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ヒューマニズムについて
投稿日 : 2005/12/19 09:12
投稿者 Luke
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再建主義で批判されるヒューマニズムと、Dr.Lukeが批判するそれとの違いをまとめておきます。まずは再建主義が認めない自然人と律法の関係について、聖書はこう言っております。再建主義においてはモーセ律法の適用される領域とされない領域しかなく、されていない領域がヒューマニズムに侵された領域となるわけです。つまり彼らは一切自然法を認めません。が、聖書は次のように自然法の根拠を与えています。

生まれながらの人、あるいは律法を持たない異邦人については、次のロマ書にある御言葉を見れば明らかですね:

2:14 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
2:15 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。

これが私の言う「生まれつきの価値観」です。霊の残りが人にはあるわけですね。しかしパウロが言うとおり、善(神の基準)を行なう意志はあっても力がない。この力はいのちにより、いのちはいのちの御霊の法則に従って働き、この時、私たちの内に立法の要求が満たされるのです。これが神学の理論ではなく、御言葉そのものの啓示です。



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Re:「間」のリズム感
投稿日 : 2005/12/19 09:22
投稿者 Luke
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サイトを開いて以来実にイロイロな人に出会いましたし、ニッポンキリスト教界を垣間見ることができたわけですが、このギョウカイをみていると一言、クリスチャンって何なの?と。1%なのは確かに理由があります。神が守っているのですね。再建主義との「対話」はまあひとつのエキササイズでした。

しかしこのギョウカイ、実にイロイロ。日本の村、例えば白川郷などは、それなりの調和があって、心が休まりますが、ニッポンキリスト教村には、遊園地の観覧車があったり、やたらド派手なビルがあったり、アメリカ式の家に、ロシア式の家があるみたいな、で、それぞれの家の前で派手な呼び込みが大声を上げていると。

家の中はというと、ホスト的に不自然な笑顔でベットリと迎えるセンセイと、そう、やくざ屋さんの家の調度品みたいなある種の違和感と緊張感を覚えさせますね。何ともバラバラ、まさに分裂病的。

そうですね、「川の流れのように〜♪」と生きたいですね。

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Re: 「間」のリズム感
投稿日 : 2005/12/19 09:21
投稿者 Salt
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いつも楽しく拝見しています。再建主義との論争には大して興味はありませんが、ウインドウズの上位互換の話は、律法の役割を実にわかりやすく説明していると感じます。

今回の「間」のお話、共感できます。音楽でも音のない部分が、リズムを作っているわけです。リズムは不正確で音楽にならないのですが、規則正しいだけでは感情は揺れません。いわゆるノリやタメ、ツッコミといった絶妙な間が音楽を豊かにします。

再生と新生の話もおもしろいです。そういう「しきたり」がことば使いまで支配するところがあって、やくさ社会と一緒です。昔こういうことをネタに小説を書いたことがあります。日の丸町という町に松・竹・梅という三つの中学校があって、竹中学に通っていた主人公が、梅中学に転校してきたために、混乱する話です。くだらないローカルなルールを普遍の真理だと思い込むのは病的なことです。

山奥の渓流のようにサラサラ生きたいですね。紅葉でも浮かべながら、岩魚や虹鱒を泳がせてやりましょう。川には県境はありません。山から海へ流れるだけです。

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「間」のリズム感
投稿日 : 2005/12/19 09:20
投稿者 Luke
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いわゆる笑いは「間」のリズム感から生まれる。人の精神はこの緊張と解放のリズムがないと病む。退屈しない話や映画はこの緊張感と解放感のリズムが絶妙なのだ(専門用語では「カセクシス」と「カタルシス」と呼ぶ)。能では「序・破・急」と言う。

そのリズムのスペクトルを見ると1/f型。これは自然界の快適な音、例えば小川のせせらぎや、そよぐ風などのパタン。あるいは快適なクラシックなどの音楽。これは前に述べたカオスとも関係する。

私の最近のここのカキコを心配気に読んでくださっている方々が多いようだが、実はこのリズムがかなり密になっているため。ハラハラ感はこの密度の高さから生まれる。私的には内側から沸いてくるものを忘れないように書き留めているわけ。

神との関係、つまり霊的領域においても同じようなリズム感がないと人は霊的に窒息する。ある本に霊はkinkすると言う表現があったが、まさにそのとおり。糸がもつれて玉ができるのだ。これがほぐれないといのちの流動性がなくなり、内的生活は新鮮さを失うし、時には圧迫を受けることになる。

