●まずいわゆる「陰謀論」については、陰謀などはつねにどこでもあり得る事であって、実際問題としてユダヤ人が政治・経済・情報の中枢を握っているアメリカでは、目に見える一部の事件においてユダヤ人による「裏(シカケ)」があることは十分に推測できる(世界征服を狙っているのかどうかは分からないが、少なくとも自らの利益を意図していることは明白であろう:注1)。「裏」がない社会事象などはあり得ないし、表に見えるものだけが真実であるとする精神はあまりにもナイーヴに過ぎる。現代のマスコミなどはとっくにマインドコントロールの意図をもった情報に溢れており、多分に私たちもそれによって踊らされている。まあ、ただしこの「仕掛け」が何でもかんでもすべてユダヤ人によるとは言わないし、またフリーメーソンやイルミナティによるとも言いませんが・・・(注2) (注1)この見解に対しては、一部の親イスラエルの人々によると、無知によるステレオタイプな偽りであって、ユダヤ人はむしろ少数派で虐げられている式の反論がある。ユダヤ人と一言で言っても、その範囲はあまりに広い。彼らの特徴はユダヤ人をきわめてナイーブ化し、少女趣味的にしてしまうところである。この「純化」の精神病理についてはすでに「日本人とユダヤ人V」で論じている。しかし聖書にすら「ユダヤ人の陰謀」という表現があることを指摘しておく(使徒行伝20:3,19)。●旧約聖書を見ても、人の陰謀によって歴史が動いている場面は多々観察される。例えばカインによるアベルの殺人、サラの策によるイシマエルの誕生、ヤコブのエサウに対する策略、レベカの策略、タマルによるユダの誘惑、ダビデによるウリヤの殺人とバテシバとの姦淫、ナオミによるボアズとルツの関係、エステルのハマンへの対抗策・・・・。人の為すことはある意味ですべて策略あるいは陰謀と言える。もちろんそれに積極的な面も消極的な面もあるわけであるが、大切な点は、神はいずれにしろすべてこれらの人間の営みをご自身のご計画の実現のためにかならず用いられることである。この人間の策略・陰謀にあっても、神の主権は働いており、神の御旨の実現へと至るのである。神の意志と人の意志の関わりの絶妙さは、まことに不思議であり、まさに摂理と言うにふさわしい。この意味で陰謀論者は歴史の動きにおける人の意志の要素だけを強調し、反陰謀論者は神の意志の要素だけを強調していると言える。 ●神のご計画はもちろん永遠の過去において神が青写真をかかれ、人類の歴史に自ら介入されることにより、着々と成就へと導いておられる。しかしこのご計画の進展は、神の意志だけではなし得ないのである。神はご自分のご計画を、人間の意志と混ぜ合わせることにより成就へと至らせる方である。この神の意志と人の意志が微妙に綾なされて、時間の中で歴史は形成され、また神のご計画も成就へと至る。私たちの救いもまさにそのとおりであった。神の意志と私の意志とがピタリとはまるとき、私は救いを得たのであり、神の意志だけも、私の意志だけもそれは成就しなかったことである。神のご計画は明らかに聖書の中に啓示として与えられている。しかしその実現は神の意志だけでは決して実現しない。ここに人間の意志が織り込まれる必要があるのである。 ●もし世界において「裏」の歴史、あるいは一部の人々による陰謀が企てられているにしても、神のご計画から決して独立的になされるのではない。ある意味でそれらのものをさえ、神はご自身の主権の下で用いられるのである。ここに神の主権の峻厳を見ることができる。神はサタンの策略さえもご自分のご計画の成就のために用いられる。イエスを裏切ったユダも陰謀を行ったわけであり、サタンは十字架において多分に自分の勝利を確信したことであろう。しかし十字架すらも神のご計画の成就のために用いられ、むしろイエスを死と復活による勝利へと導いたのである。 ●私は表に見える世界の事象をそのままに受け取るほどにナイーヴではない。必ず「裏読み」する習性をいつの間にか身につけた。自由と平等の国アメリカにもすでにケネディの暗殺など過去にもいくつもの陰謀はあったし、裏では不正もなされている。世界のあらゆるところで陰謀はある。しかしそれすらも神はご自分のご計画の成就のために用いられる主権と知恵と力をお持ちなのである。これからの世の中はますます表と裏の乖離がはなはだしくなり、物事はますます錯綜するであろう。何が真実で、何が偽りである、私たちは何をどう聞くかによくよく注意する必要がある。自分は絶対に騙されていないと主張する人は実は騙されている。騙されている人は、自分が騙されていることに気がついていないからである。現在私たちはあらゆる真理へと導いてくださる御霊にますます頼るべき時代に入っている。(02・04・06) |