リバイバル新聞・谷口氏との対談

「ダイレクト・カウンセリング」とは



2000/11/10


―カウンセリングや精神医療に対して、これまでどのように関わってこられたかを教えていただけますか。

もともと私が博士号を取ったのは神経症の研究においてです。これはセキュラーな学界での仕事です。クリスチャン・カウンセリングとして意識し始めたのは最近のことですし、ミニストリーとして始めたのはごく最近のことです。それまで聖書の真理といわゆる精神科学の知見との整合を取ることに時間がかかりました。


―クリスチャンではない一般の方に対するカウンセリングをやってこられたということですね。

はい。プライベートな形ですが。しかし一般のカウンセリングというのは本当に大変なことです。人間が人間に対して援助を与えるわけですから、限界があります。いろいろなセラピーがあるわけですが、10人の学者がいれば、10通りの理論があり、10のセラピーが生じます。一定の術式がない、それがこの業界です。ある意味でごった煮状態と言えます。

そういう中で私自身、一般のセラピーに限界があることを早くから気付いていました。そして、カウンセリングの中でどう御言葉を適用していくのか、しばらく模索していました。


―現在、教会の中でもフロイトやロジャースといった一般の学界で生まれた理論を使いながらカウンセリングをするケースもあり、インナーヒーリングなどという分野も生まれてきました。教会の中もごった煮状態と思うのですが、どう分析されますか。

現在、教会でなされているカウンセリングは、一般の世界で行われているカウンセリングよりも10年遅れていると言えます。例えば「精神分析」にしましても、その先進国米国でも、理論としては面白くても、実際にセラピーとしては使えないという評価がでてきつつあります。アメリカなどでは精神分析医が死活問題に直面していますね。そして、むしろ東洋の神秘思想とかニューエイジを採り入れ始めています。しかし、今の日本の教会は、御言葉をそっちのけにしてすでに限界が見えている精神分析に走っています。


―日本の教会では、クライアント(相談者・患者)の存在や発言を「受容する」「受け入れてあげる」ということばかりが強調されているように感じますが。

そうなんですよ。「受容」という言葉になっていますが、あれはある意味で非常に危険なんです。というのは、本人も迷いの中にありますよね。迷いの中にあるものを全て吐き出す、そしてそれを受け止める、という過程の中で、相手の訴えに「アーメン」をしてしまうのです。これは相手の間違った「信仰」を固めてしまうことになります。相手の訴えに「アーメン」をしてしまって、「御言葉で何と言っているか」ということが出てきません。本当の結論が出ませんから、同じところをるぐるぐる回ってしまうのです。


―カウンセリングをする側の牧師などに対して依存してくる場合も多々ありますよね。夜中にでも電話をしてくるとか。

いわゆる不健全なボンデッジ(束縛と依存の関係)ができてしまうのです。クライアントとカウンセラーの関係において、その人がいないと夜昼明けないと言う状態です。一番健全なのは、イエスさまにボンデッジした状態ですが、それが人にすり替わり、カウンセラー自身もそれを引き受けてしまって、手放す勇気がないんですね。クライアントを「ポン」と突き放す勇気がない。クライエントだけでなく、カウンセラーの方も相互依存関係に陥ってしまうのです。


―カウンセラーとクライアントの間に、恋愛感情に似た変な感情が生じてしまうことも多いと聞きますが。

精神分析の言葉では「陽転移」という言い方をしますが、非常に取り扱いが困難なものです。逆の反応を「陰転移」と言います。例えば女性のクライアントが過去に父親に対して抱いていた感情があって、それを父親が受け止めてくれなかった場合、その溜まった無意識レベルの感情を男性カウンセラーに向けてしまうのです。この場合、充分に訓練を受けていなカウンセラーだと、その愛情表現を自分に向けられているものだと錯覚してしまいます。それに誘惑もありますから、簡単にその情緒的もつれに巻き込まれてしまいますね。

