ノーベル賞に思う

−パウダー感覚の生き方−




■この度、島津製作所の田中さんがノーベル化学賞を受賞された。周囲の人々はもちろんのこと、ご本人もまったく予想外の受賞であり、田中さんのマスコミへの応対での発言を見ていると、何ともほほえましい限りである。一言で言って無欲。社内でもあえて昇進試験を拒んで下から二番目の主任に甘んじる姿勢や、会社からの役員への誘いに対して、責任が重過ぎると辞退するなど、何とも今の世の中に珍しいお人である。1千万の報奨金に対しても、デジカメを買うくらいしか考えていないとのコメント。地位に対しても、金に対しても、何ともあっぱれなほどに淡白である。久しく見ることがなかった爽やかさを感じているのは私だけではないと思う。

■ある意味、私たちクリスチャンよりも淡白と言うか、心が地位や金に置かれていない様はむしろ倣うべき姿勢と言えよう。しばしばクリスチャンは信仰を社会での成功の手段とし、その成功をむしろ誇るものである。本人も、周りの人々も、その人の信仰が素晴らしい、としてその人を褒め称える。これらの人々はしばしばいろいろなところからお誘いの声がかかり、ある種のヒーロー扱いされるようだ。しかし私たちクリスチャンは「イエスの証人」であって、自らの信仰の証人ではない。ここをしばしば誤るとクリスチャンの集まりも単なるソーシャルサロンと堕す。結局これらの成功者が人気があるのは、聴衆の心の置き所を証明する(2テモテ4:3)。何を求め、何を探し、何で満足を得ようとしているのか・・・。今日の閉塞状況では、政治はもちろん、信仰の世界でもポピュリズムが蔓延するようだ。主は言われた、「あなたの宝のあるところに、心もあるものだ」と。

■牧師とてもまた同じである。世の地位は捨てたのは外見ばかりで、しばしばニッポンキリスト教界での成功と認知と名声を求める御仁がかなり多いようである。否、むしろこの世で得られなかったものを補償するかのように、かえって野心家の方々が前面に伸している印象すらある。私はニッポンキリスト教には「七不思議」があるとかねてより思っているが、そのひとつは「自分は食うや食わずの貧困生活から開拓を始めて、苦節何十年、今や信徒は○○名になんなんとし、いくつもの会堂も献堂した・・・・」と延々と並べて、最後に「すべての栄光を主にお返しします!」とやるパタンである。栄光をなぜ"お返し"する必要があるのか、栄光は"初めから"主のものではないのか・・・?この台詞を初めて聞いた時、ものすごい違和感を覚えたものだ。この台詞は主の栄光を、狡猾に盗んでいる(マラキ3:8)。主に栄光を帰することは、自分の何かを一切語らないことである!その秘訣は"Enjoy Christ"にある。田中さんと同様にそのことを楽しめばよい。

■ニッポンキリスト教界での成功や認知などの追求はナンセンスである。これらの追求に走っている御仁はどこか脂ぎって、ギトギトしている。サラッとした清潔感がないのである。私たちは内的には油で豊かに塗られる必要があるが、外見はサラッとパウダー感覚であるべきだ。淡白な外見は、淡白な心の表れである。私たちが目指すべきまことの"ノーベル賞"はただひとつ、キリストの裁きの座において得るべきものである。今この時、仮に一生かけて伝道し、何百人の人々を救いに導いても、人からの誉れを受けるならば、その日にはキリストから得る物は何もないであろう(マタイ6:1)。田中さんのようなサラッとした淡白さをつねに醸していたいと願うものである。(02.10.16)