ダイレクト・カウンセリングC

糸口は福音を聞くこと



前回まではいわば総論でしたが、今回から各論に入ります。第一に信仰について:解放への糸口は聞いて信じることによります。第二に真理について:信じることにより真理を適用します。第三に戦いについて:キリストが得て下さった自由を死守するためには、霊的な敵に対して立つ必要があります。以上の3つのテーマで順にお話します。


経験は信仰から、信仰は聞くことから

解決への糸口は信仰によって福音を聞くことから得られます。

私たちはイエス・キリストの十字架においてイエスと共に死に、イエスと共に復活することにより(ローマ六・3、4)、罪から解かれ(同・6)、律法からも解放されています(七・4)。その結果、罪の赦し、病のいやし、あらゆる必要の満たし、さらに様々な局面におけるトラブルの解決も実はすでに与えられています。エデンの園で失った嗣業は十字架と血潮によって再び獲得されています。したがってこれから一念発起して自分の奮闘努力する必要はありません。十字架上で神がなして下さった霊的事実がすでにあるのですから、それを適用するのです。

それにはまず信仰が必要です。信仰は神の言葉を聞くことから生まれます(ローマ十・17)。あらゆる問題の解決の糸口は、神が完成された霊的事実を聞くことによって得られます。信仰は目で見て証明することではなく、目で見ていないことの確証です(へブル十一:1)。Darby訳では「substanciating」としており、意味は「実体化すること」です。すなわち、信仰とは目に見えない霊的事実を実体化することです。むしろ目で見ることは、エバが善悪知識の木の実を見て罪を犯したように、誘惑に陥りやすいのです。

そして信仰が生まれると経験が伴います。キリストが十字架上でなして下さった客観的事実を実際に主観的に経験するわけです。すると感謝と賛美に満ち、ますます霊的事実を知りたくなり、教会の交わりの中にもとどまり、信仰はさらに強くなっていきます。そして再び経験が伴うというようにプラスの循環が始まります。

このとき復活のいのちがますます満ちあふれ、証にも力が伴います。これがクリスチャンのあるべき状態です。これが逆回転しますと、信仰はしぼむ、経験は伴わない、自分でもがいて泥沼にはまるという悪循環に落ち込みます。これが「苦しチャン」の状態です。そうならないために、プラスの循環に、行いではなく、信仰によって入り込みましょう。そのきっかけが「キリストの言葉を聞く」ことなのです。

こうして回復が始まります。ただし回復にも順序があります。まず霊が回復され、次に魂、最後に体です。この順序を覚えておいてください。霊の再生については、ヨハネの福音書の御言葉「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(三・6)とあるように、キリストを信じた時点ですでに再生されました。魂の贖いは、ガラテヤ書の御言葉「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」(四・19)とあるように、御霊によって徐々に回復され、キリストの形が造られていきます。体についてはキリストの再臨の時に瞬時にして霊の体に変えられます(1テサロニケ四・16)。これが霊・魂・体のための全福音です。


ネヘミヤ記に見る御霊の働き

私たちの霊はすでに完全にされています。それでは魂の回復はどうなのでしょうか。この点についてネヘミヤ記から見ていきたいと思います。

BC一〇〇〇年頃にイスラエル国家は建設され、ダビデとソロモンの時代に全盛期を迎えました。ところが、ソロモンの死後、王国は北と南に分裂し、北王国はBC七二一年にアッシリヤによって滅び、南王国であるユダ王国もBC五八六年にバビロンによって滅ぼされました。その結果、全てのものが崩され、何も残らないほどに国土は荒廃してしまいました。そのときエレミヤは「七〇年後に神殿は再建される」と預言したのです。

その後バビロンが滅び、ペルシャの時代に入ると、キュロス王がユダヤ人に「自分の国に戻って神殿を再建せよ」という命令を出しました。BC五三八年のことです。そして、神殿はBC五一六年、ゼルバベルのもとで完成しました。実にバビロン捕囚から七〇年後のことであり、エレミヤの預言はぴたりと当たったわけです。

神殿とは神がご臨在する場所、シェキナの栄光の留まる場所です。神殿自体も至聖所、聖所、外庭の3部分からなりますが、ネヘミヤ記における予型論的に見ると、神殿は人の霊と対応しています。つまり霊は神を意識する座なのです。この人間の霊の部分にあたる神殿は歴史的にも比較的短期間で建て直されました。

