フルコンタクト・ゴスペルE

霊が活きる道―福音の直接体験―


霊の機能-直覚





(2)良心を守る(続き)

また私たちは良心を守るために、義の胸当てをつけましょう(エペソ六・14)。それは私の行いによる義ではなく、神の義です(ローマ三章)。信じる者に与えられる義です。罪は一人の違反によって人類に入りました(ローマ五・12)。同様に義も一人の人の従順によって私たちのうちに入ってくださるのです(第一コリント一・30)。こうして「すべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです」(ローマ五・18)。

私たちはアダムにあって生まれたので、アダムの罪を継承しました。しかしキリストと共に死んで復活することにより、キリストにあって、神の義を継承するのです。ポイントは「アダムにある」ことから「キリストにある」ことへの系統転換です。律法によらない、信仰の法則によって得られる神の義なのです(ローマ三・20,26,27)。

さて注意すべき点は、良心の状態は、私たちの知識と密接に関係していることです(第一コリント八・1)。以前は何ら問題でなかったことが、人から何かを聞いたとたんに気になり出し、確信が揺らぎ、不安に陥ることがあります。知識によって良心は容易に左右されます。強調すべき点は、良心を対処することはいのちの成長の度合いによって、人それぞれに御霊が主権をもってなさることで、人が一律に行なうべきことではありません。これは厳粛なことです。特に牧する立場にある者にとっては、一人の霊的いのちを殺すことも生かすこともできるのです。他人の良心の弱さを顧みるべきことを、パウロはローマ十四章、第一コリント八章で強調しています。


2.直覚

(1)直覚の機能

直覚とはいわゆる直感とは異なります。あえて言えば霊的直感と言えます。神がキリストにあってなされたことはすべて霊的領域の事実(真理)であって、その真理が私たちの心理的領域(魂)や物理的現象にも影響を及ぼすのです。目に見えない事柄が本当の存在であって、永遠のものなのです(第二コリント四・18)。

イエスを救い主として認めることができたのは、決して私たちの知性にはよりませんでした(第一コリント一・21)。実は私たちがイエスを神の子と知ったのは、御父の啓示であり、霊の直覚がそれを実体化したのです(マタイ十六・17)。

まず霊的事象はすべて私たちの霊に投影されます。これが啓示です。直覚とは御言葉と御霊が共に働いて、その内容を私たちの霊に実体化することです。あたかもカメラのフィルムに光が感光するときに、映像が焼付けられるのと同様です。ある波長領域の電磁波は、目によって、光として私たちの内で実体化されます。ある波長領域の空気の弾性波も、耳によって、音として私たちの内で実体化されます。同様に霊的現象は、私たちの霊によって、私たちの霊の中に実体化されます。目に見えない神のみわざのリアリティを知ることができるのも、知性を通してではなく、御霊が私たちの霊に対して霊的光を照射されるとき、それが実体化されるのです。これが信仰です(へブル十一・1)。

具体的に、御言葉を見ていきましょう。

「しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息吹きが人に悟りを与える」(ヨブ三十二・8)。「人の霊は神のともしびである。腹の奥底まで探る」(箴言二十・27)。「御言葉がひらけると光を放ち、無学な者に知恵を与える」(詩篇百十九・130)。

―御言葉は私たちの足の光、道のともしびですが(同105節)、この光とは霊的な光であって、知性のものではありません。なぜなら無学な者にも開かれるからです。イエスの十二使徒たちに一人もインテリはおりませんでした。彼らはみな霊的光を霊で受け取ったのです。次に各著者の魂の思いが観念化あるいは言語化し、それを表記したものが聖書なのです。聖書はすべて神の息吹き(霊)を得ております(第二テモテ三・16)。

「イエスは律法学者の思いをご自分の霊で見抜」かれました(マルコ二・8)。また「霊(原語)の中で深く嘆息」されました(マルコ八・12)。さらに「霊の憤りを覚えられ」(ヨハネ十一・33)、「霊の激動を感じ」られました(ヨハネ十三・21)。

