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ラダ・ビノード・パールの碑文に思う

パール判事は極東軍事裁判において、日本の正当性を弁護した唯一の連合国側判事だった。あの戦争はアジアの独立を目指したもので、自衛戦争として正当であったと訴えた。また極東裁判自体の正当性に疑義を呈した。要するに勝者による報復的意味を持った、事後法による裁きだと指弾した(勝利は正義と関係ない!)。そのパール判事の顕彰碑文は次のとおり:

激動し変転する歴史の流れの中に
道一筋につらなる幾多の人達が
万斛の想いを抱いて死んでいった
しかし
大地深く打ちこまれた
悲願は消えない
抑圧されたアジア解放のため
その厳粛なる誓いに
いのち捧げた魂の上に幸あれ
ああ 真理よ!
あなたはわが心の中にある
その啓示に従って われは進む
1952年11月5日ラダビノード・パール

まことに格調高い名文なのだが、今回SAPIO誌の小林よしのり氏の記事の、パール博士碑文の原文写真を見て驚いた。この「真理」とある単語は、原文では"Oh, Lord!"なのだ!つまり「おお、よ!」である。もちろん主は真理なのだが、これを日本語で「真理」とすることによって、その原文の意味はまったく損なわれる。これはしばしば邦語訳で行われるトリックで、主ご自身の人格性を排除しようとする動機が感知される。

聖書自体の邦語訳もDr.Kさんが指摘されているとおり、相当に歪曲されたり、あえて誤訳を選んだとしか思えない訳が与えられていることが度々あるが、日本語と言う言語の罠がここにもあったわけだ。真理は日本語で考えた途端に日本語の世界に引きずり込まれ、歪曲と誤解が侵入する。かくしてニッポンキリスト教の壮大なフェイクの体系が構築されるわけだ。この意味で、日本語しか知らない、あるいは日本語でしか思考することができない人々は、大いなる制限と束縛を受けることになる。日本語のギョウカイ新聞や雑誌や翻訳本の世界しか知らないことは、大いなる損失である。言語と精神、あるいは思考。これは霊的歩みを進める上での大きな問題である。

Comment

イザヤ・ベン・ハー

面白いですね。最近のクリスチャンが「イエス」と言わずに、ルークさんがメッセージで揶揄される「神様はぁ~」とする傾向も同じでしょうね。「イエス」と言う名を人前で証しすることは、何となく抵抗感があるのでしょう。

  • 2007/12/05 11:39
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メルポ

ベンガル語→英語→日本語という経緯なのでは?
そもそもパールはクリスチャンではないのでLordという英語表現が不適切なのではないかと。
パールはガンジー主義者であり真理把持という理念を重視したことから真理と訳したのだろうと理解しています。

  • 2008/01/09 20:06
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