神は私たちの人生において絶妙に「緊」と「放」を配剤して下さる。かくして人生は縞模様を生み出す。この配剤に信頼して委ね、いのちが流れている時、サラサラと生きることができる。多分私たちの健全な霊的歩みはカオスであり、スペクトルは1/f型であろうと夢想している。

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「間」の病理
投稿日 : 2005/12/19 09:20
投稿者 Luke
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分裂病の精神病理の専門家木村敏氏の著書に『間の病理』がある。要するに精神分裂病は人間関係の病理であり、「間」の取り方が狂っているというわけ。病んでいる人はこちらにその意図がなくとも、自分の「間」を犯されると感じると、恐れや妄想や幻覚を生じるのだ。私たちの「間」とはかなり食い違う。

私たちも対人関係で混乱を覚える場面は、下にも指摘したように、「間」の取り方を侵食される時なのだ。私の著書でも「間」とはある霊的な何かを指しているかもしれないと述べたおいたが、これはあまり見当はずれではなさそうだ。魂と霊が相互作用する緩衝領域のような印象を受ける。神学では「中間領域」と言い、私たちは「間」と言うわけだが、どうも同じ何かを指しているようだ。

山本七平氏が日本を「空気の社会」と呼んでいたが、「空気」も「間」と同一視できるかもしれない。さらに『甘えの構造』の土居健郎氏は、自身もクリスチャンであるが、「気」の精神病理を論じていた。この「間」とか「空気」とか「気」とか言う対象は、何か同一の「霊と魂の緩衝地帯」を指しているのだろう。

日本文化はすべからく「間の文化」と言える。和室や日本庭園は無駄な空間が実は何かを表現している。武道なども同じ。自分の「間」で、「気」を入れるとき、勝負が決する。

ニッポンキリスト教はこの「間」に対するデリカシーがほとんどない感じなのだ。もちろん信仰は、究極には「自分か、キリストか」の排他的選択を迫られる。これは一種のクライスである。が、それを超えた後はまたある種の「間」ができる。ところが教界ではこの「間」が何か人工的な作為的なものになっている。これがクリスチャンや、特に牧師たちから受ける違和感なのだ。

同じように、私の「間」にフィットする方は私のメッセージを受け入れて下さるようだが、私の「間」を嫌う人はまったく受けつけないようだ。ここにはある種の霊と魂の相互作用から生じる感受性が大いに関係するようだ。

いずれにしろ教界は「間が病んでいる」と言え、木村氏の理論によれば一種の分裂病状態と言える。

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Re: ヒューマニズムについて
投稿日 : 2005/12/19 09:19
投稿者 Luke
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山谷さんのBBSではコモン・ローの問題が再提示されてきました。で、過去ログを紹介しているので、読んでみましたが、これが実に面白い。自然科学と人文科学は一応カバーできていると思っている私ですが、社会科学はまったくの音痴です(経済学だけは数学の言語で語られますので少しは分かりますが)。が、その私にとってもかなり面白い。

ゲイリー・ノースの「Y2K世界崩壊」の外れ預言はコンピュータ・オタクの私にとっても一大記憶として鮮明に残っている。同僚の先生がエラク心配して、質問を受けたことがあったし、クランシーの小説もありましたね。しかしその背後にこれだけの思想体系が横たわっているとは・・・。

アメリカの政治システムについては鹿嶋春平太氏の『聖書が分かると世界が読める』において、共和党と民主党の本質が論じられており、けっこう面白かったが、さらに再建主義による国家建設を目指している人々があることはごく最近知った。

しかし日本においても、かつてレーガンがフリードマンのサプライサイド・エコノミクスと共に目指した「小さな政府」を志向するようになっているが、このレーガンを選出した一大勢力が新右翼思想と言われる再建主義勢力なんだとか。

こう見てくると、日本はアメリカの見える部分だけを真似しているだけとも思えてきますね。教界も、社会も。まあ、ベニー・ヒンがニッポンキリスト教の総帥となり、再建主義社会が実現するようなことはないと思いますし、そうならないことを祈りますが・・・。(考えただけでも震えます。)

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人間が関わる領域
投稿日 : 2005/12/19 20:33
投稿者 Luke
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山谷氏のBBSで刑法を論じるには人間理解が不可欠とのべておられます。これはとても大切なポイントです。現代科学では、霊の次元はまったく考慮されていません。つまり魂(=精神)と体の関わりまでです(精神身体医学)。

・人間の聖書的啓示と現代精神科学
http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/Ron/human.html

