Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2008.07.27


時を見る目(22)

エゼキエル40章ではバビロン捕囚からの回復が始まります。第一の月(ニサン)の10日にエゼキエルは主の手により、主の幻によって、高い山に下ろされ、神殿の詳細な幻を見ます。これは来るべき王国時代に地上に主が建てられる神殿でもありますが、現在、私たちが霊的・内的な経験として味わっている神殿、すなわち神の住まいでもあります。究極的に神は人と共に住まいたい神であり、その神殿とは私たちの霊であり、それは小羊の裁きと贖いによって生きるものとされたのです。その門には青銅の輝きを持つ人が、麻縄と計り竿を手にして立っています。この神殿の寸法は世のキュビットとは違い、1キュビット+1/6キュビットからなります。神殿は神の基準によって建てられるのです。神の宮の建造には1/6キュビット、つまり人の関わりが必要であって、私たちの自由意志による参加が不可欠です。その神殿には神の聖卓が置かれ、祭司はそこで奉仕をし、諸捧げ物を食べる事ができます。また地的な嗣業は持ちませんが、神ご自身が彼らの嗣業また財産となられます。祭司は死んだ物を食べてはなりません。世の物、肉の物は敵の死の臭いがします。そして最も本質的な重要な点は、神の臨在が満ちることです。バビロンは私たちを練り上げるために間接的に神によって用いられますが、神の神殿には直接の神の臨在があり、神の御手が直接に置かれるのです。私たちは神の神殿であり、神の祭司であり、地上の嗣業は何もなく、神ご自身が私たちの嗣業であり、財産であるのです。そしてまことの捧げ物の実体である神の子、イエス・キリストの肉を食べ、血を飲むことができる特権を有しているのです。


<<週報メッセージアウトライン>>
pdfファイル)


=バビロンvs.神の神殿=


聖書:エゼキエル40-44章

(1)バビロンからの回復:神殿の幻の発端(40:1-3);第一の月(=ニサン(3-4月))の10日;過ぎ越しの小羊が備えられる日(BC.573の4月19日)

(2)主の手により、神の幻により、高い山に下ろされる(1-3節)

(3)青銅(=神の裁き)の輝きを持ち、麻縄(=聖徒の義しい行い;黙示録19:8)と計り竿(=神の基準)を持つ、門の前に立つ一人の人(キリスト?)

(4)神殿のサイズの基準:キュビット=普通のキュビット(=45センチ)+1トファ(1/6キュビット)→世の基準ではなく、神聖な基準による;1/6キュビットは人の分を表すか?

(5)祭司の特権:聖卓の前で仕えることができる(41:22;44:16;1ペテロ2:5,9)、諸捧げ物を食べることができる(44:29;ヘブル10:1;ヨハネ6:50-56)、最良の物はすべて祭司のもの(30節)

(6)祭司の嗣業:地の物はなく、主ご自身が嗣業・財産(44:28)、死んだものを食べてはならない(44:31)

(7)神殿の本質:神の栄光の臨在(43:2-7)→主の栄光は東から;神はイスラエルと共に住む(cf.黙示録21:3)