そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」・・・神はこのように、人をご自身のかたちに創造された(創世記1:26)。
ここで神がご自身を指して言うのに「われわれ」という複数形の呼称を用いておりますが、言語学的にはヘブル語における「権威・強調の表現」とする説もありますが、私たちクリスチャンは、唯一の神が父、子、聖霊なる三つの区別される人格(人間と区別するために神学的には「位格」と言う)を持ち、しかもその本質において一つであるとするいわゆる「三位一体」の啓示と信じております。三にして一なる存在として聖書では神を紹介しております。これは人間の理解力を超えております。
・父なる神は永遠の過去から独立自存されるお方であり、意図を持って万物を創造されました。
・子なる神は永遠の過去から父なる神と共におられ、創造にも関わられましたが、時至ると人を罪から救うために人の子イエスとして人間の様をとられ地上に来てくださり(受肉)、十字架において贖いのみ業を成してくださったお方です。
・聖霊なる神は永遠の過去から父なる神、子なる神と共におられ、創造にも関わられましたが、イエスが救いのわざを十字架で完成され、天に戻られた後、父なる神の身元から地上に遣わされて、イエスの救いのみわざを信じる者たちにそれを実際上の経験とするために、信者の内で現在働かれるお方であり、イエスは別の助け主と呼ばれました。
聖書の啓示する神と、アニミズム的な日本人のいわゆる「八百万の神々」(注)の違いは、まさにこの「本質において同質の三人格を持たれた唯一の神」という点にあります。その第二格の子なる神がイエスの人性をとって救いのわざを成してくださったのです。
(注)日本人の神観は伊勢参りに行った際の西行法師の次の詩:「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼれる」に端的に現れております。昨今ベストセラーとなっている五木寛之の「他力」の「他」や、この詩の「何事」のアイデンティティーが不明なのです。イエスが「あなたがたは誰を礼拝しているか知らないで礼拝しているが、わたしたちは知って礼拝している」と言われたとおりです。