ですから今のサイエンスは霊的要素については形而上学の問題となり、その研究対象としません。ただし97年にWHOが「霊的健康」と言う概念を提示しましたから、今後は分かりません。霊まで考慮した医学が、私の提唱する「霊精神身体医学」です。

クリスチャンは霊的領域と接触を始めた存在ですから、世のサイエンティストの語る形而上学は、形而上学ではなく、十分に実体験できる領域なのです。

そして大切なのは、神は物理の次元でも法則によって、魂の次元でも法則によって(ノンクリスチャンはここまで)、そして霊の次元でも法則によって人と関わりを持たれ、人を治めます。クリスチャンにとってはこれがいのちの御霊の法則であり、モーセ律法にはなかったものです。だからモーセ律法は欠けがあり(ヘブル書)、新たにメルキゼデク系律法−いのちの御霊の法則−が導入される必要があったのです。これは十字架によります。

つまり旧約と新約では致命的な霊的相転移が起きているのです。今私たちクリスチャンを支配するのは、モーセ律法ではなく、いのちの御霊の法則であり、それは自由の律法、いのちを与えて生かす法則、キリストを私たちの内に実体化する法則なのです。あなたはどのような法則に委ねて生きていますか?

御霊に従うならばあなた方は律法の下にはいない。

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Re: ヒューマニズムについて
投稿日 : 2005/12/19 09:17
投稿者 Luke
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「ヒューマニズムについて」でも少し触れましたが、再建主義の人間性否定は予想以上のものがありますね。富井氏は、ヒューマニズム(=モーセ律法を適用しないこと)に犯されて再建主義に反対するクリスチャンは・・・悪魔の支配下にいる、と主張しています。

やれやれ、スゴイことです。まあ、この手の人に対してはあまりエネルギーを削がれたくはないのですが、論点としてはとても大切なのです。聖書は人間性についてどのように語り、主は私たちをどのように見て下さっているのでしょう:

(1)神は人になられた。イエスは人であるままで天に上られた。ステパノは人の子を見た。そしてそのままの姿で戻って来られる。つまりイエスはいぜんとして人である。

(2)イエスは人としてサタンに勝利し、世に勝利された。アダムが失った傷のない、純粋な人間性は、人の子イエスの死と復活にあって、回復され、さらに栄光化された。その人なるイエスの内に生きた御霊は、私たちの内にイエスを証し、復活のキリストのいのちを実体化される。

(3)古いアダムにある私は肉と共に終わった。霊が再生された私たちは、キリストが回復し栄光化して下さった人間性をも得ている。それはイエスの霊と魂の中で進展してたいのちの再現、あるいは追体験である。

(4)御霊によって私たちのうちにキリストの形が造られるとは、この御霊が届けてくださるイエスの人間性が私たちの霊から魂へと再現することである(メタモルフォーシス)。

(5)小羊はいずれ私たちを花嫁として迎える。それはイエスが分けて下さったいのちを共有する存在であり、新エルサレムでは、神と人が共に住まう。

(6)主は現在もまだ贖われていない私たちの体が弱いことを知っていてくださる。この弱い人間性をイエスは経験され、大祭司として私たちの弱さを思いやり、私たちがチリにすぎないことを心に留めてくださる。

(7)私たちの責任は、アダムにある私の有様を守ることではなく(これが「ありのまま」的ヒューマニズム)、死と復活を経て、キリストのいのちを内に生かすこと。

(8)かくして人間性は神にとってきわめて尊いものである。そもそも敬虔の奥義とは、神が肉において現れることであり、キリストはそれを100%成就された。私たちもその幾分かに与るものである。神は人の中に住まい、人を通して栄光化される方である。

(9)人間性は神にとってとても大切な要素であり、人間性を慈しんでくださる方である。ただし、十字架の適用が必要。なぜなら御霊は十字架によって働くから。それは私にとっては痛みを覚えることもあるが、しかしその時こそ神は甘い。その十字架を経るならば、古いものを脱ぎ捨て、栄光のイエスの人間性を味わうことができる。再度繰り返します:

内なるキリスト−栄光の望み!