欧米では5年から10年、カウンセラー自身が自ら患者として分析をしてもらいます。これを教育分析と言います。私の知っているユング派の方は、東大医学部を出てイギリスで七年間の教育分析を受け、その後やっと開業しています。教会の中では、これほどの訓練を受けず、少し学んだ程度でカウンセリングをしてしまいますから、異性間のトラブルも生じてくるのです。


―神学校やちょっとした学校で学んだ程度ではできないということですね。

カウンセリングとは、その人の人格と人生を一時期にせよ引き受けるわけですから、大変なことなんです。それは人にはできないですよ。そのことを知れば知るほど、したくなくなります(笑)。人が人をまともに引き受けたら両方とも潰れます。ちょっとかじった人が危ないんですね。見ていてハラハラしますよ。教会の中でカウンセリングという言葉があまりにも軽く使われ、誰でもカウンセラーになれるような雰囲気があるように感じます。


―では、現在提唱しておられるダイレクト・カウンセリングがどのようにして生まれてきたのか、教えていただけますか。

この言葉は元々私の師である英国のColin Urquhart (Kingdom Faith Minitries)が提唱したものです。簡単に言いますと「福音」なんです。イエスの十字架の御業の適用であって、何ら特別なものではありません。特にローマ書の七章から八章に出てくるパウロの葛藤と解放ですね。パウロは七章で、「私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」と言っています。この葛藤というのは精神病理の言葉で「精神交互作用」と言います。つまり、何かを自分の意志でしようとするとできなくなる、という状態。不眠症、対人恐怖症なんかもこれに入ります。パウロは自分の経験からこれが分かっていたのです。アウグスチヌスも『告白』の中で言っています。「魂が体に命じるとき、体は言うことを聞いて動く。ところが魂が魂に命じると途端にできなくなってしまう」。聖くなろうとか罪を犯すまいとすればするほど、かえって犯してしまうという状態で、クリスチャンなら誰でも経験しているんじゃないでしょうか。


―ローマ書の7章から8章に入り込むというのがダイレクト・カウンセリングの神髄と言えるわけですね。

そうです。7章というのは数えていただくと分かると思いますが、「私は・・・」という言葉ばかりなんですね。それに対して8章では「御霊は・・・」という言葉ばかりです。何故か。パウロはここで、7章と8章の間に「飛び越し」をやっているのです。がんじがらめになっていた彼が、8章で一気に解放されているんです。聖霊の光の下での「古い人」、「内住の罪」、「肉」の相互関係の分析によって、パウロは罪からの解放の問題を非常にクリアに解いています。そのことを知ることによってもかなりの葛藤が解かれてしまいます。


―クリスチャンで、この「飛び越し」ができていない人もいるということですか。

はい。自分で自分の髪を引っ張って飛ぼうとしている状態の人が多いと思います。クリスチャンになって始めは、罪赦されたという喜びがあります。ところが、救われて後、どのように歩んで良いかが分からなくなるクリスチャンも多いと思います。そこでカッコウだけ取り繕ってしまうのです。

ローマ書6章6節には「私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられた」と書いてあり、ガラテヤ書2章20節には、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」とあります。しかし、これが経験的にできない状態にあります。何故か。それは「肉」があるからです。私たちの肢体には「内住の罪」もいぜんとしてあります。

救われる以前は「内住の罪」に「古い私」がそのまま従い、この体を使って行為としての罪を犯していました。そして救われたときに、「古い私」が殺され、「内住の罪」はそのままにされました。つまり、「内住の罪」と「からだ」を結びつけていた媒介者(古い私)がいなくなってしまったわけです。つまり、「からだ」は失業状態になってしまったわけです(ロマ6:6)。しかし私たちの脳の中に、古い私の生き方のパターンが焼き込まれています。この脳はあくまでもハードウェアで「からだ」ですが、そこに乗っていた「古い私」というソフトウェアが無くなってしまった。しかし、そのハードウェアである脳に、古いパターンが焼き込まれているという状態です。この古いパターンを聖書では「肉」と言います。私たちにはすでに新しいソフトウェアである内住のキリストが与えられていますが、このパターンが新しい生き方を邪魔するわけです。これがガラテヤ書にある肉と霊の葛藤です。


