ダイナミック・フリーダムE

―キリストにある自由の獲得―


反抗心とプライド

を対処する(1)





■一、魂の特徴―自己完結的独立性

私たちの魂の本能は自己主張と自己保存にあります。罪によって霊が神に対して死んだ結果、自分の生存を担保するために、私たちは魂(思い・感情・意志)を異常なまでに肥大化し、ある人は知性に頼り、ある人は豊かな感情によって、ある人は強い意志によって、さらにそれらの混合によって生きているのです。そのスペクトルが人のパーソナリティと言えます。よって魂の内部と肉は取り繕い(自己防衛機制)によって複雑に錯綜しています。

この魂には霊―感情観念複合体として、膨大なエネルギーが蓄積されてます。世の人々は、否、ほとんどのクリスチャンも、生きるための、また奉仕するためのエネルギーを、霊からではなくこの魂から汲み出しているのです。つねに注意のベクトルは自己に向いており、私は、私が、私の・・・がすべての動機です。

このように魂の基本的性向は神から見れば"独立性"であり、私たちにあっては"自己完結性"です。私も自分の知性には相当に自信がありました。しかしある日その知性による生き方が破綻したのです。その時ようやく主イエスを受け入れました。しかし現在でもしばしばその過去の生き方の痕跡が疼くのです。知性を用いてあらゆることを自分の思い通りに処理してしまいたい、という強い欲求が込み上げることを否定できません。クリスチャンのほとんどの問題は、このように御霊から独立して自己においてすべてを処理しようとすることにあります。私たちの問題の本質は能力がないことではなく、あり過ぎることなのです!

こうして私たちは事がうまく行くと自己に栄光を帰し、功績にプライドを置き、さらに自分のアイデンティティまでも建てます。うまく行かないと自分や他人の責に帰して、不遇を囲います。しかし実はどちらも神から見れば同じです。いずれも魂の領域での"取り繕い"に過ぎません。

第一義的に自己の資源に頼ることは、ただちに神に対する反抗であり、それは偶像礼拝の罪に匹敵します。なぜなら御言葉は「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ十五・5)と言い、また「まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。」(第一サムエル十五・23)と宣言するからです。さらに自己の達成にプライドを置くことは、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言十六・18)ことの兆候です。

ここでも主の、十字架を負って、自分の魂を否みなさい(ルカ九・23,24)という言葉が重く響きます。魂は霊から独立してはならないのです。肉の思いは、それが人間的には善であれ、神に対して反抗するものだからです(ローマ八・7)。


■二、反抗の本質


(1)魂の独立性

まず注意すべきは、見かけが"柔和"とか"腰が低い"あるいは"謙遜である"などの外観に欺かれてはなりません。私の経験では人間的に見て、外見がとてもソフトタッチで、一見腰が低く、遜っている人において、実は内側深くにきわめて強固なプライドを隠し持っている場合が多いのです。

そのような部分は他人からの干渉のみでなく、御霊の十字架のタッチをも拒んでいる領域であり、外観の柔和さの陰で、自己が息づいているのです。そこはアンタッチャブルな領域であり、一旦そこに触れるならば、直ちに弾き返されてしまう経験を何度もしています。

神の目から見て、ある罪を犯すことが反抗なのではなく、神の言葉と御霊に頼らないこと、魂が霊から独立して機能すること、これ自体がすでに反抗なのです。神の基準による反抗とは、御霊と御言葉からの独立です。また魂や体の必要を、神に頼らないで自ら満たそうとする試みそれ自体です。

魂が独立するときの兆候として、次のような点が観察されます:

@主観的傾向:物事の判断がきわめて一面的で、主観的です。色眼鏡をかけているために物の見方にバイアスがあります。誰にもそのようなバイアスは必ずありますが、それに気がつかず、自己の内に理想世界を構築しており、それに基づいた自分の判断を絶対的に主張します。

A性急性:ものの判断においても、その実行においても性急です。観察や待つことができないのです。よって内的には焦燥感で急かされます。

B外と内の乖離:外面の表現と内面の真実が乖離します。これは取り繕いの存在を証明します。笑顔にもどこか不自然さが残り、顔は笑っていても目が笑っていません。単に役割(ペルソナ)を通してのみその人を知り得るのであって、その人そのものに触れません。

C自己防衛的姿勢:人の話を淡々と聞くことができず、何かにつけコメントしたり、言い訳や弁明が出てます。人の言葉の一つひとつが”引っかかり”となります。これはすでに述べた自己防衛、すなわち自己欺瞞が存在する証拠です。

D攻撃性:Cの姿勢が強固になり、ついには攻撃性が出ます。

E権威の否定:あらゆる自分以外の権威を否定し、他のリーダーシップに服することができません。むしろ自分がリーダーとなりたがります。

(2)御体に対するダメージ

以上のような兆候がありますと、キリストにある兄弟姉妹としてのいのちを共有する裸の交わりができなくなります。内と外が乖離している人は他人をも信じない人です。この時、いわゆる牧する立場にある者は、人々をコントロールしようとします。意識上はそうでなくても、無意識的に、巧妙に人々を支配します。しばしば"牧会"という名目で、マニュピレーション(人為的操作誘導)が観察されます。カルトではマインドコントロールを伴って、さらに顕著な形でなされます。

逆に牧される立場にある者は、つねに自分の上の権威に服することができず、絶えず抵抗する疼きを覚えます。聖書は自分のリーダーを覚えるように語りますが(ヘブル十三・7-8)、平安と安息にあって服することができません。特に牧会の場面やカルトなどで傷を受けた経験がありますと、この傾向が顕著になります。

このような時は御霊の油塗りも滞り、肢体の相互関係において安息を失い、葛藤が生じます。御霊の油塗りは、適切な権威の下にあって互いの"ひとつ"があるところに滴るのですが(詩篇百三十三篇)、肢体相互間の軋轢により、この油の滴りが止まります。この時、それまで潜在化してきた嫉妬・妬み・競合などの肉的要素が露になって、問題が顕在化します。キリスト教会のほとんどの問題はこのような機序で発生します。

識別のポイントは、真の権威は神の権威(=御言葉)に服することから生じ、服している人ほど権威を帯びます(第一ペテロ五・6-7)。服している人の特徴は平安と安息に留まっていることです。それ以外の権威(人間的組織や特定の神学など)を根拠として主張する場合は、多分に人を支配しようとする霊に動機付けられています。彼らは深い部分での安息が欠如しています。私たちは堅く真理に服すると同時に、”変わった教え”を排除し(ヘブル十三・9)、そのような束縛の霊の影響から離れるべきです。

もし聞いた言葉によって不安や恐れや焦りを覚える場合は、ただちにイエスの血によって拒否して下さい。御霊に息吹かれた教えであれば、私たちの内なる油がアーメンをもって応えますから(第一ヨハネ二・27)、必ず平安と安息、解放感、そしていのちの感覚を覚えます(ヨハネ六・63)。

今日いわゆる正統派のキリスト教会においても、しばしば人間由来の伝統や教えによって、純粋な神の言葉が無とされている場面が多々観察されます(マタイ十五・6、マルコ七・13)。その一方で、人間的束縛を壊すために"御霊の自由"を強調して、キリストのパースンにふさわしくない"御霊の現れ"を無批判に受け入れてしまい、御言葉に基づいた確固たる霊的照準を見失っている人々がおります。



mbgy_a05.gif