二つの魂に思う -父の死とラザロさんの死-
■11月7日朝、私の父が召天したが、その前の10月30日に寿町のシンボル的存在であった安田さんが亡くなった。例の生きている足に数百匹ものウジが生えていた人である。彼は戦後ずっと一人暮らしで、刑務所などにも入ったこともあるが、人に迷惑をかけたくないということで、ごみ箱をあさって命をつないで来た人である。生活保護費をもらっても、むしろ人から横取りされるために、生活保護費ももらってもしょうがないと言うことで、ドヤにも居つかず、彷徨して人生を送ってきた。病院に入っても、食事をいつも残して、それを溜めておくために、ウジが生えて何度も病院からも追放されてきた。つまり彼はこの世に身の置き所がなかったのである。
■カナン教会では木曜日午後に路傍伝道を行なっている。安田さんはいつも佐藤先生のメッセージが始まるとこそこそと逃げ出してしまう人であった。彼は自分が罪人であることを嫌と言うほど意識し、その罪の意識で束縛されていたのであろう。聖書のメッセージは何か裁きを感じるだけであったのかもしれない。私たちの接触に対しても、ひじょうに素直な時と、ひじょうに頑なな時があった。彼の内側ではこのアンビバレンツな感情が葛藤していたのだろう。ある夜のパトロールの際、ラザロの兄弟が「安田さん、そんなごみ箱からひろってきたもの食べてちゃ駄目だよ。体悪くするよ」と声をかけると、安田さんは大声で「うるせえ、オレにはこれしか食べるものがねえんだ!だからあんたたちのこと嫌いなんだ。あっちへ行け!」と叫んだこともあった。ぼくもこの時には次の言葉が継げなかった。
■安田さんが亡くなる2ヶ月ほど前の木曜日の路傍伝道の時、佐藤師はロマ書8章1節をメッセージしていた:「今やキリスト・イエスにあるものは罪に定められることがない」。安田さんは例によってメッセージが始まるとこそこそとその場を離れていたが、この御言葉を聞くとふと戻ってきて、マラカスを両手にとって、みんなと一緒に賛美した。しかも鼻水までも垂らしつつ、喜びに満ち溢れてマラカスを振って賛美を捧げた。それは佐藤師にとっても意外な光景であった。何かが安田さんの頑なな心の中で起きたのである。神の言葉には力があって、関節と骨髄を切り離すほどに私たちの霊と魂を切り離して、人の存在の深くに切り込むのである。御言葉に切り込まれるその時、私たちの肉は痛みを覚えるが、しかしその御言葉は光を放って無学な者に知恵を与え、しかも命をもたらすのである。安田さんはこの御言葉のお取り扱いを受けたのである。
■自分の父親と安田さんと言う寿町の象徴のような人の死にあたって、何か感慨深いものがある。この二つの魂の人生を振り返るとき、いったいこの地上の生とは何なのだろうと思う。生まれたくて生まれるわけでなく、死にたくて死ぬわけでない。ある人はたまたま才能に恵まれて成功し、財をなし、地位を成し、名誉を獲得する。ある人はたまたま知能に遅れがあり、生活を建てることもできず、ごみ箱をあさりつつ、この地を一人でさ迷う。ある人は言うであろう、「神は何て不公平なんだ」と。よく言われる、「籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」と。確かにこの世はそのとおりである。しかし神は人生の最後にあたっての大逆転劇のチャンスを備えて下さっていた。神の御前に立つとき、誰が真に恵まれて豊かな人であろう。実はこの安田さんではないだろうか。奇しくも、11月9日、小生の父と安田さんは同じ日に荼毘に付された。(00.11.23)