私たちの心の奥深くを探ります(エレミヤ十七・10)。私たちが神の言葉に来る時、私たちの心はすべて明らかにされます(へブル四・12,13)。

B自己志向的愛

生まれつきの嗜好や愛情は霊の再生を受けた後も大きな問題を引き起こします。イエスは「誰でも私より父や母を愛する者は、私にふさわしくない」(マタイ十・37)と言われました。とても過激な言葉ですが、私たちの魂の性向を指摘しての発言です。

特にこの領域において私たちは魂を否むことを避けるのです。魂の自己保存欲求が顕著に働くのがこの領域です。罪とか短所については魂を喜んで否み、御霊のもたらす新しい性質で満たしていただきたいと願うのですが、この領域は一見罪的に見えないため、なかなか明け渡せません。

そこで御言葉という霊的メスをもって、聖霊による魂と霊の癒着分離手術が必要となります。このオペを受け魂と霊が分離されるならば、その愛情がきわめて自己中心的で不純な動機によるものか明確に見えます。また魂の自己志向的な愛ではなく、御霊による愛によって、愛することができるようになります。真の愛は魂の感情の領域に存在するのではありません。

C感情によるドライブ(煽り)

しばしば様々なミニストリーや奉仕は魂由来のものです。魂の動機、魂のビジョン、魂の方法、魂の扇情、魂の熱狂・・・、これらものがキリスト教会にも満ちています。こうして新しい"ムーヴメント"や"リバイバル"があちこちに散発しますが、永続するいのちの実を結ぶものはあまり多くありません。ここにサタンや悪霊も思いをチャネルとして、その"油"を注ぎ魂を煽ります。その"油塗られた"魂の潜在能力によって徴とか不思議もなし得ます。

それらの多くは魂の感情・情緒に訴えるものであり、見かけの熱狂的雰囲気によって、魂は一時的にエネルギーを注がれて興奮状態に入りますが、それは一過性のものであり、しばしば"燃え尽き症候群"に終わります。結果として人々が霊的アパシー(無気力)に陥り、霊的枯渇、内的乾燥、シラケなどの症状を呈するケースを私は数多く観察しています。これはカルト離脱者にも見られる精神病理です。


魂と霊の分離手術


以上の問題は魂と霊が分離されるときにクリアされます。そこで主は私たちが自分の魂を否むこと、また魂と霊の分離の必要性を訴えます:「神の言葉(ロゴス)は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」(へブル四・12)。私たちは体と魂の感覚の違いは容易に判断できます。しかし魂と霊の分離については、その相違を認識するためにはある程度の熟練が必要となります。

神の言葉(ロゴス)こそが、旧約の祭司が犠牲の動物の解体を行い、関節と骨髄をするどい刃物で切り分けたと同様に、私たちの心を露にし、魂と霊を切り分けるのです。その執刀医は聖霊です。聖霊が鋭い御言葉のメスを用いて内面の手術をして下さるのです。癒着した魂と霊の分離手術です。これが十字架の死の適用の本質的機能です。十字架は私たちの魂と霊を切り分ける手術場であり、自己の死刑執行場です。

そこでは私たちの内側はすべて解体されて、無残な状況を繰り広げます。その後に聖霊による復活の作業、霊における再建の作業が続きます。この"死と復活の原則"(後述)によって私たちの内面にはキリストの形が造られていくのです(ガラテヤ四・19、ローマ八・29)。その際、血も流れますし、悲惨な状況も展開しますが、イエスですら経られた過程であって、私たちも真に神に委ねていればいるほど、そのような御霊によるオペがなされます。

ただし安心して下さい。聖霊はオペの達人であり、オペは各人に適した最善の術式に従ってなされます。聖霊がミスをなさることは断じてあり得ません。安心して魂の名医である聖霊の御前に、あなたの全存在を横たえましょう。聖霊は神の愛と共に、私たちの心と思いを人知を超えた平安で満たし、なるべく痛みを感じないように麻酔さえもして下さるのです(ピリピ四・7)。

魂と霊が分離されるならば、私たちの内的状態は安定し、霊は強くなり(ルカ一・80、原語)、体や魂の状態がいかなるものであれ、つねに神の御臨在にあって、神を礼拝し、神を崇め、神に仕えるのです。魂は自ら機能するのではなく、霊に服するものとして、体と霊の媒介者としての創造当初のあり方に戻ります。サタンや悪霊も霊に服した魂にアクセスすることはできません。


真の魂の救い

こうして外界や他人や自分の感情に揺り動かされることなく、霊にある深い平安と安息、そして神の甘美な御臨在に常に浸ることができるのです。物理的にはこの世にいても、霊的には天においてイエスと共に神の右に座し、神の御臨在を楽しみ(エペソ一・3、二・6)、キリストにあって得た豊かな霊的嗣業を信仰によって実際的経験(実体化)として享受するのです。これが一旦失うことによって得る真の魂の救いです(マタイ十一・29、ヘブル六・19、ヤコブ一・20、第一ペテロ一・9、二・25)。


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