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Re: ヒューマニズムについて
投稿日 : 2005/12/19 09:16
投稿者 Luke
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あ、これはわざわざありがとうございます。確かに今回の事件などは、もし私が当事者であったら、同じ方法で処刑してやりたい、と感情的には思うでしょうね。

ですから刑法や刑罰の考え方は別にモーセ律法とは関わりなく論じればよいと思うわけです。これは自然法を成文化でいいのではないでしょうか?現在の少年法や加害者の人権は守られ、被害者は無視されている点などがおかしいと誰も感じているはずで、その自然な感覚に基づいて論じればよいわけです。その意味では外科医さまの見解はひとつのオプションとなり得るかと思います。

ところが再建主義ではこの自然な感覚(自然法)を否定して、あらゆる領域で司法律法の適用とするからおかしくなるわけですね。
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Re: ヒューマニズムについて
投稿日 : 2005/12/19 09:16
投稿者 外科医
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 はじめに、私は再建主義ではありません.
 私は、昨今の連続する幼い命を奪う残酷な事件に心を痛めております.しかし、山谷師が、再建主義ウォッチング掲示板の968に於ける論述が、同害復讐を正しく理解しておられないと思いましたので、敢えて記しました.12族長の暴走は明らかに、同害復讐の原則を侵しています.本来なら、シェケムだけが罰せられるべきでした.『目には目を、歯には歯を、命には命を』とは、
同態復讐法(レクス・タリオニス)と呼ばれ、その根本思想は、人間の奥底にある無制限的報復(12族長の暴走のように)に対して制限を加え、同量の報復を以って満足すべきであることを想定したものです.
 江戸時代は「十両盗めば首が飛ぶ」と言われていました.また、茶母によれば、韓国ではかつて贋金作りは死罪だったそうです.こういうのは行き過ぎです.同害復讐ではなく、過剰報復です.
 さて、殺人事件の場合、加害者の弁護人は、生い立ちや環境を情状酌量として提示することが殆どであると思います.しかし、加害者と被害者に利害関係があり、例えば、「被害者が常習的に加害者を虐めていたので、加害者は止むに止まれず被害者の殺害に至った」というような事例は別として、被害者に何の落ち度も無い犯罪行為、特に殺人や強姦など、被害者に回復不可能は害を与えた場合は、被害者の数に係わり無く『死刑』を適応すべきであると考えます.また、麻薬や覚醒剤の密輸は、結果的に、末端利用者に回復不可能な障害を与えてしまいますので、シンガポールやタイなどのように、死刑を適応すべきだと考えます.
 いずれにしても、被害者に関係の無い情状酌量は認めるべきではありません.殺人事件や強姦事件、麻薬・覚醒剤の密輸事件の裁判は、事実認定を慎重に行う必要がありますが、事実認定が確定すれば、あとは、刑法の厳格な適応あるのみであると思います.刑法の改正(被害者が無過失の殺人・強姦、及び、麻薬・覚醒剤の密輸は死刑)を強く要望します.

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Re: ヒューマニズムについて
投稿日 : 2005/12/19 09:15
投稿者 Luke
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山谷氏のBBSにすごい投稿がありますね。日本を「目には目を、歯に歯を」の同害復讐法を採用する警察国家にせよ、検察よ、ガンバレと・・・。この方はここでも「ヒューマニズム」のところでレスを下さった方ですが、再建主義の方だったのかな?

再建主義では、人間は全的堕落で、意志すらも堕落していますから、すべては神によらないとダメなわけです。要するに自律性が一切排除されます。これはハードコア・セッションでも富井氏が、「聖書はすべて神の命令であって、一字一句服従するのだ」と言っておられるとおりです。かくしてこれを社会に適用すればモーセ律法を一字一句遵守することになるわけ。よって「目には目を、歯には歯を」です。要するに人は枠にはめないと獣姦を犯す存在なのですね、彼らにとっては。自律性はヒューマニズムなのです。

下にも書きましたが、いのちの御霊の法則によって働くいのちは内的な性質として神の義を好み、神の聖に従うことを欲求するいのちなのです。人のいのちは四足で歩くことを好まず、二足歩行を好みます。同様にキリストのいのちに従えば、自律的かつ内的に神の基準を生きるのです。なぜなら御霊は神の義をlustするからです。このlustという単語は普通は「情欲」と訳されていますが、ガラテヤ5:17にある「霊の願うところ」(新共同訳)の「願う」の原語もlustです。ですから、御霊に導かれているならば律法の下にはいないのです(18節)。

まあ、彼らはこの律法をパリサイ学者の律法主義の律法だとしているわけですから、これ以上議論になりませんが。素朴な疑問として、憲法にも制定のままの純粋な憲法と、憲法学者の憲法があるのかなと・・・(笑)

いやあ、これほどに深刻な福音理解の齟齬があるとは思いませんでしたね。しかしこれをとおしてますます聖書の真理が明確になったことは事実です。聖書にはこうあります(向こうさんも使うかもしれませんが):

あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。


補遺:刑罰の程度はモーセ律法とは別に考えたらいいと思いますけどね。

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