Kingdom Fellowship Church

Message Outlines

2003.11.30


霊を訓練するA

私たちの本質は霊にあります。堕落の後霊が死んだため、魂によって生きてきた結果、思い・感情・意志を肥大化し、魂の中で起きていることを「私」と思い込んでいたのです。ある人は頭のいい「私」、ある人は感性豊かな「私」、ある人は意志の強い「私」を築き上げてきました。そしてそれを失わないように、またその能力を磨くように努力しているのが、この世の生き方です。その古い生き方のパタンは一度壊される必要があります。魂による生は十字架により否む必要があるのです。しかしこれは「自我が砕かれる」と称して、これ自体がまた肉の働きになる罠に落ちます。「まったき潔め」と称する偽りに束縛されます。これは人間を知らない神学に過ぎません。自我(=魂)はあっていいのですが、自我が主役になることなく、また魂を自分のいのちとしないことです。霊をいのちとして、霊に生きるキリストの思い・感情・意志が魂のうちに反映されてくるのです。このときキリストにあって回復された真の豊かな人間性を享受することができる。人間であることを愉しむことができます。人間として生きること自体を思う存分堪能するのです。そのためには霊と魂の切り分けが必要です。古いものが切られる時には痛みを覚えますが、しかし切られた後はスッキリ・サッパリするでしょう。真の自由は失うことによって獲得されます。魂は霊に依存し、自ら振舞うことなく、霊が生きることにより、霊にいますお方(=キリスト)の反映となります。WWJDなどと踏ん張らなくとも、自然とキリストが私たちの魂と体を通して生き出て下さるのです。こうして教会はキリストが満ち満ちたところとされるのです!

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます(ヘブル4:12)。

1. 本当の私−霊―

 @ らっきょの皮剥き→体と魂は真の私ではない
 A 体=私の入れ物、魂=私の表現手段
 B 知性、感情、意志は元々は霊に依存していたが、霊の死で独立して肥大化した→この体
  と魂のあり方を「私」と勘違いしている
 C 「外なる人」とは体と魂の人、「内なる人」とは霊の人



2. 霊と魂の分離

 @ 生まれながらの私たちはこの世のマインドコントロールを受けている(エペソ2:2)
 A 御言葉による分離手術の必要性(ヘブル4:12)→痛みがあるが、分離されると解放される
 B 体と霊の区別は明確:体は罪のゆえに死んでいるが、霊は義のゆえに生きている(ローマ
  8:10)
 C 魂と霊の区別は不明確→分離されていない
 D 分離されると、例えば、思いの中では困惑し、一体どうなることかと考えていても、心の中
  心にホワっとした安心感が漂い、感情は安定していられる
 E 霊は自分の心の奥底も知ることができるようになる(1コリント2:11)
 F 「思いの霊において新たにされる」必要がある(エペソ4:23):霊によって満たされた思い
  のあり方(思いを勝手に用いない)
 G 恵みの座は霊である(ガラテヤ6:18;ピリピ4:23;2テモテ4:22;ピレモン1:25)
 H 魂を失う時、実は体・魂・霊のすべての救いを得る(1テサロニケ5:23)


私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子の信仰によっているのです(ガラテヤ2:20)。