「断裂」の病理

人間性疎外の究極にあるもの


今回幼児を駐車場の屋上から裸にしたうえで地面に落として殺すという事件が起き、その容疑者が中学一年生であることが報じられた。およそ常人では思いもつかない行為であり、かつての神戸のサカキバラによる殺人事件の際と同じ動揺を世に与えている。

私はかつてから青少年の心にある種の病理的な現象が起きていることを指摘し、この種の犯罪が多発するであろうことを予測(@AB)してきた、が、私の予測異常のコトが密かに、しかし確実に起きており、青少年の心を蝕んでいるようである。

この種の事件の容疑者にはたいていの場合、性的倒錯要因やサディズム傾向などが観察されるが、人は誰しも多かれ少なかれこのような要因を持っており、行為として表出するかどうかの違いがあるだけである。聖書的には肉の働きであることは明白であるが、問題は行為を行うか、行わないかの閾値がどこにあるのかという点である。

実はその閾値を決定する最も大きな要因は、先にも述べた「共有」にある。互いに人間として生きる者としての痛みとか感性を共有する時に、私たちは何をどうすれば、何がどうなるという因果関係の連鎖を理解することができ、いわゆる善悪の判断によって、自分の行為を制御するのが通常である。人と人が接触するときに、互いに同じ人としてのいのちを共有する意識の深さによって、私たちの人間関係は豊かで深いものとなる。

しかし最近のヴァーチャル化の傾向によって、互いに同じ痛みを感じる人として生きている実感を伴った「共有感」が喪失し、相手を何か物体かのように取り扱う傾向が強くなっている。例えば企業も企業の論理によってリストラをし、そのために人がどのような辛酸を舐めるかに対する配慮がほとんどない。人が物体化され、人がその機能によって価値を測られ、経済の対価として人がアイデンティティと自己の生の担保を勝ち取ることができるかのような風潮である。

イラク戦争などもテレビ画面を通してのみ見ることができるだけであり、あたかもテレビゲームの一場面であるかのように、その現実の中にある人々の涙や血と汗の臭いはすべて捨象されている。しばしばニッポンのクリスチャンは頭だけを大きくし、互いの机上の議論の応酬に明け暮れるだけである。これもまた完全なるヴァーチャル化の病理の一場面である。そこではキレイな論理矛盾のない整合性が求められ、そもそも不条理を抱えて矛盾だらけの人間の臭いが一切感じられない無機質なものとなる。

現代の世においてあらゆる領域においてこの無機質さが観察される。人間性疎外である。互いの関係性において、血の流れる人間であることを忘れ、相手を物体化することにより、今回のように屋上から人を落とすとどのようなことになるのか、いわば「実験」したわけである。この事件の前にも猫を解剖したり、犬を屋上から落としたりして「実験」してたようであるが、この種の「実験」はしばしばエスカレートするものである。

ここには「生の共有」がなく、自分と相手の間に深刻な「断裂」が存在する。今回の事件も現代の「共有感」を喪失し、人間性が無機質化され、互いの関係がヴァーチャル化によって「断裂」している病理の氷山の一角として現れたものである。

クリスチャンにとってもしばしば「聖化」なるものが概念化され、ヴァーチャル化され、人間性が疎外されることが多いが、「聖化される」あるいは「霊的である」とは「まことの健やかな人間性を享受する」ことである。イエスはそのために人間性を栄光化して下さっている。残念ながら、人間性疎外が進む世の中においても、否、キリスト教界においてすら、今後ますます私の予測のとおりのコトが起きてくるであろう。(03.07.09)

追記:少年が自供を始めた模様です。被害者の両親と加害者の両親、彼らの心を思うとき、そしていたいけな5歳の被害者を思うとき、この手の事件はなんともやり切れない思いがいたします。