フルコンタクト・ゴスペルC

霊が活きる道―福音の直接体験―


信仰の本質(2)






信仰は神の真実に安息する

神の約束のことばが実現に至るのは、私たちの徳とか状態によるのではなく、一方的な神のいさおしによります。神は聖であり、義であり、愛であるから、そのことばを守られるのです。私たちの状態がどうであれ、まず神の神たることによって、神はご自分の言葉をおとしめられないのです。私たちの不真実が神の真実を変えることはありませんし、むしろすべての人を偽りとしても神を真実とするべきです(ローマ三・3,4)。これは素晴らしい真理です。

私たちはしばしば自分を見て、神の顧みに値しないと勝手に落ち込むことがあります。一見謙遜に見えますが、実はこのような態度は不遜です。それは自分の何かを当てにする態度であり、裏を返せば、神の何かを当てにしていないことを意味します。神は愛だから愛して下さり、真実だから約束を守られ、義だから赦して下さり、癒し主だから癒して下さり、備え主だから必要を満たして下さるのです。このことを真に知ることは解放です。

すでに真の至聖所に至る道を、イエスはご自分の肉体を裂くことにより開いて下さっています(ヘブル九・12)。ですから私たちはその血潮によって、憚ることなく大胆に恵みの座に触れることができるのです(ヘブル四・16)。しかも神は単に約束にとどめずに、あえて契約として御子の尊い血によって批准され(ヘブル七・22、九章)、その証印・保証として聖霊をくださったのです(エペソ一・13,14)。今や信じる者は自分のわざを止めて、安息に入ることができるのです(ヘブル四・3,10)。それはヨシュアとカレブと同様に、霊的な良き地に入ることであり、ただ信仰によるのです(ヘブル三・19)。


信仰は"I AM"なる方の実体化

聖書に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いて下さる方であることを信じなければなりません。」(ヘブル十一・6)とあります。ここで「神がおられる」と訳されている言葉は、「存在する・しない」の「おられる」ではなく、神が神たる方であること、すなわち神のアイデンティティーそのものを意味します。出エジプト記で、神はご自身を、「わたしは『わたしはある』という者である(I AM WHAT I AM)」としてモーセに啓示されました(三・14)。

ヨハネ福音書において、イエスもまた「アブラハムが生まれる前から『わたしはある(I AM)』」と言われ、また捕縛される夜、「ナザレ人イエスを」と問われ、「わたしはある(I AM)」と答えると(ヨハネ十八・5-8、原語)、人々はその権威により倒れました。全宇宙を創造された神は、「わたしはある(I AM)」、あるいは「わたしはありてある者(I AM WHAT I AM)」です。神こそ究極の「AM=存在(ある)」なのです。

信仰とはその「ある」の実体化です(ヘブル十一・1)。不信仰とはその「ある」を実体化し損なうことです。イエスは「もしあなたがたが、『わたしがある』を信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(ヨハネ八・24)と言われました。

そこでサタンの誘惑の本質は、私たちを何かの不正な行為に導くのではなく、「ある」方を否定することに誘うのです。ですから、たとえ私たちの行為そのものが一見善であっても、その「ある」を否定するならば、それは罪なのです。罪とはいわゆる「善と悪」の基準で判断されるべきではありません。アダムとエバは「善と悪」を知ることが罪であったのです。「ある」方とそのことばは一つです。人格とそのことばを切り離すことはできません。アダムとエバはその「ある」方のことばを否むことによって、実は「ある」方ご自身を否定してしまったのです。これが罪です。

よって聖書では「すべて信仰によらないものは罪である」(ローマ十四・23)と宣言します。「信仰によらない」とは「I AM」である神ご自身を否定することだからです。これがサタンの最も喜ぶところです。これこそサタンのしわざの動機の本質です。