ところがネヘミヤはエルサレムの城壁が崩れたままであることを嘆きました。城壁が崩れていては、せっかく完成した神殿も敵からの攻撃にさらされたままです。国家としても不完全な状態です。同様に私たちの霊は瞬間的に再生されても、依然として魂は崩れたままです。ぼろぼろであちこち穴が開いており、問題は山積み状態です。ここにサタンがつけこんで、罪定めの非難・中傷によって働いてきます。

ネヘミヤはこの城壁の再建を始めました。ここでネヘミヤという名前に注目してください。ネヘミヤとはヘブル語で「神(の霊)の慰め」、あるいは「神は慰めた」という意味です。

では私たちの魂を再建して下さる真のネヘミヤとは誰でしょうか。それは神の慰め主である御霊です(ヨハネ十四・16)。人ではありません。御霊が直接働いて下さるのです。イエスも十字架につく前の晩、「わたしが去っていくことはあなたがたにとって益である。そうすれば、別の助け主を送る」とおっしゃいました。助け主とはギリシャ語で、弁護者あるいは慰め主という意味です。御霊は私たちの霊に住まい、ネヘミヤと同様に城壁(魂)の再建をして下さるのです。御霊の第一義的な機能は、イエスの言葉とわざ、さらにイエスのパースンを私たちの内で証しし、実体化することです(ヨハネ十六章)。これをただ信じましょう。

そしてその外側に城壁と神殿をおさめている国土があります。これが人間の体と対応しています。体の贖いはイエスの再臨と共に行われます。(参考文献:Jack Hayford, Rebuilding The Real You, Regal Books)


精神は言葉から構成される

さて、ここで少し心理学あるいは精神医学の一般的知識をおさらいしておきます。

クリスチャンになる以前の私たちは、神から分離されたため、神の言葉を聞くことなく、周りの家族や教師や友人などから様々な言葉を聞いてきました。ある言葉によって傷ついたこともあるでしょう。また中にはサタンの偽りの言葉もありました。それらによって私たちの古い人は形成されたのです。

さらに、私たちの魂(知・情・意)には意識できる領域と無意識の領域があり、これまで生きてきた過程での情緒経験がコンプレックスという形で無意識の領域に沈み込んでいます。よく氷山で喩えられますが、意識できる領域はほんの一部に過ぎません。これを発見したのは有名なフロイトというユダヤ人です。人間理解のためのかなり革命的な理論ではありますが、人を救うことはできません。

元々コンプレックスとは劣等感という意味ではなく、ある情緒経験とそのときの観念あるいは言葉が縺れ合った「感情観念複合体」という意味です。聖書的に見ると、さらに怒り・嫉み・憎悪などの霊が複合しており、「霊・感情観念複合体」と言うべきものです。

このコンプレックスにはある種の精神的エネルギーが溜まっています。つまり私たちは無意識の領域にエネルギーを抑圧していることになり、地震と同じように時々溜まったエネルギーが意識の領域に噴き出してきます。時にはヒステリーという症状で体に現れてきて、器質的には何の異常もないのに歩けなくなったり、言葉が出なくなるのです。このような魂におけるエネルギーの制御と分配の力動的メカニズムが、ある意味において私たちのパーソナリティを構成しています。もっとも単純に言えば、私たちは言葉からできているのです。生育環境において聞いてきた言葉がいわば受肉化しているわけです。

このように私たちのパーソナリティは魂の領域における意識と無意識で構成されています。ところが神から分離されていた時代に形成されたその「私」の価値観や世界観、さらに自己像は、しばしば歪曲されており、時にまったくの偽りです。その歪曲されたイメージを信じて行動するときに、思い通りの結果をもたらさず、フラストレーションに陥り、不安や緊張、抑鬱、時には精神身体症状、あるいは劣等感や自己疎外感などの葛藤(=実)が生じるわけです。このような「私」のあり方が、パウロの言う肉です。

さらにすでにお話しましたように、そういった症状自体を取り除こうと必死になるとますます混乱します。なぜならそれは間違ったことを信じて行った実に過ぎないからです。結果を取り扱うのではなく、それを生んだ精神構造、すなわち価値観や世界観、さらに思考・行動パタンなどの生き方そのものを、真理に適合する形へと根本的に変える必要があるのです。


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