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信仰の本質

新約聖書で信仰を明示的に定義する箇所はヘブル11章1節である。いわく

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

この訳は少し分かりにくい。原語をなるべく忠実に訳すと

 信仰は望んでいる事の実体であり、見えない事柄の証拠である。

となろう。Darbyはさらに「実体化」と訳している。つまり信仰とは、"hupostasis(実質・本質・実体)"であり、"elegchos(証拠・根拠・確信)"なのだ。私は著書の中でも書いたが、信仰の究極とは「I AMの実体化」である。前にも書いたが、「ジェホバ」とか「ヤーウェ」と発音される"YHWH"とは神の名であり、意味は「ある」である。「ありてある」とかにするとやや説明調になるので、前にも提案したが、私は「」がいいかと思っている。

この見えない方の第二格位ロゴスが肉体を取られた存在がイエスである。そしてこの方は自分で「わたしはある」と宣言された(ヨハネ8:24,28,58;13:19)。ヘブル11:6には

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。

と冗長な"説明"をしているが、原語的には「神はある」を信じることことだ。神は「」なのだ。あるいは「在現」とも言える。つまり信仰とは時間と空間における、私たちの歴史における「I AMの実体化」である。人類の歴史に、メシアとしてマリアの胎の中に無力な赤子として介入された方が、また私の歴史に、メシアとして私の内に生きる方として介入される。この「在」の実体化こそが私たちの信仰であり、生活であり、私たちの人生であり、これのみが永遠に永らえる。パウロが言うとおり、「生きることはキリスト」である。彼はあらゆる状況で常にキリストを実体化していた。

この時に阻害要因となるのが自己(セルフ)である。私たちは絶えずセルフかキリストかの選択に直面しているのだ(→霊的アイデンティティの確立-キリスト対セルフ-)。すなわち肉とはセルフの実体化であり、信仰とはキリストの実体化である。この「実体化」という概念は昨今のオブジェクト指向言語でも採用されているが、まさに適切な用語と思う(→JAVAと信仰)。

かくしてこの世はセルフのぶつかり合いであるからともかくとして、ニッポンキリスト教の根本病理は、前からずっと指摘しているとおり、「セルフの病理」なのだ。個々の現象をあれこれあげつらったところで、それは「実」に過ぎない。根本にあるのは自分で自分の生存を担保し、自己増殖を試みる動機である。あたかも自分の髪を自分で引っ張って空を飛ぼうとするようなもの。

このために経済・宗教-いずれもセルフがセルフを救うシステム-が偶像となり、またセルフを喜ばせるもの、セルフを増長させるもの、これが肉の欲・目の欲・暮らし向きの自慢の3つのチャネルから侵入する。かくして経済・宗教複合体の侵入により、ニッポンキリスト教は、否、世界的にもバビロン化されてしまっている。キリスト教はまさにセルフの要塞と化し、むしろセルフを否む信仰あるいは福音にとっての最大の障害、あるいは敵にすらなっている。

処方箋は何か。カルト監視団体の強化やカルト専門家のカウンセリングか?アブロリュートリー・ノー!ヴィオロン氏が指摘されるとおり、それはミイラ取りがミイラになる試みに過ぎない。では超民俗化され厳格化されたモーセ律法の適用か。それは狂気である。私たちは原点(xy座標の原点は縦と横のクロス)に戻るべきである。それは十字架、すなわち死と復活の原則である。この十字架による切断のみが真にアダムのものとキリストのものを峻別するのである。今のこの時代においてこの切断を経験することは、セルフにとっては損傷となるが、キリストにとっては大いなる益となる。

選別の時代、切り分けの時代、篩い分けの時代、この困難な時代にあって、肉の痛みを自ら喜んで味わわんとする主にある民が少数でも出ることは、主イエスにとって大いなる喜びにして慰めとなるであろう。

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