すなわち罪とは個々の私たちの行為というよりは、「信じないこと」そのものなのです。個々の罪はその結果(実)にすぎません。反対に義とは「信じること」そのものなのです(ローマ三・22,26,28)。信じるとき義なる「ある」方が私の義となります(第一コリント一・30)。個々の義の行為はやはりその結果(実)なのです。

私たちが「信じない」のは、私たちが「自分のうちにある」ことであり、「信じる」のは私たちが「キリストのうちにある」ことです。すなわちサタンの誘惑手段の本質は、私たちをキリストから引きずり出すことです。


信仰の到達点は受肉の奥義

私たちは神に似せて造られました。神は霊ですが、ご自分の思い、感情、意志をお持ちです。神格には御父、御子、御霊の三つのパースンがおられます。それぞれが区別されるパースンですが、本質は一つであり、その間には何らの不調和や葛藤がありません。これは奥義であり、私たちの知性のフレームを逸脱します。

この第二格位の神のロゴスである御子が人として幕屋を張られました(ヨハネ一・14、原語)。この人なる方の魂において、霊なる神の思い・意志・感情が具体的に形を取ったのです(コロサイ一・19、二・9)。これこそ肉にあって現れた神、偉大なる敬虔の奥義です(第一テモテ三・16)。

イエスは言われます、

「わたしを見た者は父を見た、わたしは父におり、父もわたしにおられる・・・わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられる」(ヨハネ十四・9-11,20)。

「わたしと父とは一つです」(同十・30)。

「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らが一つとなるためです・・・わたしたちが一つであるように、彼らも一つとなるためです」(同十七・22,23)。

これは何のためでしょう。哀れな罪人である私たちを救うためでしょうか?もちろんそうです。しかし神の意図はそこに留まりません。神は私たちと深い関係を持つことを願っておられます。私たちをご自分の伴侶として選ばれたのです。私たちはキリストの花嫁として嫁ぐのです(第二コリント十一・2)

御子が人性を取られたことにより、御父、御子、御霊の三位間の愛といのちの交わりに、私たちも御子の人性を通して与ることができるのです(ヨハネ十四・20,23、十五・9-11、第一コリント六・17、第一テモテニ・5、第一ヨハネ一・3、四・13)。これは素晴らしい祝福です。

イエスは言われます、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。・・・わたしが父の愛の中にとどまっているのと同じです。・・・わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」(ヨハネ十五・9-11)。

ここにはいつかのポイントがあります。@父がイエスを愛したと同様に、イエスは私たちを愛していること、Aイエスが御父の愛に留まったと同じように、私たちもイエスの愛に留まること、Bイエスの内にあった喜びが私たちの内にも満ちること。考えて下さい。御父とイエスは完全に一つでした。完全なる愛の交わりにあったのです。その御父とイエスの愛の関係とイエスの喜びが私たちのものとなるのです!

私たちはイエスの死と復活につながれていることをすでに述べました(ローマ六・5)。パウロはその客観的事実を、自分の経験にすることを追及していました(ピリピ三・10,11)。それは信仰によって、私たちが真のブドウの木であるイエスのうちに住む(原語)ことです(ヨハネ十五・5)。愛といのちの樹液がつねに私たちの霊に注がれるのです(ローマ十一・17)。イエスは御父におられ、御父もイエスにおられます。愛といのちの関係において相互に住み合っていたのです。その真理を御霊が私たちのうちでインナー・リアリティにして下さるのです。神と人が愛といのちの関係において共に住まうこと、これこそ受肉の究極の奥義であり、信仰はこれを私たちの内で実体化します。

この時イエスの内的経験が私たちの霊と魂でも追体験されるのです。すなわち人性において私たちは神の御性質に与り(第二ペテロ一・4)、その内なる光が輝き出るのです(第二コリント三・18)。旧約で至聖所に御臨在し、幕屋・神殿に留まったシェキナの栄光が、新約では私たちの霊に御臨在され、燭台である教会に留まるのです。


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