Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2007.03.18

神の国の奥義(8)


聖とは神ご自身の本質であり、神以外の何かは聖ではありません。神はご自分が聖であるように私たちも聖であれと言われます。これはあまりにも高い基準のようですが、それは自分で達成するものではありません。私たちはキリストがご自分の体を裂くことにより、聖とされました。これは神へと分離されたことであり、私たちの感覚によらず事実です。信じるのみです。このことを真に信じるならば、私たちの良心は解放されます(カタルシス)。良心の咎めがなければ、私たちの魂は平安を得て、健やかにされます。魂の健やかさは肉体の健康へとつながります。こうして私たちの霊、魂、体がひとつにまとまり、健やかさが実現されます。これが経験的な聖です。このために私たちはできる限り不義から身を離す必要があります。が、もしそれに失敗してもイエスの血があるに頼るのです。何度でも血の注ぎを受けましょう。そしてイエスが宿営の外で焼かれたように、私たちも宿営(宗教)を離れて、キリストご自身の元に行きましょう。わけの分からない教えに振り回されることなく、恵みによって力を得て、この方に頼り、この方のうちで、この方のために生きることが私たちの地上の生活です。聖は心地よいものであり、楽しさが満ち、喜びがあり、よって絶えず唇をもって賛美のいけにえを捧げることができるのです。


<<週報&メッセージアウトライン>>
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=神の国での私たちE=

1. 聖なる者

@教会とは召され聖とされた人々(1コリント1: 2)
A聖の意味:客観的には神へと分離されること;主観的には健全性(
wholeness
B聖とされる根拠:ヘブル10:10―この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。→
hagiazoの直接完了受動態
C良心は主の血によって清められる(ヘブル9:14)→
katharizo=解放する(カタルシス):主観的聖の実現(精神身体医学)→ひとつに統合される(3ヨハネ1:2)
D血のみが至聖所に持ち込まれた;他の部分は営所の外で焼かれる;祭司の分はない;営所からイエスの辱めを追って出る(ヘブル13:9-13;贖罪の捧げ物レビ4章;5:1-13;6:24-30;8:14-17;16:3-22)
E私たちの問題:旧い肉体(大脳辺縁系)と新しい霊→魂の葛藤



【暗証聖句】

1コリント1:2 コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。

同10:10 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。

ヘブル9:14 まして、永遠の"霊"によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。

同13:8 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
同13:9 いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。
同13:11 なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。
同13:12 それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。
同13:13 だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。