―もう少し具体的に言っていただけますでしょうか。

例えばお金がなくて生活に困っているとします。今までの古いパターンだと「自分で何とかしようとして焦る」わけです。しかし御言葉には「神が満たしてくださる」とあるわけですから、信仰によって安息できます。ここに自由意志があってどっちを選択するかが問われます。肉に従って焦るのか、御霊に従って安息するのか、これがあらゆる日常の場面で問われるわけです。これを何度か繰り返すうちに、古いパターンが新しいパターンに置き換わっていきます。これが、心理学用語で言えば「再条件付け(reconditioning)」、神学的に言うと「聖化」です。御霊に従ってイエスさまの生き方が私たちの魂の領域で追体験され、再条件付けされていくわけですね。キリストの形ができてくるのです(ガラ4:19)。これには御霊に従うという訓練が必要になってきます。


―御霊にゆだねるという場合、往々にして何もしない状態をイメージしてしまいますが、それは間違っていると思いますか。

クリスチャンにとって、魂の機能である思い、意志、感情の機能を停止してしまう状態、すなわち受動性の状態はひじょうに危険です。悪霊が最も働きやすい状態です。私たちが自分の意志を用いて御言葉に積極的に関わる姿勢を放棄し、特に意志と思いをアイドリング状態にしたときに、いろんな想いやファンタジーが入ってきます。これで混乱する人が非常に多いんです。ゆだねるというのは、積極的に御霊と御言葉に関わっていく状態です。自分の自由意志を用いて、古い生き方のパターンをやめて新しいパターンに関わっていかなければならないわけです。


―特にペンテコステ・カリスマ派の中で強調されることに、霊的な感覚とか、預言、幻などがありますが、これらを受けるときに必要なことはなんだと思われますか。

神と人の関係に必要にして十分な啓示が与えられている現在、客観的な神の言葉である聖書による吟味が絶対に必要だと思います。「声を聞いた」という場合、それが聖霊の声なのかどうなのか、微妙な部分があります。まず言えることは、預言や幻は絶対に御言葉に矛盾しないと言うことです。私が知っているケースでは、「今の奥さんと離婚し、A姉妹と結婚しろ」と言う聖霊の声を聞いた、と主張する人がいました。これは聖書と矛盾していますから聖霊の声とは言えません。現在、客観的に検証できる聖書が与えられているわけですから、聖書によって吟味することが絶対的に必要ですね。


―では、ダイレクト・カウンセリングでは具体的にどうアプローチするわけですか。

クライアントに対して、御言葉と御霊が同時に働いてくださるようにと、働きかけます。御霊をこっちに置いて、聖書の言葉だけを提示しますと単なる聖書研究になってしまいます。御言葉と御霊が同時に働くときに、その御言葉は「いのち」になります。イエスさまは「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」と言っておられますが、ここで言う「ことば」はギリシャ語のレーマです。ロゴスは、客観的に何かを説明するものですが、そのロゴスであられるお方が、100%真理である方が語ったわけです。その語ったことばがレーマ、霊であり、いのちなんです。このことば(レーマ)に触れるときに、人の魂が回復し、整理されてくるのです。

そして大切なことは、カウンセラーが御言葉に癒す力があるという確信と信仰を真に持って語ることです。クライアントに御言葉を語るときに、そこに霊を乗せて語るんです。その時<ロゴス+信仰=レーマ=霊=いのち>となり、そのレーマが人の心を整理していくのです。

これまでのケースでは、精神的に混乱した人や、アルコール依存症の人たちが、御言葉を語っただけで立ち直っていきました。私は何のテクニックも使っていないんです。ただ御言葉を語っただけです。ある方は「霊が整ったら自然に心の中の整理がついていきました」と言っておられました。御言葉に癒す力があり、御言葉と共に働く御霊が心を整理していってくださるんです。多くの人が「そんなに単純にことが運んだら苦労はいらない」とおっしゃいます。しかし一つコツが開かれると、簡単なんです。言い古された言葉ですが、鍵は信仰にあります。イエスは「真理はあなたがを自由にする」と言われました。真理は単純です。


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