―イエスはご自分が置かれた状況にあって、霊によって事態を把握されました。律法学者は自分の考えをすべて読み取られてしまい、イエスに対して歯軋りしたのです。霊は人の心の奥底にあることを探り、神のことを知ることができます(第一コリント二・11,12)。私たちも人間関係や環境において、まず霊によってアセスメントをなすべきです。霊は一瞬の内に人の心の動機や事態の本質を把握します。

「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかしして下さいます。」(ローマ八・16)。

―霊的真理(リアリティ)は御霊によって私たちの霊とともにあかし(実体化)されます。

「主の日に我は霊のうちにありき」(黙示録一・10、永井訳)。

―ヨハネは霊のうちでキリストの啓示を得たのです。現代にあっては、私たちが神から得る啓示は、まず御言葉を通してです。その御言葉が御霊によって、私たちの霊の内で光を放って実体化されると、私たちの信仰を形成します。また一見して御言葉をバイパスして得られる啓示も、御霊によるものであれば、決して書かれた御言葉と矛盾しません。この意味でパウロの言葉を聖書と照合していたベレヤ人のように(使徒行伝十七・11)、私たちも書かれた御言葉との照合を欠かしてはなりません。

「静かにささやく声が聞こえた」(列王記上十九・12)、「御霊が追いかけていくように言った」(使徒行伝八・29)、「彼らは御霊に動かされて」(同二十一・4)。

―個々の状況において、御霊の導きを受けることがあります。それはしばしば御霊の「示し」とか「促し」と言われます。時として知性が受け入れ難いものもあります。この御霊の意志を汲み取るのも、実は私たちの霊なのです。理由は分からないけれど、神が自分に対して明確に語ったと分かるのです。

先に述べた信仰と希望の違いもここにあります。希望は魂に由来します。信仰は霊に由来します。霊の内で御霊が語れば、それは必ずなります。神はすべてことば(レーマ)によってわざをなされます。霊はその御霊の語りかけを受ける器官と言えます。私たちの人生はすべてこの神の語りかけによって導かれるのです。それはとにかく分かるのです、"I know that I know." これがすでに述べた"御霊の内的確証 (Inner Witness of the Spirit)"です。

霊はいわば鏡のようなものです。人の心、事態の本質、御霊の声がそこに投影されるのです。それはきわめてクリアな経験であり、それを得るならば決して信仰が揺らぐことはありません。信仰とはその事実の表明だからです。嵐の中でもなく、地震の中でもなく、火の中でもなく、静かにささやく声として御霊は語られるのです。


(2)直覚を磨く

私たちは霊で事の本質を把握し、霊で神の声を聞き、霊で神の導きを受けるために、霊の直覚を鋭くすべきです。曇った鏡と磨かれた鏡が向かい合うとき、どちらがどちらに映るかは明白です。それと同様にイエスの前に立つ人の心の状態もみなイエスの霊に映ってしまうのです。

そのために最も重要な条件は、自己に死んでいることです。私たちは自分の環境とか人間関係において、自己が生きているとき、自己のフィルターを通すために、私たちの内に映る像が歪みます。その像に対して思いや感情が反応し、意志が判断を下し、結果として問題をさらにこじらせるのです。第一に必要なことはキリストと共なる自己の死です。死は素晴らしい安息をもたらし、その平安の中で御霊の声が私たちの霊に響くのです。エリヤもそうでした。その声は私たちの魂の思いによって観念化され、さらに言語化されます。

もう一点は御言葉の蓄積です。神と人の関係のために必要な啓示が、聖書という形で完成されている現在、御霊が私たちに語りかけるときには、まず御言葉を通してです。御言葉を豊かに住まわせれば、住まわせるほど、神の声を聞くことができるようになり、ますます御旨が明らかにされてきます(コロサイ三・16)。

そして何よりも御霊が御言葉と共に働いて下さることを求めることです。このとき神が知恵と啓示の霊を与えてくださり、私たちの心の目を開いて、神の御旨と御計画を明らかにして下さるのです(エペソ一・17,18)。


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